優美ながらも手際よく、マルグリットは二杯目を淹れてきた。ぽってりとした白磁のティーポットが机の上におかれる。一杯目は甘やかなクッキーの香りが漂ってきたものだが、今度はまるで違う。ディネルースが感じた香りは、菓子ではなく、普通の紅茶ともほど遠い。
「これは……何だろう。変わった香りだな」
女王の表情は若やいている。
懐かしさを感じてもいる。
思えば亡夫グスタフは、何かというと地域や季節の趣向を凝らした珍しい食べもの、飲み物を用意させていたものだ。自らも美味いものを味わうのを重要な楽しみとしていたが、それだけではなくて、ディネルースを喜ばせようとしてくれた。
ディネルースがグスタフの妃となる前、まだ深い仲になる以前からだ。王族らしい美食や名酒だけでなく、王都の街路樹から採れるドングリを焼いたものに安物の白ワインをあわせた庶民の味なども、グスタフは自ら馬車を降りて買ってきてくれた。彼女が喜び、驚く顔を見て、グスタフが心から楽しげにしていたことを思い出す。いたずらめいた表情のグスタフに未知の食べ物を勧められた時、まだオルクセンに来たばかりのディネルースは「このオークは、我が王は、次は私を何でもって喜ばせてくれる気だろう」と思い、少女のように胸を高鳴らせたものだった。
でも、いま、この二杯目の茶を前にして「懐かしい」と思うのは、そのようなグスタフとの思い出ゆえだけではないような気がした。
青い血管を浮かせた老女の手が動き、ティーポットに籠められたお楽しみを、白地に緑葉をあしらったカップに注いでいく。
ディネルースは下品にならぬ程度に覗き込んだ。
色が違う。紅茶の赤茶色ではない。薄く緑がかった透明さ。そして、この清冽な香り。
気づいた時、ディネルースが座する時空は、星歴九百七十年の応接間ではなかった。
そこは、近くの山から伐り集めた針葉樹材と石だけで建てられた家屋。
室内には、ディネルースが自ら作った木の棚がある。そこには妹たちが編んだ籠、村の陶工が焼いた壺などがあり、保存食や薬草類が入っている。乾いた草木の匂いが常に室内に漂う、ディネルース・アンダリエルの生家だった。
「これは——」
現代の応接間に帰還したディネルースは、マルグリットに言った。
「あててみよう。私はこれを知っている……」
ディネルースは記憶の糸を辿る。グスタフと出会うよりも昔、ベレリアント半島の山村スコルで暮らしていた彼女は、この匂いを毎日のように嗅いでいた。
いまマルグリットがしたように、煎じて茶にしたこともある。
どのような時に?
すぐさま思い出す。妹たちが熱を出したり、体調を崩した時である。これは、
「カモミール。それに……オルク語で何と言うかは分からないが、薬効のある白い花だな?」
そう聞くと、マルグリットはニッコリと笑った。
「エルダーフラワーと申します」
「ニムルスというんだ。アールヴ語では」
ディネルースは語るともなく語った。
「私が生まれたのは、ベレリアント半島のスコルという村でな。山あいの貧しい村で……」
ディネルースの茶褐色の手がカップを持ち、ゆっくりと口に運んだ。
「これに似た味の花を乾かしてな。冬になると煮出した。誰かが風邪を引いた時には薬の代わりに」
すっとする爽やかな香りが胸に満ちる。口中は、薄い甘味と清々しい香りだ。
懐かしい記憶が彼女に流れ込んでくる。
干した薬草。あの頃、薬などは買えなかった。
目にしみる薪の煙。ガスだの電気だのは、無論、あの村にはなかった。
粗末な食事。だが、皆で山と畑で採ったものから、皆で作った。
寒い夜。それでも炎を囲み、皆で夜話をして過ごしたものだった。
もう一口を味わう。薄い甘味はハーブ自身のものである。それも、あの頃と同じ。
「そうだった。砂糖など滅多に使えなくてな」
「では蜂蜜を?」
「蜂蜜も貴重だった……今思えば、ずいぶん薄い茶だったな」
そう言って少し笑う。
身体が温まり、ほぐれていくのを感じた。
無意識に固まっていた肩と首から、ストンと力が抜け、自分が緊張していたことに気づいた。
ディネルースはカップを置き、少し首を傾けた。
「さっきまで、ここが痛かった。知らぬうちに固くなっていたらしい」
「お茶のおかげでしょうか」
「さてな。貴女の魔法かもしれん」
「でしたら、お茶ということにしておきましょう。スコルの村には、その後は……?」
マルグリットは微妙な話題に触れた。ディネルースたち闇エルフが、白エルフから虐殺に遭い、故郷を追われてオルクセンに亡命してきたのだとは、有名な話である。
だが、その後のベレリアント戦争で、ベレリアント半島はあげてオルクセンの一部となった。無論、スコルの村もである。
「一度、戦争中に」
ディネルースは思い出す。アンファングリア旅団を率い、種族の復仇のためにエルフィンドに攻め入った日のことを。電撃のような進撃で、村から村へとオルクセンの旗を立てて進み、ついにスコル村に達した。
そこに生えていたディネルースの母樹は既に切り倒されていたが、家々はそのままだった。彼女の生家もである。入植してきた白エルフの村長の家として使われていた。その一夜だけは生まれの家で眠ったが、部下の目がないのを幸い、声を抑えて枕を濡らしたものだった。
「その後、スコルには行っていない」
帰っていない、とは言わなかった。
オルクセン王国が戦争に勝利した後、ディネルースを始めとする闇エルフ族には、故郷に帰還して村々を再建する道も、なくはなかった。
だが彼女らの信仰の上からは、生まれの母樹あってこその故郷である。そのほとんどを切り倒された土地に今さら戻っても、惨劇を日々思い出すだけの毎日になってしまう。
そのくらいならばと、大半の闇エルフ族はディネルースに従い、あらたな故郷たるオルクセン本土に帰還して、住み続けることを決めたのだ。
特にディネルースには、そうするべき明確な理由があった。伴侶グスタフ・ファルケンハインの存在である。だから、
「私の故郷は、もうここだ」
でも——と、ディネルースは内心で続けた。
彼女らに新たな故郷を提供し、ディネルース自身にとって帰るべき場所そのものだった夫は、数十年前に世を去った。
その時、ディネルースには選択肢があった。王妃の位から退いて、今度こそ故郷ベレリアントに戻るという道である。
だが、彼女はそうしなかった。重臣たちの控えめな懇請を受け入れ、女王として即位し、オルクセン連邦の象徴という義務を夫から引き継ぐことに決めたのだ。
スコルの村はもう、入植してきた白エルフのものとなっている。
「後悔はない。もう一度、百年前から生をやり直すことができたとしても、同じ選択をすると思う。しかし、もしも、あの頃のスコルに一日だけでも戻れるなら……」
そこで言葉を失ったディネルースは、誤魔化すように、故郷の香りをもう一口味わった。
カモミールの柔らかな甘い香り。村の小さな畑、干し草の匂い。
エルダーフラワーの清々しさ。厳しい山から吹き下ろす風。風に揺れる樹々、その瑞々しさ。
その奥に微かに感じる、野の花の香り。ヒースだろうか。都会の花屋では出会えない、野に咲く花だけが持つ儚さと強さ。
ふっーーと溜息をつくと、懐かしい香りと記憶が彼女を包み込んだ。まぶたの周りがじんわりと熱くなっていく。
失ったものがある。二度と帰らない日々がある。
懐かしい日々の思い出に浸れる哀しみもまた、自分の選択の結果なのだ。そうだとすれば生きるとは、失うということを得るためにあるといっていい。
「あの頃は……今も、かけがえのない私の一部だ」
ディネルースは心から言い、胸を満たす哀切と歓喜を味わった。
目尻から一筋の涙がつたうことを、恥ずかしいとは思わなかった。
それを指で拭いつつ、ディネルースは心から人間の老女に感謝した。
「ありがとう、マルグリット殿。素晴らしい一服をさせてもらった」
「女王陛下」
マルグリットは立ち上がり、膝を軽く折る礼をした。
「恐懼の極みにございます。それではご出発の前に、最後の一杯をお持ちしましょう」
(次話「三杯目 グッド・オールド・デイズ」に続く)