深夜二時。
暗い部屋の中、モニターの青白い光だけが絵名の顔を照らしていた。
画面の向こう、ナイトコードのボイスチャンネルから落ちてきたのは冷たい氷のような声だった。
『…絵名。今回のMV用のイラストだけど』
奏の静かな声。
だが、それに続いたまふゆの言葉が、容赦なく絵名の胸を抉った。
『これ、本当に絵名が描いたの?』
『……え?』
『綺麗にまとめようとして、何も伝わってこない。……私、これ見ても何も感じない』
悪意のない事実だけの言葉。
だからこそ逃げ場のない刃となって絵名の心臓に突き刺さる。
『雪、ちょっと言い方が……!』
『でも、本当のことだし。
Kの曲の邪魔になってる』
瑞希の制止も虚しく、まふゆの言葉が頭の中で反響する。
昼間、絵画教室での雪平先生に言われた『技術が足りないですね』という評価。
コンクールの無機質な落選通知。
それがすべて重なりドロドロとした暗い感情が渦を巻く。
「……ごめん。描き直すから。
少し時間...もらえる?」
それだけ言うのが限界だった。
返事を待たずにボイスチャンネルを切る。
「……ッ、なによ……なんなのよ、みんなして……!」
ペンタブのペンをデスクに叩きつけ、
両手で顔を覆った。視界が歪みポロポロと涙がこぼれ落ちる。
(ここにいたら、壊れる……)
渋谷にいれば、いつ瑞希や奏に会うか分からない。落胆の声や、まふゆの何も感じないという言葉が頭から離れず、息がうまく吸えなくなる。
お父さんの視線も、今の自分には耐えられない。
誰も私を知らない場所へ行きたい_________
私のヘタクソな絵も、届かない苦しみも誰も知らない場所へ。
——けれど、絵を捨てることだけはどうしても出来なかった。
_________
早朝。
まだ薄暗いリビングに降りると、キッチンに立っていたお母さんが振り返った。
パンパンに膨らんだ鞄。そこに突っ込まれたスケッチブックとキャンバスや絵の具。
そして、真っ赤に腫れ上がった絵名の目を見てお母さんは息をのむ。
「絵名……?そんな大きな荷物、どこか行くの?」
「ちょっと、遠くまでスケッチに行ってくる
数日……帰らないかも」
絵名は俯いたまま、消え入りそうな声で答えた。
高校生の女の子が突然行き先も言わずに数日帰らないなんて言えば、普通なら絶対に止められる。けれど、絵名の必死に唇を噛み締める横顔を見て、お母さんの胸にあの頃の記憶が鮮明に蘇っていた。
お父さんから「才能がない」と突き放され
期待していた美術科の高校にも落ちて、自暴自棄になって泣き叫んでいた中学時代の絵名。
あの時、絵名はぐちゃぐちゃに汚れた絵の具も筆もキャンバスも、全部黒いゴミ袋に叩き込んで、「もう描かない!全部捨てる!』と叫んで外へ飛び出したのだ。
けれど——お母さんは、そのゴミ袋を捨てなかった。
絵名に隠してクローゼットの奥にそっと残しておいた。
案の定、数日後にボロボロになって部屋に戻ってきた絵名は、爪が割れるほど必死になって自分の絵の具を探し回り……お母さんが差し出したゴミ袋を抱きしめて、声を上げて泣いたのだ。
(あの子は……どれだけ打ちのめされても、絵から離れられない)
「絵名」
お母さんは静かに歩み寄ると、絵名の震える手から大きな鞄をそっと受け取り、持ちやすいように整えてあげた。
「あのね、絵名。お母さん絵の詳しいことは分からないわ。お父さんみたいに厳しいことも言えない」
「……」
「でもね。あなたが中学のとき全部投げ捨てようとした時のこと覚えてる?」
絵名がハッと息をのんで顔を上げる。
お母さんは優しく、けれど全てを見透かすような温かい瞳で絵名を見つめ返した。
「あの時、あなたが捨てるって言った絵の具…
お母さん捨てずに取っておいたでしょ。……なんでか分かる?」
「……お母さん……」
「あなたがどれだけ傷ついても、どれだけ泣いても絶対に絵を諦めきれないってお母さん知ってたからよ。あなたはそういう子だから」
「っ……」
「だから今回も、逃げるためだけに行くわけじゃないんでしょ?自分の絵を取り戻しに行くんでしょ?」
お母さんは財布から紙幣を取り出すと、絵名の手にしっかりと握らせた。
「行きなさい。誰もあなたのことを知らない場所で気が済むまで描いてきなさい。
そして、あなたが『これだ』って思える絵を描けたら胸を張って帰ってきなさいね」
「……ッ、……うん!行ってきます……っ!」
溢れ出しそうになる涙を腕でゴシゴシと拭い、絵名は家を飛び出した。
夜行バスと電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは、渋谷の喧騒とはまるで違う空気を纏った
______冬木市だった。
潮風と、どこか不穏な静けさが漂う異郷の街。
誰の目も届かないこの街でなら私はもう一度、死ぬ気で自分だけの絵を描き直せるだろうか。
過去の傷も、
届かない苦しみも、
諦めきれない執念もすべて抱えて
東雲絵名の逃避行が始まった_________