トントンッ、
と小さなノックの音。
「マスター…氷と、冷たいお水を買ってきました」
おどおどとした声とともに、買い出しのポリ袋を抱えたゴッホがホテルの部屋へ戻ってきた。
室内はしーんと静まり返っている。
ベッドに視線を向けると、絵名はシーツを軽く体に掛けたまま疲れ果てたように小さな寝息を立てていた。
両目の激痛と結界で削られた体力の限界。
そして一人で耐えていた葛藤の果てに、落ちるように眠ってしまったのだろう。
泣き腫らしたあとのようにまつ毛がかすかに
濡れて光っていた。
「よかった。眠れたんですね……」
ゴッホは足音を立てないよう静かに忍び足で歩き、買ってきた氷嚢とペットボトルをテーブルの上に置いた。
夕闇が深まり、窓の外からは黄昏の光が差し込んでいる。
ゴッホはそっと手を伸ばし部屋の遮光カーテンを引き寄せた。
——シャッ。
薄暗くなる室内。
だが、カーテンを閉め切る直前。
「……んッ!?」
ゴッホの背筋に、氷を突きつけられたような鋭い戦慄が走った。
ゾワリと、肌が泡立つような嫌な感覚。
それは魔力感知などという生ぬるいものではなく自らの歪んだ存在——星の隙間に蠢く邪神の知覚が捉えた、「遥か遠くからの鋭い視線」の気配だった。
(なにか...だれかが遠くから…この部屋を見ている……!?)
慎二やライダーの気配ではない。
もっと静かで冷徹で、正確無比な「観察者」の目。
ゴッホは一瞬だけ瞳を怪しく黄色に発光させ、カーテンの隙間から新都の高層ビル群を睨み据えた
相手はこちらの警戒に気づいたのか、あるいは最初からただの視察なのかそれ以上の踏み込みは見せてこない。
(マスターを守らなきゃ……でも、今ここで騒いだら、疲れ切ったマスターを起こしてしまう…)
ゴッホは息を殺し、ゆっくりと遮光カーテンを完全に閉め切った。
外からの視線を遮断し、部屋は静かな暗闇に包まれる。
「……ふぅ……っ……」
胸を押さえ、安堵の溜息をつくゴッホ。
気配の正体は分からない。
けれど、自分たちがこの街の「何か」にマークされ始めていることだけは確かだった。
静まり返った部屋の中、ゴッホは吸い寄せられるようにベッドの脇へと歩み寄った。
小さなサイドテーブルの上。
そこには、絵名が冬木市に持ち込んできた少し使い込まれたスケッチブックが置かれていた。
「マスターの……お絵描き……」
ゴッホは唾を飲み込んだ。
サーヴァントとして召喚されてからずっと、絵名がどれほど絵に執着し、どれほど自分の「才能のなさ」に苦しんでいたかを見てきた。
さっきの魔眼の覚醒でも、彼女は「欲しかったのはこんな力じゃない」と心の中で血を流していたはずだ。
ゴッホは恐る恐る、細い指先でスケッチブックの表紙をめくった。
パラリ……と、紙がめくれる音。
そこに描かれていたのは——冬木に来る前、彼女が自宅や街中で描き殴っていたであろう、途方もない数のデッサンとクロッキーだった。
何枚も、
何枚も描かれた空の雲。
カフェのテーブルに置かれたりんごや
パンケーキ。
何度も描き直され、消しゴムで紙が擦り切れそうになっている人物のポーズ。
天才的なひらめきや、神に愛されたような圧倒的な色彩感覚……そういう「奇跡」のようなものは、確かにここにはないかもしれない。
_________けれど。
(……すごい……)
ゴッホの瞳が、暗闇の中で震えた。
紙の一枚一枚から立ち昇ってくるのは、滲み出るような怨念に近い情熱と足掻きだった。
上手くなりたい。
届けたい。
自分の存在を___この手で証明したい。
上手くいかない悔しさに涙をこぼしながら、それでも絶対に筆を置かなかった人間の「執念」が、黒い鉛筆の線となってキャンバスに叩きつけられていた。
「すごいよ…マスター。
こんなに、こんなに自分を削って描いているのに……」
自身もまた生きている間は評価されず、狂気と情熱の中で絵の具をキャンバスにぶつけ続けた「ゴッホ」。
だからこそ分かる。
このスケッチブックに詰まっているのは、冷酷な「魔眼」なんかじゃない。
血の通った、美しい「表現者の魂」そのものだということが。
「あなたの絵には……ちゃんと、命があるのに……っ」
ゴッホはスケッチブックを胸にぎゅっと抱きしめ、眠る絵名の顔を見つめながらボロボロと
大きな涙をこぼした。