「ねえ。ちょっと座って」
絵名はベッドの端に腰掛け、膝の上でスケッチブックを開きながら部屋の隅で小さくなっていたフォーリナーを指差した。
「えっ……!?あ、あの、座るですか? わたしのようなものが、マスターと同じ目線に並ぶなんておこがましいというか……っ!」
「うるさいわね、いいから座るの。
あんたを描くんだから」
「……え?」
フォーリナーがぽかんと口を開けた。
絵名は痛むおでこを指先で押さえながら、気まずそうに視線を逸らす。
「聖杯戦争だか何だか知らないけど......これから一緒に戦うんでしょ。相手の顔もろくに描けないような状態で背中なんて預けられないわよ」
_______違う。
本当はあの夢で見た「黒い海の底で泣いていた少女」の姿が胸に引っかかっていたからだ。
でも、そんな柄にもない理由を口にするのは恥ずかしくて絵名はわざと突放すような言い方をした。
フォーリナーはおどおどとしながらも言われた通り丸椅子を引き寄せ、絵名の正面にちょこんと腰掛けた。
「あの…本当に、わたしなんかでいいんですか……?もっと綺麗な花とか風景とかじゃなくて」
「つべこべ言わない。…じゃあ、動かないでよ」
絵名は鉛筆を握り締め、真っ直ぐにフォーリナーを見つめた。
(……まずは、輪郭から)
鉛筆の先を紙に滑らせようとした——その瞬間だった。
ズキリ、と頭蓋骨を直接殴られたような激痛が走った。
「っ……!!」
(なによ……これ……っ!?)
眼球の奥が焼きつくように熱い。
能力を使おうなんて思っていないのに、さっきの死闘で開いてしまった「魔眼」の感覚が、絵名が観察しようと集中した瞬間に記憶のフラッシュバックのように勝手に跳ね上がってしまったのだ。
視界が不気味に明滅する。
目の前に座っている気弱な少女の背景に目には見えないはずの「不気味な黒い線のレイヤー」が渦を巻いて視えてしまう。
星の歪み、
魔力の異常な密度の偏り、
そして——
狂気のような影。
「くっ……あ、はぁ…っ……!」
「マスター!?大丈夫ですか、やっぱり目がっ!」
「動かないでっ...」
立ち上がろうとしたフォーリナーを一言で制し、絵名はぎゅっと両目を瞑った。
(使いたくない…!こんな目、頼んでないッ!)
荒い息を吐きながら、必死に目の奥の熱を押し込める。
何度も深く息を吸いただの
「東雲絵名」の視界を取り戻すために歯を食いしばる。
ゆっくりと目を開ける。
不気味な歪みのレイヤーは消え、そこには冷や汗をかいて絵名を心配そうに見つめるただの華奢で頼りない少女が座っていた。
「…はぁ……はぁ…。よし……」
(見えたわよ、さっきの)
魔眼は閉じた。
けれど、一瞬だけ視界に焼き付いてしまった「フォーリナーの背後に蠢く黒い渦」の残像は
脳裏から離れなかった。
普段の絵名なら、目の前にいる少女をただ「デッサン通り」に綺麗に描こうとしただろう。
でも——今の絵名には分かってしまった。
この少女の本質はただの可愛らしい皮肉や気弱さだけじゃない。その背後に、途方もない「歪みと狂気の影」を背負っているのだと。
(綺麗に描くだけじゃ……駄目なんだ)
父親に言われた言葉。
まふゆに突きつけられたトラウマ。
自分の絵には、
命がない。
毒がない。
技術がない。
表現がない。
そうやって言われ続けて泣いてきた。
「……救うとか、そんなの知るか」
絵名は低く呟くと、一心不乱に鉛筆を紙に走らせ始めた。
カリカリカリ、と静かな室内に鉛筆の削れる音だけが響く。
魔眼なんて使わない。
自分の手で自分の紙と鉛筆で、さっき一瞬視えてしまったあの子の「不気味な影」を、
この手で解剖してキャンバスに叩きつける。
少女の華奢な輪郭。
不安げに揺れる瞳。
そして、その背後にうねる黒く塗り潰されたような不気味な線の狂気。
「マス...ター……?」
フォーリナーは息を呑んで絵名を見つめていた。
汗を流し唇を噛み締め、両目を真っ赤にさせながらスケッチブックに向かう絵名の姿。
そこにいるのは魔術師でもマスターでもない。
苦しみに悶えながら、それでも表現することを絶対に諦めない——「一人の絵描き」の姿だった。
「…出来たわ」
十数分後。
絵名は擦り減った鉛筆を置くと、バサリとスケッチブックをフォーリナーに向けた。
そこに描かれていたのは——
綺麗なお仕着せのデッサンではない。
頼りなく座る少女の姿と、その背後で渦を巻く恐ろしくもどこか美しい「黒い狂気の影」だった。
「……っあ……」
フォーリナーの顔から、スーッと血の気が引いていく。
(見られていた…わたしのなかの、気味の悪い
狂った影……。邪神の……邪悪な気配……)
嫌われる。
捨てられる。
「不気味な化け物」だと蔑まれて拒絶される。
フォーリナーは恐怖で体を震わせ、ぎゅっと目を瞑った。
「ごめんなさい……
ごめんなさい!わたし、こんなに気味が悪いんです!わたしの中には、こんな恐ろしいものが棲みついていて……っ!」
「なによそれ」
絵名の冷ややかな声が落ちてきた。
「……え?」
恐る恐る目を開けると、絵名は不機嫌そうに鼻を鳴らし自分の描いたスケッチを睨みつけていた。
「下手くそね。…線の重ね方も甘いし影の密度も全然足りてない。あなたの背中にあったあの気味の悪い渦、半分も描けてないわ」
「え……あ……」
「でも」
絵名はスケッチブックを抱え直すと、まっすぐにフォーリナーの目を見つめた。
「これが、今の私の精一杯。……あんたのその
不気味で狂ってる本当の姿よ」
「……っ」
「綺麗に描いて誤魔化すつもりはないわ。
あんたがどれだけ不気味な影を抱えてようが
私はそれを真っ向から描く。……嫌なら、もっと描きやすいモデルになってみなさいよ」
フンと息を吐く絵名。
フォーリナーは胸を強く打たれたように固まっていた。
気味が悪いと排除されるのではない。
恐ろしいと逃げられるのでもない。
この人は——自分の不気味な狂気ごと、真っ向から見つめて、「絵」として受け止めてくれたのだ。
____生前、誰からも理解されず狂人として扱われ、孤独の中に消えていった「記憶」。
それが今、目の前の少女の粗削りな鉛筆の線によって優しく解き放たれていく感覚がした。
「……あ…あぁ……っ……」
フォーリナーの瞳から、ポロポロと大きな涙が溢れ出した。
「な、なに泣いてんのよ…だから言ったでしょ
下手くそだって!」
「ち、ちがいます。うぐっ、ひっ……!下手なんかじゃ……ありません…っ!わたしこんなに恐ろしいのに描いてくれた……っ!あなたの絵には……ちゃんと…命があります……っ!」
ボロボロと涙を零しながら、フォーリナーは何度も何度も頭を下げた。
絵名は困惑したように顔を背けたが、その耳たぶは少しだけ赤くなっていた。
「……バカみたい。次はもっと上手く描いてやるんだから、覚悟しなさいよ」
魔眼に振り回されそうになりながらも、自分の手でゴッホの「狂気の影」を描き切った絵名。
そして、その絵を通して自分の存在を丸ごと受け入れられた。