「はぁ。絵の具買いに行くのもこんなに心配しなきゃいけないわけ…?」
絵名は手に持った画材屋の袋を軽く揺らしながら、小さく溜息をついた。
スケッチブックの代わりに買った新しいクロッキー帳と水彩絵の具デッサン用鉛筆。
そのすぐ後ろを、ゴッホが大きめのパーカーのフードを深くかぶり周囲を警戒するようにキョロキョロとしながらついてくる。
「ひ、絵名さん…あまり目立つ行動は……街にはまだ、他のサーヴァントの目がありますっ!」
「大丈夫よ。
ほら、そんなに肩をすくめてたら逆に目立つんだから。…はい」
絵名は足を止めると、バッグから買ったばかりの温かい缶ポタージュを取り出してゴッホの手に握らせた。
「え…っ、これ…わたしに……?」
「顔色、まだ青いわよ。一口飲んで落ち着きなさい」
「うぐっ…マスター自ら、こんな落ちこぼれに温かいおスープを恵んでくださるなんてっ!」
「大げさねぇ……いいから飲みなさいって。
あんたが倒れたら私が困るんだから」
絵名はふっと柔らかい苦笑いを浮かべ、ゴッホのフードの上からぽんぽんと頭を撫でてやった。
「戦うにしても、情報を集めるにしても
まずはちゃんとお腹を満たして、体力を戻さないとね。……さあ、ホテルに戻って作戦会議よ」
「……っ…はい…!マスター……!」
小さく頷くゴッホ。その目には頼もしいマスターへの深い信頼が宿っていた。
だが——
その穏やかな空気は一瞬で切り裂かれた。
(……ッ!?)
ゴッホの背筋に、冷や汗が吹き出すような強い圧迫感が走る。
以前感じた「遠くからの視線」ではない。
すぐ近く——このアーケードの目と鼻の先に
明確な意図を持った「魔術師」の気配が接近してきていた。
「マスター、止まって……!前から……っ!」
ゴッホが絵名の袖を強く引っ張ると同時に、カフェの角から一人の少女がすれ違いざまに足を止めた。
黒髪をツインテールに結び、赤いトッパーコートを着た少女——遠坂凛。
「あら。ごめんなさい、ぶつかりそうになっちゃったわね」
凛は整った顔立ちに完璧な愛想笑いを浮かべ、絵名たちを振り返った。
その視線は一見するとただの女子高生だが
その瞳の奥には冷徹な魔術師としての「観察眼」が光っている。
(この子ね。新都で結界を叩き潰した、
正体不明のマスター……!)
凛はアーチャーからの報告を元に彼女たちの足取りを追っていた。
魔術回路の痕跡すら感じられないただの一般人の少女。
そして、その背後に隠れるように佇む奇妙で
不気味な気配を纏った小柄なサーヴァント。
(間違いなくサーヴァントを連れてる...けど、
この威圧感のなさ。一体何のクラスなの?)
一方、絵名もまた目の前の少女から漂う「只者ではない空気」を鋭く察知していた。
(何…この子。
すっごく綺麗で洗練されてて……お父さんの個展に来る『本物の客』みたいな気品がある)
一瞬の静寂。
アーケードの雑踏の中で二人の女子高生の視線が交錯する。
「……気にしないで。こちらこそ」
絵名は短く答えると、関わり合いを避けるように歩き出そうとした。
しかし凛は自然な動作で一歩前に、絵名たちの進路を緩やかに塞いだ。
「ねえ、あなた。
見かけない顔だけど?私は遠坂凛。
ちょっと気になったんだけど……そのお連れさん、顔色がすごく悪そうじゃない?」
凛の視線が、絵名の後ろで震えているゴッホへと向けられる。
「……っ!!」
ゴッホは息を呑み、絵名の陰へとさらに身を隠した。
サーヴァント同士の直感が告げている。
目の前の少女の背後——目視できない高層ビルの屋上から、凶悪な威力の『弓』が自分たちの心臓を正確に狙い定めていることを。
(遠くからの狙撃!アーチャーか...構えをとっている……!動きを誤れば、一瞬で射抜かれる…)
冷や汗を流すゴッホの様子を見て絵名の眉間がつり上がった。
(なによ、この人。
ただの世間話のフリして探りを入れてきてる……!?)
魔術師としての経験も知識もない絵名。
けれど、彼女には父親の業界や学校で培った「他人の意図や悪意に対する、鋭すぎる感性」があった。
凛の言葉の裏にある「ただの親切心ではない、冷酷な品定め」を絵名は見逃さなかった。
「私の連れがどうかした?」
絵名は踏み出し、凛の正面に立ちはだかった。
「顔色が悪いのは生まれつきよ。放っといてくれない? 私たちこれから用事があるの」
「あら、そんなに警戒しないで。ただ……最近、この街物騒な事件が多いでしょう?夜遅くに歩き回るのは危ないわよっていう、ただのアドバイス。……特に、『目立っちゃった』人たちはね」
凛の言葉に、密かな毒が混じる。
『目立っちゃった』——昼間の新都での戦いを指しているのは明らかだった。
(…っ...この人!やっぱり知ってて近づいてきたんだ……!)
絵名の胸に、フツフツと激しい対抗心が湧き上がった。
完璧で余裕があって、上から目線でハッタリをかましてくるこの少女。
自分の絵を「何も入っていない」と見下してきた批評家たちの顔と重なった。
(負けるか……っ!聖杯戦争だか何だか知らないけど。私とこの子をナメんじゃないわよ……!!)
絵名はカッと両目を開き、凛を真っ向から睨み据えた。
その瞬間——
(……えっ……!?)
凛は思わず息を呑んだ。
一瞬、絵名の瞳の奥で幾何学的な「レイヤーの歪み」が不気味に明滅した気がしたからだ。
魔眼の完全な発動ではない。
けれど、絵名が覚悟を決めたことで彼女の
「観察眼」が凛の立ち姿、重心の位置。
そして「背後に潜むアーチャーからの見えない射線」の歪みすらも、感覚的に捉えて見せたのだ。
「アドバイスどうも。
でも、自分の身くらい自分で守れるわ」
絵名は低く、凛の目をそらさずに言い放った。
「誰に冷笑されようが、バカにされようが……
私たちは退くつもりなんてないから」
「……っ……」
凛はその圧倒的な意地と鋭い眼光に気圧され、思わず半歩後退した。
ただの素人。
ただの巻き込まれた一般人。
そう踏んでいたはずの少女から溢れ出す、折れない人間の強靭なプライド。
「…そう。
なら、余計なお世話だったわね」
凛はフッと表情を和らげると、道を譲るように横へ退いた。
「気をつけて帰りなさい。
冬木の夜は、あなたが思っているよりずっと残酷だから」
「言われなくても」
絵名はフンと鼻を鳴らすとゴッホの手を引いて、そのまま立ち去っていった。
二人を見送ったアーケードの陰で凛はハァッと溜息をつき、
『アーチャー。見えた?』
『ああ、完璧に交戦を回避されたな。
...凛。あの少女、お前のアプローチを完全に
敵対的な探りだと見抜いていたぞ』
アーチャーの声には、呆れと少しの感心が混ざっていた。
『魔術師の気配すら殺せていない素人だが、
あの『目』と腹の括り方は本物だ。
安易に手を出せばこちらの手傷もタダでは済まないな』
「ええ。ただの巻き込まれた被害者かと思ってたけど……あの子、自分の意志で戦場に留まる気よ」
凛は絵名たちが消えていった曲がり角を見つめ、苦笑いを浮かべた。
「あんなに負けん気の強い一般人、衛宮くんとはまた違った意味で頭が痛いわね……」