買い出しから戻り、束の間の静けさに包まれていたホテルの室内。
買ってきた缶ポタージュを飲み干し、少し表情の柔らかくなったゴッホがテーブルの画材を物珍しそうに眺めていた。
「マスター!この新しいデッサン鉛筆、すごく書きやすそうです……」
「そりゃそうでしょ。私の一番お気に入りのメーカーなんだから。今度……」
『——あら。せっかくの団らんの邪魔をしてしまったかしら?』
ふいに、頭上から艶やかで冷たい女の声が響いた。
「「っ!?」」
部屋の空間がぐにゃりと歪む。
天井近くの暗闇から現れたのは、黒いローブを深々と羽織り妖しい杖を手にした——キャスターだった。
「な、なに……!?どこから入ってきたのよ!」
絵名は息を呑み、反射的にゴッホの前に躍り出た。
窓もドアも施錠されている。
それなのに、彼女は空間そのものを切り裂いて部屋の内部へ直接侵入してきたのだ。
「驚くことはないわ、幼いマスター。……新都での戦い見させてもらったわよ。
魔術の知識すら持たない一般人の小娘が、その『魔眼』ひとつでサーヴァントの動きを捉えるとはね」
キャスターの紫色の瞳が、フードの奥で冷酷に細められる。
「不気味な気配を纏ったサーヴァント。
そして覚醒したばかりの無防備な魔眼……ふふ、聖杯戦争のド素人が持っていい品物ではないわ。そこのサーヴァントの魔力と共にその『目』私が有効活用してあげる」
「……はっ!」
絵名の額に青筋が浮かんだ。
キャスターの言葉の端々に滲む、「持たざる者」「ド素人」「奪って利用してやる」という圧倒的な見下し。
それは、絵名がこれまでの人生でずっと投げつけられ踏みにじられてきた拒絶の言葉そのものだった。
「ちょっと、人の部屋に勝手に上がり込んできて、なに寝ぼけたこと言ってんのよっ...」
「マスター、危険です!あの女尋常じゃない規模の魔術師です……っ!」
ゴッホが怯えた声で絵名の服の裾を引く。
だが、キャスターは嘲笑うように杖を軽く一振りした。
「『竜の牙』——踊りなさい」
パキパキパキッ!
と床が鳴り、部屋の影から白骨で形成された異形の兵士たちが数体ヌッと姿を現した。
鋭い骨の剣を掲げ、絵名とゴッホを取り囲む。
「無駄な足掻きはお止めなさい。命までは取らないわ。おとなしく私の人形になりなさいな」
「人形……?」
絵名は拳を固く握り締め、全身の血が逆流するほどの激しい怒りに体を震わせた。
(見知らぬ街の人間がどうなろうと、
知ったことじゃない)
(でも…せっかくこの子とわかりあえて
自分の手で、諦めずに描いていこうって決めたのに……!!)
「ふざけんんじゃないわよッ!!」
絵名の叫びが、狭いホテルの部屋に轟いた。
「自分のものも守れないで……何が絵描きよ!何がマスターよ!奪えるもんなら奪ってみなさいよ、この偽者ババアッ!!」
「……なんですって?」
キャスターの顔から笑みが消え、冷酷な殺意が宿る。
「フォーリナーッ!!」
「は、はいっ!マスター!!」
「あいつらの動き、今から見るから!
私の言う通りに筆を振るって!」
絵名は激痛を覚悟の上で、カッと両目を限界まで見開いた。
——ズキィィィンッ!!
脳髄を直接灼かれるような強烈な眼痛。
けれど、もう先ほどまでの「使いたくない」という迷いはなかった。
ゴッホを守るため。自分たちの命とプライドを泥靴で踏みにじる奴に噛み付くため——自らの意志で『魔眼』の焦点を合わせる!
「見える……ッ! 左の骨、右の奴より半歩踏み込みが遅い!フォーリナー、左の足を薙ぎ払いなさい!!」
「『狂気の黄(ヴァン・ゴッホ)』——ッ!!」
絵名の正確無比な指示を受け、ゴッホが叫びながらキャンバスの足場を跳ねさせた。
黒い絵の具のような触手が空間を奔流となって駆け抜け、指示された「隙」を正確に穿つ
ドガァァァンッ!!
部屋の中で、竜の牙の兵が一瞬で粉砕された。
「...なっ!?」
キャスターの表情が引きつる。
素人のはずのマスターが、一瞬で自軍の陣形と攻撃の『死角』を見抜き、完璧なカウンターを指示してみせたのだ。
「アンタの魔術の繋ぎ目も……ぜんぶ丸見えよッ!あの女の杖の先を狙ってーーーっ!」
「はいッ! マスターーーーッ!!」
理不尽な襲撃者を相手に、絵名の「観察眼」とゴッホの「表現力」が噛み合い反撃の咆哮が響き渡る——
「くっ……!まさか、ただの小娘がここまで私のアリストテレスを正確に破るとは……ッ!」
ゴッホの放った黒い触手の奔流が、キャスターの周囲に展開されていた防御魔術を強引に削り取る。
一瞬の隙。
絵名の魔眼が捉えた「最善の攻め筋」に沿って繰り出される容赦のない一撃にキャスターは苦々しく顔を歪めた。
「…ええい、無駄な消耗は避けるべきね。
仕切り直しよ」
キャスターは忌々しそうに吐き捨てると、空間を歪ませて即座にその姿をかき消した
残された白骨の残骸も魔力の霧となってサーッと空気中に溶けて消えていく。
「はぁ…っ!はぁ……っ……!」
静まり返ったホテルの部屋。
激痛に耐えていた絵名は両目を手で覆いながらその場にへたり込んだ。
「え、マスター...っ大丈夫ですか!?」
ゴッホが慌てて駆け寄り、絵名の肩を支える。
「…逃げたわね、あのババア」
絵名は低く呟いた。
悔しかった。自分たちの居場所を荒らされ、
あれだけ見下しておいて都合が悪くなったら煙のように消えていく身勝手さに腹が立った。
だが——不意に、自分の指先がガチガチと激しく震えていることに気づく。
(……怖い……)
頭では退けたと分かっていても、心臓が痛いほど脈打ち冷や汗が止まらない。
さっきまで目の前にあったのは、本物の殺意だ。
一歩間違えれば自分もゴッホも一瞬で「人形」にされるか、命を奪われていた。
ついこの前まで、放課後にカフェでケーキを食べたりニーゴの作業で絵の遅れに焦っていただけの普通の日常。
そこからかけ離れた「命の殺し合い」という現実の重みが、ずっしりと絵名の肩にのしかかってくる。
「っ……あ…っ……」
「マスター、ごめんなさい…わたしが、頼りないから……っあなたにこんな恐ろしい思いをさせて!」
自責の念で涙をこぼすゴッホ。
その声に、絵名は震える手で自分の頬を思い切り両手で叩いた。
——パァンッ!!
「な、何泣いてんのよ、バカっ」
激しい音とともに頬を真っ赤にした絵名は涙目になりながらもゴッホを強く睨みつけた。
「恐怖で足がすくんだくらいで…泣くわけないでしょ…負けてない。私たちはちゃんとあいつを追い返したんだから……!」
震える身体を必死に抑え込み、意地とプライドだけで立ち上がる絵名。
強がりと等身大の恐怖と戦う姿に、ゴッホは息を呑んだ。
「こんなところで折れてたまるか。
行くわよ、フォーリナー。あのババアに居場所がバレた以上このホテルももう潮時ね」
「……っ…はい!どこまでも、ついていきます
マスター!」