「とにかく、ここに居続けるのはマズいわね。
あのババアいつ手下を送り込んでくるか分からないし」
絵名は画材や着替えを急いで鞄に詰め込みながら、悔しそうに歯噛みした。
「せっかくお母さんが気を利かせてネットでカード決済して、未成年の宿泊同意までホテルに連絡しておいてくれたのに……」
だが、もうこの部屋は魔術師に特定された。
「マスター。別のホテルをお母様にもう一度頼むことは……」
「無理に決まってるでしょ。こんな夜中に『急にホテル変えたい』なんて言ったら絶対に怪しまれるわ。下手に心配させて弟が迎えにでも来たらそれこそ終わりよ」
手持ちの現金だって限られている。
未成年の女子高生が、親の同意なしで深夜に飛び込みで泊まれるホテルなんてこの街にはない。
「はぁ。安全なお城はこれで終わりってわけね」
バッグを肩にかけ絵名は暗いホテルの部屋を振り返った。
親が用意してくれた保護された安全な場所から弾き出され本当の意味で冬木市の冷たい暗闇へ放り出される感覚。
「行きましょ、フォーリナー。
夜露を凌げる場所、探すわよ」
「はいッ!わたしが絶対、あなたを暗がりからお守りしますから……!」
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「っ…重い……ッ……!」
冷たい夜風が吹き抜ける路地裏で、絵名は肩に食い込む巨大な画材バッグのストラップを強引に持ち直した。
手に提げた大きめのトートバッグには使い慣れた油絵の具のケースと筆洗液。
そして背中には、無理やり持ってきたF6号のキャンバスと折りたたみイーゼルが歩くたびにカサカサと音を立てている。
「え、マスター!わたしが持ちます!その大きいキャンバスと鞄、わたしに預けてくださいっ!」
「大丈夫っ!周囲の警戒に集中して」
ハァハァと荒い息を吐きながら、絵名は小声で話した。
身体は疲労で限界に近い。
けれど絵描きにとって画材は命の次に大切な道具だ。いくら追われている身だからといって
ホテルに置いて捨てていくなんて選択肢は絵名には到底なかった。
「ビジネスホテルはもう全滅。この時間から未成年が飛び込みで泊まれるわけないし」
「あ、あの、漫画喫茶…というのはどうでしょうか? 街の看板で見かけましたが……」
「ネカフェね...個室ならなんとか画材も置けるでしょうけど未成年は深夜立ち入り禁止の店舗が多いのよ。補導されたら一発で終わりだし」
「ひっ…!補導……ッ!憲兵に咎めを受けるなんてそんな...ッ!」
「声が大きいわよ...はぁ。となると……」
絵名は繁華街の奥、ネオンの看板が怪しく光る一角に視線を向けた。
「…あっちの、受付が無人で自動精算機だけのホテルか、24時間営業のカラオケボックスのどっちか……ね」
「あ、あの不気味にピンク色に光っている建物ですか……!?あそこは一体どんな施設で……」
「余計なこと聞かないの!ったく、なんで私がこんな怪しい街角で画材抱えてコソコソしなきゃいけないのよ…」
絵名は自分の運命の理不尽さにキーッと頭を抱えたくなった。
だが、文句を言っている暇はない。
手持ちの現金を計算しながら、人目のつかない路地を選んで画材を抱えて歩く。
(……でも、ずっとこんな場所を転々とするわけにもいかないわね)
いつまでもカラオケやネカフェに隠れていれば画材を開いてまともに絵を描くことだってできない。
何より、追ってきたキャスターや他のサーヴァントに見つかったら狭い個室なんて一瞬で袋のネズミだ。
「フォーリナー」
「はいっ……!」
「絵が描けて、安全に身を隠せる場所を本格的に探すわよ」
「はい…!マスター!わたし、どこへでもついていきますから……!」
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今はもう冷たい雨が
しとしとと肩を打ち始めていた。
「ッはぁ…はぁ……っ…」
絵名は夜の路地裏で足を止め、荒い息を吐きながら背中の大きなキャンバスバッグを持ち直した。
濡れたアスファルトに街灯の鈍い光が滲んでいる。
新都の繁華街を逃げ出し、人目を避けるように川を渡って辿り着いたのは旧市街である静かな住宅街だった。
「マスター...大丈夫ですか?傘も持たずに、こんな雨の中っ!わたしが…わたしが荷物持ちますから……!」
大きめのパーカーを頭から被り、必死に小さくなりながらついてくるフォーリナー。
その顔は雨と恐怖で青ざめ、ガタガタと震えていた。
「言ったでしょ…あんたは周りの警戒に集中しなさいって……っ」
冷えた指先が痺れて、油絵の具の詰まったトートバッグの取っ手が肉に食い込む。
痛い。重い。足が棒のようだ。
何よりさっきホテルで突きつけられた命のやり取りの恐怖が、冷たい雨とともに皮膚にまとわりついて離れない。
(どこ行けばいいのよ…本当に……)
未成年の女子高生が、身元を隠して深夜に駆け込める場所なんてどこにもない。
カラオケもネカフェも、警察の補導や追っ手の影がチラついて足が向かなかった。
(...引き返そうかな。
お母さんに連絡して『ごめんなさい、やっぱり寂しくなっちゃった』って嘘ついて、家に帰ろうか……)
弱気な考えが頭をよぎる。
温かい自分の部屋。
優しいお母さんのご飯。
文句を言いながらも呆れて見てくる彰人の顔。
あそこに戻ればこんな恐ろしい化け物や魔術師に脅やかされることもない。
でも——
(ダメッ!帰れるわけないじゃない)
まふゆに言われた言葉。
何も生み出せず、
何者にもなれず、
才能のなさに泣いて逃げ出した自分。
ここで諦めて帰ったら私は一生
「何もないただの東雲絵名」のままだ。
それに——横で雨に濡れながら、捨て犬みたいにおどおどと自分を見上げているこの小さなサーヴァント。
(私が折れたらこの子はまた、暗い海の底で一人になっちゃう……)
「行くわよ、フォーリナー」
「は、はいっ……!」
絵名は歯を食いしばり、雨の坂道を一歩一歩踏みしめた。
その時だった。
坂道を上り切った角を曲がった瞬間、ふっと香ばしい「木と畳の匂い」が雨の匂いに混ざって鼻腔をくすぐった。
(……え?)
吸い寄せられるように、視線が自然と向かう。
高層ビルもネオンもない、古い瓦屋根の家々が並ぶ一角。
その奥にまるでそこだけ時間が止まっているかのように静かに佇む、古い木造の建物があった。
門の脇に掲げられた控えめな行灯には、かすれた文字で『木之本旅館』と書かれている。
暖簾の隙間から漏れる橙色の温かい灯りが、濡れた石畳を柔らかく照らしていた。
(何、ここ……?こんなところに、旅館があるなんて...?)
不思議な感覚だった。
初めて来たはずの街。
初めて見る古い門構え。
それなのに——胸の奥が、どこか懐かしいような引き寄せられるような奇妙な感覚に包まれる。
まるで、ずっと前から自分の身体の中に眠っていた「何か」がこの場所に導いたかのように。
「マスター...あそこ」
フォーリナーがぽつりと呟く。
「行ってみよ。…断られたら、その時よ」
絵名は震える手をぎゅっと握り締め、暖かな灯りを目指して、ゆっくりと門を潜った——。