長距離バスと電車を乗り継ぎ、冬木駅前へと降り立った絵名は、肩に食い込む重い画材バッグを背負い直した。
潮風が混ざる見知らぬ街の空。__
「さて、どうしよう」
実は冬木に向かう道中、未成年の自分が一人でホテルに泊まれるのか不安になりネットで調べて途方に暮れていたのだ。
最悪ネットカフェで夜を明かすしかないかと思っていた、その時。
ブブッ、とポケットの中のスマホが揺れた。お母さんからのメッセージだった。
『絵名、駅前のビジネスホテルお母さんの名前で予約してカード決済しておいたからね。
未成年の宿泊同意の連絡もしておいたから
フロントで名前を言えば入れるから、無理しちゃダメよ』
「……っ、お母さんたら…ほんと余計なことして……」
画面を見つめたまま絵名は小さく呟いた。
強がって家を飛び出してきたのに結局まだ親の手のひらの上だ。けれどその温かいおせっかいが、不安で張り詰めそうだった胸をどれだけ救ってくれたか分からない。
ホテルのフロントで無事に鍵を受け取り、あてがわれた部屋に入る。
ベッドに画材とボストンバッグをドサリと下ろすと絵名は小さなスケッチブックとキャンバス絵の具等を持って、すぐに部屋を出た。
冬木市は、思っていたよりもずっと
「普通の街」だった。
駅前には商業施設が立ち並び、
カフェからは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
渋谷と変わらない平和な日常の風景。
けれど絵名が「絵描きとしての目」で街を観察しながら歩いていると、ふと違和感を覚える瞬間があった。
坂道を登った先にある、歴史ある洋館街
綺麗な街並みの中で大きな屋敷の前に立った時だった。
(……なんか、あの屋敷だけ空気が違う?)
立派な佇まいの屋敷。
表札には「遠坂」とある。
住人が普通に暮らしているはずなのになぜか門の周囲だけ、ピンと糸が張り詰めたような重い静けさがあった。
デッサンのモチーフを観察するときのようじっと影の落ち方や佇まいを見つめていると、肌がざわりと粟立つような感覚がする。
(……気のせい、よね。考えすぎか)
絵名は首を振り、さらに足を伸ばして未遠川に架かる巨大な赤い橋——冬木大橋へと向かった。
川沿いのベンチに腰掛けクロッキー帳を開く。
夕陽を浴びて巨大なトラス構造の赤が川面に濃い影を落としていた。
「あの赤、綺麗だな。
光が当たってる場所と、陰になってる場所のコントラストがすごい……」
夢中で鉛筆を走らせる。
周囲の賑やかな街の音やスマホの通知、言われた傷つく言葉たちがすーっと遠のいていく
ただ目の前にある「光と影」に向き合う時間。
知らず知らずのうちに絵名は自分だけの世界へ深く、深く没頭していった。
——それが、
冬木の地に満ち始めた「魔力」と
絵名の抱える「届かない苦しみと執念」を引き合わせているとも知らずに。