「ハァ……ハァ……っ……」
山門での激闘を終え、血の混ざった涙を拭いながら石段を降りてきた絵名とゴッホ。
魔眼を限界まで酷使した頭痛と全身の疲労感で、絵名の足取りは千鳥足のように覚束ない。
「マスター!
無理をしないで肩をお貸ししますからっ……!」
「大丈夫…早くおばあちゃんのところへ帰りましょう...っ」
その時だった。
「——そこまでよ、二人とも」
冷たく澄んだ凛とした声が、闇を切り裂いて響いた。
「っ!?」
絵名とゴッホが息を呑んで立ち止まる。
石段の麓、街灯の影からゆっくりと歩み出てきたのは、赤いツインテールを夜風になびかせた遠坂凛だった。
「信じられない。
柳洞寺を覆っていたあの広域結界が急に霧散したから何事かと思って駆けつけてみれば……
まさか、あのキャスターを退けたのがアンタたちだったなんてね」
凛は手にしたルーンの石を指先で弄りながら、信じられないものを見るような目つきで絵名とゴッホを凝視していた。
(なんなの、このサーヴァント……?)
凛の脳裏に、強烈な違和感が渦巻く。
三騎士の気配ではない。
かといって四騎のどれでもない。
魔術の理とは根本的に異なる、まるで「世界の器からみ出しているような不気味な異次元の狂気」。
「……アンタ、一体何者なの?」
凛は警戒を解かないまま、一歩踏み出した。
「初めて会った時は、魔術の知識すら怪しいただの一般人の女の子に見えた。
でも、そのサーヴァントの気配は異常よ。
そしてアンタのその……血走った『目』。アンタ、何を連れてこの街で戦ってるの?」
「……何者でもないわよ」
絵名は激しい頭痛に耐えながら、凛の目をまっすぐに見つめ返した。
「私が誰でこの子が何者かなんて……アンタに関係ない。
私たちはただ……自分たちの居場所を踏みにじろうとしたあのババアを追い払っただけよ」
「文句があるなら……私とやり合う...?」
絵名がカッと見開いた瞳には、どれだけ痛みに苛まれようとも折れない圧倒的な執念が宿っていた。
「……ふん。やめておけ、凛」
背後に現れたらアーチャーが呆れたように言った。
凛は深く溜め息をつき手を引いた。
「勘違いしないでよね。見逃すわけじゃないわ。…次に会った時は容赦なくその正体を暴かせてもらうから。……さっさと引っ込みなさい」
凛とアーチャーの姿が、夜の闇の中へ溶けるように消えていく。
「……
はぁぁっ……!」
相手の気配が完全に消えた瞬間、絵名は張っていた糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「マスターっ!大丈夫ですか!」
「……大丈夫...
帰りましょう...蔵へ……」
_________
ガラガラ……と重い土蔵の扉を閉めた瞬間
外の冷気と緊迫感が嘘のように遮断された。
キャスターを退け、静かな蔵の中で並んでお茶を飲んでいる時間。
静寂の中、絵名の中で戦いの最中の違和感と、
これまで見た「夢の記憶」が一本の線で繋がり始めます。
「ねえ、フォーリナー」
湯気の立つ湯呑みを両手で包みながら、絵名がぽつりと問いかけた。
「戦ってた時、あんた黄色い家を描いたでしょ」
「あ…はい。わたし…必死で、手元にあった記憶をぶつけることしかできなくて……っ」
申し訳なさそうに身を縮こまらせるフォーリナー。
絵名は彼女の横顔をじっと見つめた。
(…夢で見た、キャンバスに向かって背中を丸めていた男の人)
(狂ったように絵の具を塗りたくり…
最後には暗い海の底へ消えていったあの影)
何度も美術館や美術の教科書で見た、
誰もが知るあの名画。
情熱の黄色。
うねるような独特の筆触。
生前はたった一枚しか絵が売れず、狂気と孤独の中で37歳の生涯を閉じた、西洋美術史におけるあまりにも_____有名な不遇の天才画家。
「…ねえ、フォーリナー。
あんたの生前の名前……教えてくれない?」
「っ……!」
フォーリナーが肩を跳ねさせた。
「だ、ダメですっ!マスターに真名を教えるのは…その……真名がバレると弱点が敵に知られてしまうから聖杯戦争では秘密にするのがルールだと…」
「そんなの分かってるわよ。
でも……」
絵名は湯呑みを置き、まっすぐにフォーリナーの目を見つめた。
「あんたのあの絵……私、知ってるのよ」
「……え……?」
「あの黄色
あの描き方。
そして生前、誰にも絵を理解してもらえなかったっていうその悲しい呪い……」
絵名は息を呑み、確信を込めてその名を口にした。
「…あんた……フィンセント・ファン・ゴッホでしょ?」
「……っ!!!」
ゴッホの身体が硬直した。
見開かれた瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出しポタポタと膝の上に落ちていく。
「な、なんで……っ…わたしは…わたしなんかは…男性の、あの偉大な画家の影に隠れた…
偽物で、歪んだ出来損ないなのに……っ!」
正体を当てられた恐怖と、隠していた惨めさ。
だが、絵名は呆れたように小さく息を吐くと
ゴッホの頭をぽんっと優しく叩いた。
「男とか女とか、
偽物とかどうでもいいわよ
絵をかじってる人間があの絵を『黄色い家』を見間違えるわけないじゃない」
「マスター...」
「やっぱりそうだったのね……。
すごいじゃない。私、本物のゴッホと契約して戦ってたんだ……」
絵名の言葉には恐怖や疑念ではなく、一人の絵描きとしての純粋な敬意と、どこか親しみを感じているような温もりが宿っていた。
「ゴッホは、聖杯に何を願うつもりだったの?」
「え……?」
「私は聖杯なんてどうでもいいの。
ズルして手に入れた才能で描いた絵なんてなんの意味もないしね。無事に自分の家に帰れればそれでいいと思ってる」
絵名は足を崩して畳に座り直し、ゴッホを見つめた。
「でも、あんたは?
生前そんなに苦しんで……誰にも理解されなかったなら聖杯を手に入れて『みんなに愛される画家になりたい』とか
『世界一の才能が欲しい』とか……そういう願いがあったんじゃないの?」
問われたゴッホは、涙を拭いながら寂しそうに首を振った。
「…いいえ。ゴッホは……そんな大層な願いを持つ資格なんてありません……」
「資格なんて関係ないでしょ」
「……もし。もしも、です」
ゴッホは小さく胸の前で手を握り締めた。
「もし許されるなら『誰かに、自分が描いた絵を心から好きだと言ってもらえる世界』を見たかった。
生前、ゴッホがどれだけ描いてもみんな『不快だ』『狂っている』って笑って……誰もゴッホの絵を見てくれなかったから……」
切々と語られる、ゴッホの本音。
それを静かに聞いていた絵名はフッと鼻で笑った。
「ハァ? …何バカなこと言ってるの?」
「え……?」
「そんなの、聖杯なんかに頼らなくたって
もう叶ってるじゃない」
「……っ!?」
絵名は自分の胸を叩いて、誇らしげに胸を張った。
「私がいるでしょ!私はゴッホの絵が好きよ。
恐ろしいくらい綺麗で、ゾクゾクしたわッ……聖杯なんかが叶える前に、私がもうあんたの理解者になってあげてるじゃない」
「あ……っ……あぁ……
っ……!」
聖杯という奇跡の道具など必要なかった。
時を超えて出会った一人の女子高生——東雲絵名が、自分の絵を自分の表現を全文で肯定してくれた。
「だから…聖杯に頼るなんてやめなさい。
あんたの願いは私が叶えてあげたんだから
あとは二人で、無事にこのイカれた街から帰る!それだけで十分でしょ」
「……はいっ……!
はいッ、マスターッ!!」