蔵の二階に用意してもらった布団に入ったものの、絵名の目は冴え渡っていた。
窓の外でかすかに揺れる竹林の音と、隣の布団から聞こえるゴッホの小さな寝息。
静まり返った闇の中で、絵名は自分の右手を見つめた。
(…ゴッホ。あの『ひまわり』や『星月夜』を描いた、ゴッホ……)
美術の教科書で見た、誰もが知る歴史上の偉大な画家。
でも、さっき自分の前でボロボロと涙をこぼしていた彼女は教科書に載っているような高貴な存在なんかじゃなかった。
生前
どれだけ描いても誰にも理解されず
狂気と絶望の中で苦しみ抜き
それでも泥をすする思いで筆を握り続けていた……自分と何も変わらない、ううん、自分以上に泥臭く足掻いていた一人の「表現者」だった。
(私、ずっと分かってたんだよね)
暗い天井を見つめながら、絵名はゆっくりと息を吐き出す。
自分の絵には圧倒的な才能なんてないこと。
あいつ...お父さんのようなプロの世界や
SNSにゴロゴロ転がっている才能あふれる神絵師と呼ばれる人達、そしてニーゴのみんなと比べたら技術だって表現力だって全然追いついていないこと。
どれだけ時間をかけて描いても、どれだけ血を吐く思いで絵の具を捏ね回しても「プロにはなれない」「届かない」って、誰よりも自分自身が痛いほど知っていた。
(一度……逃げた癖にね)
中学の時、絵を描くのが辛くなって描く理由も分からなくなって、筆を置いたことがあった。
「もう絵なんて描かない」
「才能がないなら描いたって意味がない」
って、自分から逃げ出した。
だけど……結局、逃げ切れなかった。
どれだけ目を背けようとしても、日常の端々で色や光を探してしまう。
悔しくて、
惨めで、
泣きたくなるのに、
キャンバスの前に戻ってきてしまう。
だって……
絵を描かない自分なんて、もう私じゃないから。
絵を描くことを捨てたら東雲絵名という人間の価値なんて何一つ残らなくなっちゃうから。
(なのに私、冬木に来てまで何に怯えてたんだろ)
冬木市で直面した、一歩間違えれば命を落とす聖杯戦争の恐怖。
魔眼を使うたびに脳を焼くような激痛と、得体の知れない英霊たちの圧倒的な存在感。
逃げたいはずだった。
怖いのは当たり前だった。
だけど、今こうしてベッドの中で疼いている胸の熱さは恐怖だけじゃない。
(羨ましかったんだ...)
キャスターの魔術を塗り潰した、ゴッホのあの狂おしいほどの色を。
世界中に拒絶されてもどれだけ「狂っている」と笑われても、死ぬ間際まで描くことをやめなかったあの圧倒的な執念。
(私はずっと、傷つくのが怖いからって『言い訳』を探してた)
「才能がないから」
「お父さんが認めてくれないから」
「まふゆの心を動かせないから」——。
そうやって環境や他人のせいにして、傷つかない位置に逃げ込もうとしていた。
でも、ゴッホは逃げなかった。
世界から孤立しても、ただ一人でキャンバスに爪を立て続けていたんだ。
(…なら、私だって逃げない)
ふつふつと、血が逆流するような熱い感情が身体を駆け巡る。
聖杯戦争がなんだ。
魔術師の理屈がなんだ。
才能がないなら、ないなりの足掻き方がある。
ここで恐怖に足がすくんで筆を置いたら……それこそ本当にあの時みたいに自分を捨てることになっちゃう。
(この街で私が見たもの、感じた死の恐怖、ゴッホが命を削って描いたもの。
全部、私の『表現』にする)
どんなに手が震えても、どれだけ歪で下手くそな線になろうとも。
私は描く。
描いて、
描いて、描き倒して……この不条理な街で
私が生きている証明を叩きつけてやる。
(…見てなさいよ。
私が、私の絵を絶対に証明してみせるんだから——)
ギュッと掛け布団を握り締め、絵名は強く目を閉じた。
その心にはもう迷いや逃げ越しな感情は欠片も残っていなかった。