翌日の夕刻。
画材屋で買い揃えたクロッキー帳と鉛筆を抱え、新都の少し外れた歩道橋の陰で絵名は夢中で筆を走らせていた。
昨夜の激痛と恐怖。
いつ敵のサーヴァントに襲われるかもわからない不条理な街、冬木。
手が震え冷や汗が額を伝い落ちる。
それでも——絵名の指先は止まらなかった。
(描かなきゃ。恐怖なんかに負けて筆を投げ出したら私はまた、あの頃の逃げてばかりだった自分に逆戻りしちゃう)
才能なんてない。
技術だって追いついていない。
けれど、描くことだけが「東雲絵名」という人間をこの世界に繋ぎ止める唯一の術なのだと
彼女はもう知っている。
紙が破れんばかりの猛烈な筆圧。
狂おしいほどの線の重ね合わせ。死の恐怖に抗うように、彼女は自らの存在をスケッチブックへ叩きつけていた。
ゴッホは霊体化し、気配を殺してすぐ隣で絵名を見守っていた。
その時——。
「——ほう」
頭上から降ってきた、あまりにも不遜で空間そのものを圧迫するような重厚な声。
「っ……!!」
その「声」が持つ異常な質量に反応し、次の瞬間には霊体化を解いたゴッホが弾かれたように実体化した。
「マスター!下がってください、
逃げてくださいッ……!!」
ゴッホは全身をガタガタと激しく震わせ、青ざめた顔で絵名を庇うように立ちはだかった。
歩道橋の手すりに肘を預け、夕日を背に二人を見下ろしていたのは、黄金の髪をなびかせた男——ギルガメッシュだった。
溢れ出る圧倒的な威圧感。
ただそこに存在しているだけで世界の空間が軋むような恐ろしい気配に絵名の全身に嫌な汗が吹き出す。
(なんなの……この人…!?キャスターなんか比じゃない…怪物ッ...)
ゴッホが震える手で宝具を構えようと息を呑んだその時、ギルガメッシュの冷酷な紅蓮の瞳が、絵名の手元から滑り落ちたスケッチブックへと注がれた。
そこに描かれていたのは、整った美しい風景画などではない。
死の恐怖と葛藤しながらも、「私はここにいる」と命を削って爪を立てた少女の執念。
歪で、けれど痛々しいほどに強い生の叫びが
鉛筆の黒い線となって暴れていた。
ギルガメッシュはフンと鼻を鳴らした。
「技量は雑種。
構図も見るに堪えん駄作だな」
容赦のない一言。
だが、ギルガメッシュはその場を立ち去ろうとはせず冷酷な鑑賞者の眼差しで、その紙面をじっと見つめ続けた。
「だが、己の小さき命が芽散る恐怖に怯えながら、なお爪を立てる泥の足掻き。
その醜くも狂おしい執念だけは紙面から鼻につくほど匂い立つ」
「なんですって!?」
言われっぱなしの絵名の中で、恐怖を塗りつぶすように怒りの火が灯った。
昨夜決意した「絶対に逃げない」という誇りが激しく熱を帯びる。
「私の絵が駄作ですって!? あんたに私の何が分かるのよッ!才能がないのも、上手く描けないのも……私自身が一番分かってるわよッ」
「マスターっ、駄目です、刺激しては…っ!」
腰を抜かしそうなゴッホが必死に絵名を制止する。
だが絵名はゴッホの背中から身を乗り出しギルガメッシュを真っ直ぐに睨み返した。
「上手い下手なんてどうでもいいの!逃げないって決めたの!私は……私だけの絵を描くために、ここに立ってるのよッ!!」
ギルガメッシュは嘲笑するように薄い唇を歪めた。
「知れたこと。
我の宝物庫には人類のあらゆる美の原典が眠る。貴様のような才能なき者が吐き捨てた落書きなど、価値など万に一つもない」
ギルガメッシュは一瞥すると背を向け、夕闇の奥へ歩き出した。
「——せいぜい生き足掻くがいい、小娘。
その醜い絵の具に、我が庭の惨劇をどこまで塗り込められるか...我が退屈を紛らわせる余興として、精々残りの命を削ってみせよ」
圧倒的な存在感が、すっと夕闇の中に溶け込むように消え去っていく。
「ハァ……ハァ…っなんなのよ…あの失礼な金ピカ…ッ!」
その場に膝をつく絵名と、胸を撫で下ろすゴッホ。
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キャスターとの死闘____
そしてギルガメッシュとの遭遇から一夜。
蔵の中で気絶するように眠っていた絵名が目を覚ますと、陽だまりの差し込む縁側でゴッホがスケッチブックを膝に置いたまま静かに座っていた。
だが——その手元にある筆は紙に触れることなく、かたかたと激しく震えている。
「……ゴッホ?」
絵名が声をかけると、ゴッホは弾かれたように肩を跳ねさせ、申し訳なさそうにスケッチブックを伏せた。
「あ…マ、マスター、すみません、起こしてしまいましたか...ッ!?」
「ううん、大丈夫だけど…
何してたの?絵、描いてたの?」
「あ……えっと…」
ゴッホは視線を泳がせ、自分の震える手元を見つめた。
「描きたい、んです。マスターの情熱が伝わってきて…ゴッホもキャンバスに向かいたいって思うんです。…でも……」
ゴッホは胸をギュッと締め付けるように抱え込んだ。
「いざ筆を持つと生前のあの冷たい記憶が…誰も見てくれなかった街の空気や、頭の中で響く狂気の声が蘇って、手が、止まってしまってわたしには…まだ、絵を描く資格なんてないんじゃないかって……」
自責の念に押し潰されそうになるゴッホ。
生前、絵に全てを捧げ、そして絵によって壊れていった彼女のトラウマはそう簡単に消えるものではなかった。
絵名は静かにゴッホの隣に腰を下ろすと、ゴッホが握っていた震える筆のの上から自分の手をそっと重ねた。
「…焦んなくていいんじゃない?」
「え……?」
「生きてた時のことなんて、私には分からないけど...そんなの、簡単に乗り越えられたら苦労しないわよ。
私だって何回逃げて、何回壁にぶつかったか分からないんだから」
絵名は呆れたように笑いながら、重ねた手に少しだけ力を込めた。
「描けないなら、今は描かなくていいの。
描きたくなった時に一つだけ線を引けばいい。
...私が横にいるんだからさ」
「っ…マスター……」
「あー…あとさ」
絵名は恥ずか出しそうにそっぽを向いた。
「『マスター』って呼ぶの、やめない?
私、魔術師でも何でもないし、なんか気取ってるみたいで落ち着かないのよ」
「...今更だけどね」と絵名は小さく呟いた。
ゴッホは驚いたように目を見開き、それからポロポロと大きな涙を瞳に溜めた。
「…はい。…はい!
えな……絵名さん…っ!!」
「うん。...それでいいわ」
絵名は自分のスケッチブックを開き、鉛筆を走らせ始めた。
「私は勝手に描くから。あんたは気が向いたら私の絵に助言ちょうだい?それくらいなら出来るでしょ?」
「ふふ……はい!絵名さんの絵、いっぱい見せてください!」
ゴッホの筆の震えが、少しだけ収まった。
まだ絵を描くには時間が必要かもしれない
けれど、絵名という「今を生きる表現者」の隣で、ゴッホの止まっていた時間がゆっくりと動き出し始めていた