______深夜
深山町の古い町並みに静かに佇む、民宿の少し外れにある「蔵」。
その重厚な木の扉の向こう側は、少し前まで絵名とゴッホが並んでスケッチブックを広げ
穏やかな時間を分かち合っていた場所。
だが、その平穏は神代の魔女の冷酷な悪意によって音を立てて引き裂かれてしまった。
「——見つけたわよ、ネズミども」
夜の闇を切り裂くように響いた冷徹な声。
蔵の古い瓦屋根が激しい衝撃と共に爆ぜ、木片と漆喰の粉塵が舞い散る。
天井の隙間から滑り込むように現れたのは紫の衣を纏った神代の魔女——キャスターだった。
「っ...!なんで、ここが…ッ!?」
絵名が反射的に跳び退く。
ゴッホもまた、青ざめた顔でスケッチブックを放り出し絵名の前に庇うように立ち塞がった。
しかし、キャスターの手にはすでに数十もの魔力の弾丸が禍々しい軌道を描いて浮かんでいる。
「一度ならず二度までも私の聖杯計画の邪魔をしてくれた素人の分際で神代の領域に踏み込む害虫ども。…ここで消し去ってあげるわ」
容赦なく放たれる魔弾の雨。
狭い蔵の中という圧倒的な悪条件の中、ゴッホが必死に筆を振るい『黄色い家』を展開して光弾を防ごうとする。
しかし、柳洞寺での消耗が完全に回復しきっていないゴッホの出力では神代の魔女が放つ全力の魔術の奔流を完全に弾ききれない。
ガァァン!と、空間を抉るような激しい爆発音が響き渡り蔵の壁が大きくえぐれた。
衝撃波に耐えきれず絵名は床に激しく叩きつけられる。頭が割れるような激痛と肺から空気がすべて押し出されるような窒息感。
(はぁっっ...!
息が……体が、動かないっ!)
さらに、粉塵の向こう側から影が見えた
音もなく現れたのは感情の一切読めない虚ろな目をした男——キャスターのマスター、
葛木宗一郎だった。
彼は無言のまま絵名へと歩み寄り、ただ殺意の込められた鉄拳を振り下ろそうとする。
サーヴァントですらない、ただの人間の男の打撃。
だが、魔術で強化されたその一撃は今の絵名にとっては即死を意味する巨岩の重みそのものだった。
「——隙ありだ」
「まっ……!?」
ゴッホが異変に気づいて庇おうとした瞬間、葛木の冷酷な一撃がゴッホの予測の死角を抜け、空間の壁ごとゴッホを弾き飛ばした。
――サーヴァントであるゴッホを一瞬で「主と引き離す」ための完璧な戦術。
「がはっ……!?あ、れ……?」
ゴッホが床に叩きつけられてしまった。守りを失った絵名の目の前に無言のまま葛木の殺気が迫っていた。
「終わりだ」
逃げ場などない。
眼で敵の攻撃がすべて「視えて」いるのに、体が追いつかない。
魔力がないから。
何もできない。
(っ…!私の眼は、ただ絶望をハッキリ見届けるためのものなの... 何もできないまま、ここで殺されるわけにはいかないっ!)
その瞬間、恐怖の底から湧き上がった「絶対に屈しない」というドス黒いまでの執念が、絵名の体の構造そのものを書き換えた。
——パリ...ッン
脳髄の奥で、
何かが激しく焼き切れる音がした。
「っあ……あぁぁぁああ…!」
絵名の絶叫が蔵の中に響き渡る。
それは魔眼の力ではない。
それは本来、人間が持っていなかったはずの
___東雲の血脈に眠る「魔術回路」が死の恐怖と剥き出しの情熱によって無理やりこじ開けられたのだ。
神経の束に直接、数千度の高熱の鉛を流し込まれるような激痛。
心臓の鼓動とは別に背骨や腕の血管からドクドクと澱んだ、しかし強烈な熱量を帯びた「絵名の魔力」が脈打ち始める。
「…はっ…?なに、これ、熱いっ……!」
ゴッホが驚愕に目を見開いた。
絵名の全身から、ただの一般人ではありえない魔力の奔流が噴き出している。
眼で見ているだけの「魔眼」に、体内で循環し始めた「魔術回路の魔力」が直結した。
視えている綻びに、今や自分の魔力を直接叩き込んで上書きできる。
「視えただけじゃない…っ!」
絵名は血走った眼で葛木の拳を睨み据え、自らの新しい回路から溢れ出る魔力を無理やり拳の軌道へと叩きつけた。
「アンタの魔術の継ぎ目なんて…私の色で、全部塗りつぶしてあげるわよ…ッ!」
魔眼で看破した葛木の強化魔術の構造の隙間に絵名の覚醒した魔術回路から放たれた微量の、しかし鋭利な干渉力が突き刺さる。
人間離れした葛木の動きが一瞬だけ淀み、
バランスを崩した。
「……っ!」
そのわずかな、文字通り「一瞬の綻び」をゴッホが逃すはずがなかった。
「絵名さんの…眼と、回路が…繋がった!なら、わたしも応えます!」
吹き飛んでいたゴッホが漆黒の筆を振るい、極大の『黄色い家』の世界ごと叩きつける。
絵名の魔眼が導き出した「最短の破壊の軌道」に沿って、ゴッホの芸術の概念がキャスター陣営を直撃した
「ぐっ……アァァッ…!?」
想定外の反撃、それも素人の女の子が突如として「魔術師」として覚醒し、自らの魔術構造を内部からハッキングしてきた事実にキャスターは顔面を蒼白にさせる。
だが、絵名とゴッホの攻勢はそれで終わらなかった。
魔眼が暴いたキャスターの霊基のコア、その致命的な、ほつれめがけて絵名の魔術回路から放たれた情熱の魔力がダイレクトに突き刺さる。
「これが…私たちの、『色』よ…っ!」
絵名が振り絞った叫びと共に、決定打となる芸術の奔流が叩き込まれた。
「あ、ありえない……
私が…こんな、ガキごときにっ!?」
キャスターの身体が、足元から黄金色の光の粒子となって崩れていく。
圧倒的な魔力と誇りを持っていた神代の魔女は、素人の少女が絞り出した執念と狂気の芸術の前に、ついにその命脈を断たれようとしていた。
「アァァァ………っ!!」
断末魔の叫びを残し、キャスターの身体は完全に夜の空気に溶け込むように、パチンと弾けて消滅しかけた。
「——メディア……!」
その時、崩れ落ちるキャスターの体を、誰よりも早く抱き止めた男がいた。
葛木宗一郎だった。
冷酷で感情を表に出さなかった男が、いまや震える手で消えゆくメディアの肩をしっかりと支えている。
「宗一郎さま…私、最後まで、あなたの願いを叶えてあげられなかった…」
「気にするな。…私を選び私と共にいてくれた。それだけで十分だ」
宗一郎の声音は、いつものような無機質なものではなく確かな温もりと痛切な愛惜に満ちていた。
メディアは驚いたように目を見張り、それからこれまでの人生で最も穏やかで、少女のような美しい笑みを浮かべた。
「ああ…私は、あなたと出会えて...
本当に、よかった……」
最後に残したその言葉を最後に、メディアの身体は完全に光の粒子へと変わり夜風の中に溶けるように消滅した。
静まり返った蔵の跡地。
マスターであるキャスターの完全な消滅により葛木宗一郎は、その場に膝をついた。
血を流し肉体はボロボロだったが、その顔には不思議なほど穏やかな静けさがあった。
彼は静かに立ち上がると、振り返ることなく
ただの人間に戻った足取りで夜の闇の中へと姿を消していった。
主人の完全な消滅。
その余波は、遠く離れた場所へ
一瞬にして伝播した——。
——同じ夜、柳洞寺の山門。
月明かりの下、セイバーと激しい剣戟を交わしていたアサシンの動きが、ぴたりと止まった。
「……ほう」
小次郎は、新都の方角の空を見上げる。
彼の契約者であったキャスターがこの世から消え去ったことで、サーヴァントとしての霊基を繋ぎ止めていた絆がプツリと断ち切られた。
その瞬間、小次郎の足元から淡い光の粒子がハラハラと零れ始めた。
「アサシン…?」
セイバーは剣を構えたまま、その異変に息を呑んだ。
深山町の方角から消え去った強力な魔力。
それはつまり、あちらで戦っていた者たちが
神代の魔女を討ち果たしたという証明だった。
小次郎は自らの消えゆく両手を眺め、どこか満足げにふっと笑った。
「見事だな。あの娘、どうやら本当に
あの魔女をその手で描き潰したらしい」
「…あなたは...」
「まさか、消えゆく間際にこれほど面白いものを見せてもらえるとは。
私はただの門の亡霊…風を斬るだけの役目は、これでおしまいのようだが……」
小次郎の体はすでに半分以上が光の粒子に変わり、夜風にさらされて優しくほどけていく。
最後に彼は、空に向かって静かに一礼した。
「あの少女が描く未来は、きっと…私のような古い亡霊には想像もつかないほど、鮮やかな色彩に満ちているのだろう」
その言葉を最後に佐々木小次郎の姿は夜の境内から完全に消え去り、跡にはただ風の音だけが残された。
ひとつの神代が終わり、新世代のマスターが自らの手で運命を切り裂いた夜。
聖杯戦争の歯車は、もはや誰にも止められない音を立てて加速していくだけだった。