崩れかけた蔵の残骸。
舞い散る光の粒子が完全に夜の空気に溶け込み、辺りに静寂が戻ったとき戦闘の興奮とアドレナリンは急速に引いていった。
「――は、っ…」
絵名は両膝から崩れ落ちるように、冷たい床にへたり込んだ。
さっきまで、自分の魔術回路がドクドクと脈打ち、キャスターの防壁をハッキングし圧倒的な熱量で「塗り潰してしまった」その手。
その両手を、絵名はまるで化け物でも見るような恐怖の眼差しで見つめていた。
消えた。
自分が放った魔力の奔流と、ゴッホの筆があの魔女の存在をこの世界から完全に消し去ってしまった。
「私…
...殺した、の……?」
声がかすれ、喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛む。
サーヴァントという、人間とは違う存在だということは頭では分かっている。
向こうは自分を殺そうとしていたし、生き残るためには仕方がなかった。
理屈では理解できているはずなのに胸の奥底から込み上げてくるのは、どうしようもない吐き気と、
逃れられない罪悪感だった。
――私は、人の命を終わらせた。
私の手で、あの魔女をこの世から消し去った。
「うそ…やだ、こんなの…私、ただ…自分を、
自分の絵を守りたかっただけなのにっ!」
絵名は自分の両腕を抱きしめ、全身を激しく震わせた。
魔術回路が目覚め、魔眼で世界の裏側が視えるようになったその瞬間から___
普通の人間だった自分は死んだ。
そして今、自分の手で死を与えてしまったことで本当の意味で引き返せない一線を越えてしまったという現実が、重く冷たく絵名の心を押し潰す。
もう、ニーゴのみんなと笑い合っていた頃の
のうのうとした日常には戻れない。
私は......
血に塗れた「魔術師」になってしまったんだ——。
「絵名さんっ!」
ボロボロになったゴッホが、身体を痛ませながらも慌てて駆け寄ってきた。
震えて小さくなっている絵名の身体を、そっと背後から包み込むように抱きしめる。
「ゴッホ…私、人殺しちゃったっ、
自分の手で、消しちゃった...っ!」
絵名が泣きじゃくりながら、ゴッホの服をぎゅっと掴む。
ゴッホは悲しそうに目を細めると絵名の震える頭にそっと自分の額を寄せた。
その指先からあたたかな、絵名に寄り添うための優しい魔力がじんわりと伝わっていく。
「…怖いです。
私も、マスターが壊れてしまうのがずっと怖かった……」
ゴッホの声音は、どこか震えていた。
狂気を宿し、世界を青や黄色で塗り潰す異界の画家であっても目の前で自分のマスターが深い絶望と罪悪感に引き裂かれようとしているその痛みが、、痛いほど分かったからだ。
「でも絵名さんが流したその涙は、人を殺したから汚れたものなんかじゃない。…だって絵名さんは、怯えながらも私を守るために、自分の手で運命を掴み取ったんですから」
「私が…掴んだ?」
「はい。あなたは怪物になんてなっていない。
誰かのために生きようとした……痛いくらいに優しい____私のマスターです」
ゴッホの言葉が、凍りついた絵の心のひだに染み渡る。
自分が犯した罪の重さが消えるわけではない。人を消滅させてしまったという事実も、自分がもう「ただの一般人」には戻れないという現実も、一生背負っていかなければならない十字架だ。
それでも____
(一人じゃない、んだ……)
真っ暗な絶望の底で、同じように傷だらけになりながらも自分の隣で温もりを分けてくれるこの狂気のサーヴァントがいてくれる。
絵名は震える息を整えると、ボロボロになったゴッホの手を今度は自分がしっかりと握り返した。
涙を拭うことはしない。
その代わりに、血と泥に汚れた自分の両手で
これから待ち受ける茨の道を歩んでいく覚悟を、痛む心にしっかりと刻み込むように——深山町の夜気の中で絵名は小さく、しかし確かな決意を固めたのだった。