キャンバスに絵の具を擦り付け、削り、、
また塗り重ねる。
「描きたい」という執念と胸の奥で渦巻く悔しさが手を動かし続け、絵名は周囲の音も時間も完全に忘れていた。
ふと手に持ったナイフを止め、ハッと息を吐いて夜空を見上げる。
いつの間にか陽はすっかり落ち街灯の光が
ぽつぽつと灯る夜の9時過ぎ______
川沿いの公園には、もう人っ子ひとりいない。
その時だった。
――ヒュンッ! ガシィィィンッッ!!
耳を突く金属音と、空気を引き裂く暴風が吹き荒れた。
絵名が驚いて見上げると数十メートル上の冬木大橋のアーチ部分から、青い装束の男が垂直に落下し、人間ではあり得ない跳躍で一瞬にして河川敷へと着地したところだった。
さらに男は、手に持った鮮血のような赤い槍を一閃させる。それだけで周囲のコンクリートの防波堤がズバァンと断ち切られ大量の火花が夜の闇を散らした。
「……ッ!?」
人間業ではない。CGでも映画の撮影でもない、本物の「怪異」。
普通なら悲鳴を上げて逃げ出す場面だった
だが、絵名は息を呑み金縛りに遭ったように固まってしまった。
恐怖よりも先に男のその一瞬の軌跡——赤い槍が残した圧倒的な「線」と「圧倒的な熱量」に
絵描きとしての眼が吸い寄せられてしまったのだ。
吸い寄せられるように、夢中で筆を走らせ
そのシルエットをスケッチブックに留めようとしてしまう。
それが、命取りだった。
「――ほう?」
青い槍兵——
ランサーがゆっくりと首を巡らせた。
その紅い瞳が暗闇の中で自分を注視し、あろうことかその姿を紙に書き留めようとしている少女の姿を捉える。
「夜中にこんなトコで写生大会か?
...だがお嬢ちゃん、運が悪かったな。
今の跳躍も槍の振りも普通の人間が見ていいもんじゃねえ。『目撃者は全員消せ』ってな……雇い主から厳命されてんだよ」
「あ……っ、な……に……」
槍兵がゆっくりと歩み寄ってくる。
全身から溢れ出る圧倒的な殺意。
絵名は腰を抜かし尻餅をついた。
身体がすくんで逃げられない。
死ぬ。
殺される。
だが——突き出されようとする槍の穂先を前にして、絵名が抱きしめたのは自分の体ではなく、「描きかけのスケッチブック」だった。
「渡さない……っ!渡さないわよ……っ!!」
涙とで顔濡らしながら絵名は絶叫した。
「私が……私がどれだけ苦しんで……っ!どん底で足掻いて描いたと思ってるのよ……!! 才能がないからって……何者にもなれないからって……っ!私の絵を、私の生きた証を…無かったことにされてたまるかぁぁぁッ!!」
神に選ばれなかった「凡人」の泥にまみれた魂の叫び。
その狂おしいほどの執念と悲壮な情熱が、冬木の夜の霊脈を激しく揺さぶる。
絵名の抱きしめたスケッチブック——
そこに描かれた、苦悩と狂気のパステルの痕跡が、突如として眩い赤銀の光を放ち始めた。
「な、なんだぁ……!?令呪……!?バカな、7人のマスターはもう埋まってるはずだぞ!?」
ランサーが驚愕して足を止める。
絵名の右手甲に幾何学模様の『令呪』が刻まれ、河川敷全体に狂気と不吉な水気を孕んだ魔力が吹き荒れた。
光の中心から、粘つきのある絵の具と水滴の混ざった音が響く。
「……ウフフ、エヘヘ……。あは、あははははっ!そうですね、ええ、その通りです!私は紛いもの、ただの捏造、画家の名をつぎはぎされただけの惨めな出来損ない……!」
風が止み、光が収まっていく。
そこに立っていたのは濡れたような漆黒の衣装を纏い、巨大な筆と画架を背負った少女だった。
少女は支離滅裂に首を傾げ引きつった笑みを浮かべながら、血走ったようなだがどこか愛おしそうな瞳で絵名を見つめる。
「見ての通り、。一緒に世界を塗り替えましょうね。な、なんちゃって、ウフフ、エヘヘ……」
少女はひらひらと手を振ると自虐的な笑みを浮かべたまま、絵名に向かっておずおずと手を差し伸べた。
「……おやぁ?
あなたも『描けない』呪いに焼き尽くされそうな、哀れなお仲間ですか?良いですねぇ、
良いですね!才能の無さに泣いて、それでも筆を捨てられない狂人さん……!」
絵名は、右手の痛む令呪と目の前で奇怪に微笑むサーヴァントを見つめた。
不気味だ。
正気じゃない。
けれど、その少女の瞳の奥にある「紛いものとしての苦しみ」と「描くことへの狂気」を見た時、絵名はハッと息を呑んだ。
(……同じだ。この子も、私と同じ……ッ)
絵名はぐっと袖で涙を拭うと差し出されたゴッホの細い手を、力強く握り返した。
「……当たり前でしょ!私だって、描き続けることしかできないバカなんだから……ッ!」
「あはっ……!
傑作ですね、契約成立です……!」
その瞬間、冬木の夜に「8人目の陣営」が産声を上げた。
「ハッ……ハハッ!傑作だなオイ!7人揃った後に、一般のガキが8人目のイカれた奴を引っ張り出してくるとはよ!」
ランサーは槍を肩に担ぎ直し、可笑しそうに天を仰いで笑った。
ゴッホから漂う異次元の不気味な気配を感じ取り不敵に口元を歪める。
「おいガキ。お前のその執念嫌いじゃねぜ
...今日は引き下がってやる
だが、次会ったときは容赦なく殺し合うぞ」
青い影は風を切るような速度で跳躍し、一瞬にして夜の闇へと消え去った。
_________
静寂が戻った冬木大橋の下。
波の音だけが穏やかに響く河川敷に絵名とゴッホの二人だけが残された。
「……は……ぁ……」
冷たい夜風が肌を刺す。
さっきまで死の恐怖で溢れていたアドレナリンが一気に抜け代わりに襲ってきたのは
全身の骨が軋むような激しい疲労感と虚脱感だった。
初めての魔力行使。
サーヴァント一柱を現世に繋ぎ止めるという破格の負荷が一般人である絵名の華奢な身体を容赦なく蝕む。
(体、重い……。息がっうまく、吸えない……)
右手甲の令呪が熱く痺れている。
絵名はスケッチブックを抱えたままその場に崩れ落ちるように倒れ込んだ。
座り込むことすらできず冷たい砂利の上に肘をついて、ただ荒い息を吐く。
頭がクラクラして、視界がぐにゃりと歪んでいた。
完全に放心状態だった。
命を狙われた理不尽さ。
人間離れした化物たちの存在。
そして、自分の叫びに応えるように現れた
目の前の異質な少女。頭の処理が全く追いつかない。
そんな絵名の顔のすぐ前に影が落ちた。
「おやぁ? だいじょうぶですか、マスター?」
ゴッホがひょいと首を傾げ、顔を覗き込んできた。
漆黒の衣装を揺らし自虐的な笑みを浮かべたままで、首を痛々しい角度に曲げている。
「あはっ、そうですよね。私みたいなツギハギの紛いものを引っ張り出すのに、貴重な命の源を削ってしまったのですから
ごめんなさい、ごめんなさい。
私が出来損ないのサーヴァントだから、あなたにこんな苦しい思いをさせてしまう……」
ゴッホはひらひらと細い指を動かしながら、どこか愉しそうにけれど心底申し訳なさそうに早口で囁く。
「……っ、あんた……なに、言ってるのよ……」
絵名はかすれる声で、途切れ途切れに言葉を返した。
視界が霞む中でゴッホの顔を見つめる。
「謝らないでよ……。あんたが来なかったら
私…あいつに理不尽に殺されてた……。
助けてくれたのは、あんたでしょ……」
自分を「出来損ない」と蔑みながらも、確かに自分の命を救ってくれた少女。
そこに理不尽な自己否定を感じて、絵名は弱々しく眉をひそめた。
「マスター……」
ゴッホの大きな瞳が、わずかに丸くなる。
「……文句なら、あの青い槍の奴とか……私をこんな目に遭わせてる…支離滅裂なこの状況に言いたいわよ……。……っは、急に体の力、抜けて……指一本動かないんだけど…」
絵名は自嘲気味に息を漏らしそのままゴッホの差し出していた手に重くなった自分の額をぽつんと預けた。
「……少し……休ませて。私……描くために
ここに来たんだから...こんなところで……終われないの……」
「……ええ。ええ、分かりましたとも、マスター!」
(マスター……? 何...それ…)
ゴッホは愛おしそうに、そして怪しく瞳を輝かせながら絵名の背中をそっと撫でた。
「お休みください、
哀れで気高き私の描き手さん。あなたの筆が折れるその時までこの紛いもののゴッホが、あなたをお守りいたしましょう……ウフフ、エヘヘ……」
夜の闇の中、意識を失っていく絵名を抱え
ゴッホは不気味で優しい微笑みを浮かべていた。
_________
冬木市・夜の隠密行進
「……ひ、ヒィイッ……!人です……!酔っ払いの人間が歩いてきます……!」
夜の未遠川沿い___
街灯の影から影へとコソコソ移動していたゴッホは、前方から千鳥足で歩いてくる男性の姿を見て悲鳴を上げそうになり手で口を覆った。
腕の中には完全に意識を失い、ぐったりと体重を預けている絵名がいる。
華奢な女子高生一人、サーヴァントの筋力をもってすれば羽毛のように軽い。
問題は、そこではない。
(見られたらマズいです……!深夜に奇抜な格好の女が、倒れた少女を抱えて歩いているなんて……絶対に憲兵案件です!私のせいでマスターが逮捕されてしまいます……!)
「あは、あはは……!影になりましょう…… 私は元より闇に咲くヒマワリ、存在しない絵の具なのですから……!」
ゴッホは焦りまくりながら、すんでのところで自分だけを「霊体化」させた。
直後、千鳥足の男性が街灯の下を通りかかる。
男性の視界に映ったのは——路肩のベンチに、ぽつんと一人で座り込んで眠っている女子高生の姿だった。
「……んあ? なんだぁ、こんなところで寝てると風邪引くぞ……」
男性が不審そうに近づこうとした瞬間。
(近寄らないでくださいぃぃぃっ!!)
ゴッホは透明なまま、ゾワリと狂気の魔気を一瞬だけ漏らした。
冷や汗のような不気味な気配を感じ取った男性は、「ヒッ……!?」と青ざめ慌てて逃げるように去っていった。
「ふぅ…ふぅ……!危なかったです……!マスター、私、頑張りましたよ……!」
冷や汗を拭いながら再び実体化し、絵名を優しく抱え直す。
絵名の髪から漂うほんのり甘いシャンプーの香りと画材の匂い。
自分のような紛いものを呼び出し、あの大男の前で自分を庇うように立ち、助けられたことに素直に感謝してくれたマスター。
(マスター……私の、マスター……。あなたを憲兵なんかに渡してたまるものですか……!)
ゴッホの胸の中に、あたたかくも歪な「信頼」の火が灯っていた。
数分後、絵名が滞在しているビジネスホテルの裏手に辿り着く。
表の自動ドアから入ればフロントのホテルマンに一発で見つかる。
ゴッホは首を痛々しい角度で曲げホテルの外壁を見上げた。
絵名の部屋は事前にポケットの鍵の番号を確認した限り、3階の角部屋だ。
「よし……!窓からお邪魔させていただきましょう……!」
ゴッホは足元に魔力を込めると、静まり返った夜の路地裏でトンッと軽やかに地面を蹴った。
ふわリ、と重力を無視した感覚
風を切って一気に3階のベランダへと躍進する。着地の衝撃音すら殺し猫のようにしなやかにベランダの手すりへ着地した。
「失礼いたします……!」
絵名のサブバッグから鍵を取り出しベランダのクレセント錠を魔術でカチリと外す。
そっとサッシを開け、静かに部屋の中へ滑り込んだ。
部屋の中は、絵名が出かけた時のまま静まり返っていた。
ゴッホは息を殺しながらシーツを汚さないよう慎重に絵名をベッドへ横たえた。
靴を脱がせ、重そうなサブバッグとスケッチブックを机の上に並べる。
そして、ふかふかの掛け布団を胸元まで丁寧にかけてあげた。
「……あはっ。完璧です。完璧なチェックインです……!」
一人で小さなガッツポーズを作るゴッホ。
ふと見ると、ベッドの上の絵名は苦しそうな表情が少し和らぎ規則正しい寝息を立て始めていた。
ゴッホは膝をつき、ベッドの脇から絵名の寝顔をじっと見つめた。
(私みたいな紛いものを引いてしまって……可哀想なマスター。でも……『助けてくれた』と言ってくれた人……)
ゴッホは自分の細い指先で絵名の頬に触れそうになり——「あっ、ダメです、私なんかが触ったら汚れちゃいます!」と慌てて手を引いた。
「お休みください、私の大切なマスター。
あなたが起きるまで……私は影となってあなたをお守りしますね」
ゴッホは愛おしそうに目を細めると、スッと姿を消し
完全な「霊体化」となって部屋の空気に溶け込んだ。
絵名の疲れた体を守るように、部屋には静かで温かい静寂が満ちていた——。