それは、キャスターとの死闘を終え、絵名が自分のなかの変化——魔術回路が体に焼き付く不気味な熱と人を消滅させてしまった恐怖に怯えながらも、どうにか日常を取り繕おうとしていた頃のことだった。
夜の冷たい冬の風が吹き抜ける小さな公園。
ベンチに腰を下ろした絵名は、膝の上に置いたスケッチブックに筆を走らせていた。
その少し離れた植え込みの影、絵名の魔力と波長を繋いだまま気配を消しているのはゴッホだった。
常にべったりと寄り添っているわけではない。絵名が魔術師として覚醒し体内の魔術回路が強固になったことで、ゴッホは少し離れた霊体圏からマスターの精神や魔力の揺らぎを遠隔で感知し、いつでも一瞬で駆けつけられる距離を保つようになっていた。
——つまり
今の絵名は確実に「魔術師」としての足を踏み出している状態だった。
「はぁ、全然うまく描けない」
ふと、筆を止め冷えた指先を息で温めようと顔を上げたとき。
視線の端に、小さな影があることに気づいた。
街灯の届かないベンチの端。
そこにぽつんと座っていたのは、雪のように白い髪と赤いコートを纏った幼い少女だった。
凍えるような夜気に晒されているというのに
少女は震えることもなく、ただうつむいて膝を抱えている。
まるで、この世界のどこにも居場所がないと言わんばかりのあまりにも冷たい孤独をまとって。
(…あの子、誰…?)
絵名がそっと筆を止め声をかけようとした
その時、少女——イリヤスフィールがゆっくりと顔を上げた。
その赤い瞳が絵名と真っ向から交差する。
幼くて、人形のように無機質な美しい瞳
けれどその奥には、誰にも救いを求められず
ただ「残酷な役割」を果たすためだけに生きている者の底知れない諦めが張り付いていた。
「お姉ちゃん、そんなところで何してるの?」
イリヤの声は鈴のように澄んでいたが
同時に凍りつくほど冷たかった。
「っ別になんでもないよ。
ただ、ちょっと…絵を描いていただけ」
絵名がそう答えると、イリヤは意味ありげにフッと小さく笑った。
その笑い方は、子供のそれではなくどこかすべてを諦めた大人のようだ。
「絵、ね…。私にはそんな綺麗なもの、何の意味があるのかわからないや。
だってみんな、私を『道具』か『器』としてしか見てないもの。私に自分の好きなことなんて許されないもん」
その言葉を聞いた瞬間、絵名の心臓が冷たく跳ねた。
「道具」
「器」
その響きは絵名の脳裏に、母親や周囲の期待という見えない型に嵌められ自分の意志を押し殺してすり減っていく......まふゆの姿を強烈にフラッシュバックさせた。
いつも優等生で自分の感情なんてないかのように振る舞い、誰かのための「器」として壊れていくまふゆ。
目の前の少女が纏っている絶望は、まふゆに
あまりにも似てた。
「…っ、そんなこと...!」
無意識のうちに絵名はスケッチブックを放り出し、立ち上がっていた。
「綺麗じゃなくたって自分が選んだものなら
それはその人にしかない心だから...
勝手に『道具』だなんて決めつける筋合いはないよっ...」
声がかすかに震えていた。
それは目の前の少女のためであると同時に、
壊れかけている仲間__まふゆを救えなかった
自分自身の後悔を振り払うための叫びでもあった。
イリヤは驚いたように目を見張りそれから
どこか探るような、けれど少しだけその赤い瞳を揺らした。
「…へえ。
変なお姉ちゃんだね。…私のこと何も知らないくせに」
「うん、知らないよ。名前も知らないしどこに帰るのかも知らない。…でもあなたがすごく冷たいものに縛られてるってことくらい__
分かるよ」
それ以上、二人は言葉を交わさなかった。
イリヤはスッと立ち上がり、雪解けの夜風の中に消えるように音もなく闇へと歩き去ろうとしていた。
「待ってよ!」
立ち去ろうとしたイリヤの背中に向かって、絵名は思わず声を張り上げていた。
自分でも驚くほど必死な響きだった。
イリヤがぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返る。
その赤い瞳には警戒の色ではなくどこか戸惑いが浮かんでいた。
「なに? 私、もう行くところがあるんだけど」
「ねえ…少しだけでいいから、話し相手になって?私、今ちょっと誰かと話したかったからさ」
絵名はそう言い訳するように笑うと、膝の上のスケッチブックを開いた。
イリヤの言葉に心を抉られたとき、絵名の指は無意識のうちに筆を走らせていた。
そこに描かれていたのは、冷たい夜の公園の風景などではない。
温かな光に満ちた部屋のなかで不器用ながらも並んで寄り添い、互いに微笑み合う家族の姿だった。
それは、絵名自身がかつて父親...
家族に対して抱いていた憧れでもあり、
そして——冷たい母親の期待という呪縛の中で、人形のようにすり減っていくまふゆが、いつか本当の意味で救われてほしいと心のどこかで願わずにはいられない、祈りのような色彩だった。
目の前の少女の中にまふゆの姿を見たからこそ、絵名の筆は自然と「誰かに温かく愛される光景」を求めていたのだ。
絵名はスケッチブックのページを丁寧に切り離した。
そして、トコトコと歩み寄るとその紙をイリヤの小さな両手にそっと握らせた。
「これ、あげる」
「…なに、これ」
イリヤは差し出された紙に目を落とし、息を呑んだ。
そこにあったのは、自分とは無縁のあまりにも柔らかくて温かい世界だった。
冷え切ったアインツベルンの城や、誰も自分を見てくれない日常とは真逆の優しい色。
「絵、よ。
...上手く描けてるかはわかんないけどさ」
絵名は少し照れくさそうに頭を掻きながら、まっすぐイリヤの赤い瞳を見つめた。
「家族ってすごく面倒くさくて縛り付けられて、息が詰まることもある。
私の友達もね、そうやって自分の本当の気持ちが見えなくなっちゃってる子がいるんだ。
だから…その子がいつか、こんな風に誰かに優しく笑いかけられる日がくればいいなって、思って」
まふゆの顔を思い浮かべながら、けれどそれは目の前の少女の冷え切った手を温めたいという衝動でもあった。
イリヤはその絵を両手でしっかりと握りしめたまま、しばらく動かなかった。
人形のように感情を押し殺し、「器」としての役目だけを教え込まれてきた彼女にとって、
他人からこんな風に「願い」や「温もり」を込めたものを渡されたのは生まれて初めてのことだったかもしれない。
イリヤの小さな肩が、わずかに震えた。
「……変なお姉ちゃん」
絞り出すような、けれど今までで一番子供らしい、か細い声だった。
イリヤは絵を胸にぎゅっと抱きしめると、それ以上何も言わず今度こそ一礼するように身を翻し、夜の闇の中へと駆けていった。
その背中を見送りながら、絵名は胸の奥に残る奇妙な切なさをそっと噛み締める。
——これが、二人の最初の邂逅だった