「――っ、ふざけんじゃないわよ!」
足がすくみ、心臓がうるさく脈打つ。
目の前に立っているのは一瞬で最強のサーヴァントを屠った正真正銘の怪物だ。
こんな世界に関わるべきじゃなかった、逃げるべきだという理性が頭の中で叫んでる
それでも、ボロボロになりながら自分の描いた絵を握りしめているイリヤの姿を見た瞬間、恐怖よりも強い怒りと焦りが絵名の全身を突き動かしていた。
「勝手に人の生き方を決めて、道具みたいに使い捨てるなんて!あんたにとって何が『器』だか知らないけど…あの子は、あの子自身が生きる権利があるのよッ!」
震える声を絞り出し、絵名はギルガメッシュとイリヤの間に割って入るように立ち塞がった。
その背後にはゴッホがいつでも主の盾になるべく鋭い魔力を纏っている。
「なに...?」
ギルガメッシュは、目の前で命を張って吠えてみせた少女をひと目見てわずかに眉をひそめた。
数日前から何回か会ってる
「面白い見世物」
まさかその雑種が、よりによってこのアインツベルン城の死地にまで足を踏み入れ自分の邪魔立てをしようとは思いもしなかったらしい。
すでにバーサーカーを片付け、セイバーやアーチャーたちの相手も面倒くさくなっていた王の機嫌が、ピクリと動く。
「あの夜、覚悟を決めた雑種が再び我が前に現れたかと思えば…またしてもその不遜な口を叩くか。愚行もここまでくると、もはや天晴れだな
東雲絵名」
名乗ってもいない自分の名を正確に告げられたことに絵名が息を呑む間も無くギルガメッシュは冷徹な笑みをふっと消し、やれやれと言い捨てるように肩をすくめた。
「…だが、興が逸れたわ」
「は……?」
「これ以上あんなガラクタの処刑や、こんな場違いな茶番に付き合ってやるほど、我の時間も暇ではない。あの小娘の運命でも塗り替えてみせるがいい」
冷たい夜風の中、ギルガメッシュはそれ以上言葉を重ねることなく姿を消していった。
圧倒的な気配が去ったあとの城には、ただ重い沈黙と絵名の荒い息遣いだけが残されていた。
「はぁっ、はぁっ…行った…?」
緊張の糸が切れたように、絵名の膝がガクンと折れそうになる。
それを必死にこらえ彼女はすぐに振り返り
士郎や凛には目もくれず、ただイリヤへと駆け寄った。
「っ...大丈夫!?」
絵名は息を切らせながらイリヤの傍らに駆け寄り、その小さな身体をそっと支え起こした。
触れたイリヤの体温は驚くほど冷たく、純白のコートは血と泥に汚れていた。
そして、その震える両手は今もなお胸元に押し当てられた一枚の紙_______
あの夜、公園で手渡したスケッチブックの切れ端をまるで見えない鎖に縛られたかのように固く握りしめている。
「なんで...そんな大事そうに、
その絵なんか持ってるのっ」
絵名は言葉を詰まらせた。
聖杯戦争がどうとか、魔術師同士の殺し合いがどうとかそんな物騒な事情はよく分からない。
ただ分かるのは、目の前の少女が自分の想像を絶するほど残酷な痛みに耐えてきたということだけだ。
イリヤはゆっくりとまぶたを持ち上げ、痛みに歪む顔のまま目の前にいる絵名を見上げた
夢でも幻でもなく、あの夜の温もりを纏った「変なお姉ちゃん」が本当に自分のためにここまで走ってきてくれたのだと気づいた瞬間、イリヤの赤い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…お姉ちゃんは…二回も、私のことを助けてくれたんだね…」
「え……?」
絵名は戸惑い、目を丸くした。
「一回じゃなくて?」
「うぅん…二回だよ。
あの夜、あの絵をくれた時と今、この場所で」
イリヤは震える手で、ぎゅっと握りしめていた紙をそっと広げた。
血にまみれ、端が少し破れかけていながらも
そこに描かれた温かな家族の光景は、今も柔らかい色彩のままでイリヤの胸元を照らしていた。
「私、ずっと自分には何もないって思ってた
誰かのために壊されて、使い捨てられるだけの道具だって。そうやって諦めるしかなかったの。でも……」
イリヤの声が小さく、けれど確かに震えていた。
それは、人形のように感情を押し殺していた少女が初めて零した「生きたい」という本音だった。
「あの夜、お姉ちゃんがこれをくれたから
私の中に初めて温かいものがあったの
だから、今日までこれを持っていられた。
これがあったから……私、折れずにいられたんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、絵名の胸の奥で何かが激しく熱を帯びて弾けた。
自分が描いた絵______
誰にも認められず、
うまく描けなくて、
何度も投げ出したくなったあの絵が。
目の前の少女の凍てついた心を温め過酷な絶望の中で生きるための、お守りになっていた
自分の絵では、まだ一番救いたいと思っていたまふゆを完全に救い出すことはできていない
自分の描く色なんてまだ未熟で、中途半端だと思い込んでいた。
——それでも
(…私の絵は...
ちゃんと誰かに届いてたんだ)
絵名の目から、堪えきれず涙がこぼれ落ちた。
彼女は言葉を失いながらもそっと震えるイリヤの肩を優しく抱き寄せた。
「…バカね、あんな落書きみたいな絵……」
掠れた声でそう呟きながらも、絵名はイリヤの背中を優しく包み込むようにさすった。
名前も知らない。
お互いの抱えている本当の闇の深さだって
まだ全部は分からない。
それでも、冷たい冬の夜風が吹き抜けるアインツベルン城の庭園で2人は確かにその温もりで結びついていた。