士郎が静かにその場を立ち去り、縁側には再び冷たい夜気と絵名だけが取り残された。
(なによ、あいつ。
あんなボロボロになりながら笑って...本当バカみたい)
絵名は膝を抱えたまま、冷えた指先を自分の腕に巻き付けた。
他人の心配をしている余裕なんて自分にはないはずなのに、どうしても目の前で自己犠牲に走る人間を見過ごせない。
それは、かつて自分のすべてを削って絵を描き続けた私自身が、一番恐れていた姿だからかもしれない。
「――夜更かしはお肌に毒ですよ。東雲さん」
ふいに、背後から凛とした声が響いた
絵名がハッとして振り返ると、そこには月の光を浴びた少女——セイバーが音もなく佇んでいた。
(っ…いつのまにか…?)
絵名は息を呑んだ。
戦いの場で見せた鋭い気配とは違う、けれど、一歩間違えればすべてを切り裂きそうなほどの圧倒的な気高さがあった。
名だたる英霊だなんて知らなくても、本能が警告を鳴らす。この少女は自分とは比べ物にならないほどの重みを背負って生きているのだと
セイバーは絵名の隣から少し離れた場所に目を向け、静かに夜空を見上げながら口を開いた。
「…彼のことを。
先ほどあなたの話していた、あの少年の歪さについて」
「っ。聞いてたの…?」
「ええ、少しだけ」
セイバーはわずかに目を伏せ自嘲するような、けれどどこか切なげな微笑みを浮かべた。
「私も…士郎の生き方には、時として酷く危うさを、そして目を背けたくなるほどの痛みを覚えることがあります。
すべてを救おうと身をすり減らし、自分の心を踏みにじっていくその姿は…あまりにも過去の誰かに似すぎているから」
その言葉に、絵名はハッとした
セイバーの瞳の奥に揺らいだのは主従としての信頼だけではない、もっと重くて苦しい何かを失った者の諦めのようなものだった
絵名は、目の前に立つこの小さな騎士の姿に
またしても「自分自身の弱さ」を突きつけられたような気がした
他人の歪みを「バカだ」と切り捨てたけれど、じゃあお前はどうなんだと、心の奥の自分が問いかけてくる。
「本当は...私だって、偉そうなこと言えないの...」
絵名が自分の膝を抱え込み、胸の内にくすぶるモヤモヤを吐き出すようにぽつりと呟いた
「私はさ...自分の絵が描けなくて、
何が正解なのか分からなくてずっと悩んでる。
それなのに…あいつみたいに自分の命を投げ出すような奴を見ると、どうしても放っておけないのよ」
絵名の視線の先には庭木が揺れていた。
「私の周りにもいるから……
自分の心をすり潰して曲を作り続けることでしか生きられない子が。
だから、分かるの。それは『誰かのための優しさ』なんかじゃなくて自分を罰してるだけの...
____ただの呪いだって」
「――ですが、
彼女はそれを選んだのでしょう?」
静かな声で遮ったのは、隣に佇むセイバーだった。
彼女は月の光を浴び絵名とは少し違う、遠くを見据えるような瞳を夜空に向けた。
「士郎のなかに、かつての私と同じものを見るのです。…すべてを救いたいと願い自らの痛みを麻痺させ、ただ『正しく在るべきだ』とすり潰されていく道。
それは確かに周囲の者から見れば呪いや破滅に映るかもしれません」
セイバーの声には微かな自嘲と、どうしようもない痛切さが滲んでいた
「私はかつて、王として生きる中ですべての民を救うために自らの心も欲求も捨て去りました
...ですが、結果として何をもたらしたか。
私は誰の手も温めることができず、ただ孤独に滅びの時を迎えました。だからこそ士郎の危うさが、他人事とは思えないのです」
絵名は、隣に立つ少女の横顔を見た
名もなき少女でありながらその背中には世界を背負ってきたかのような、あまりにも重く深い孤独が纏われている。
絵名にはこの騎士が背負ってきたものの本当の重さは分からない____けれど、「すべてを救おうとして、結局何も救えなかったかもしれない恐怖」に囚われ続けていることだけは、痛いほど伝わってきた。
「__じゃあ、どうすればいいのよ...」
絵名は絞り出すように言った。
「自分のために描く絵と、誰かを救うための絵のどっちを取ればいいのかも分からない
ニーゴのみんなが抱えてる闇も、私の力じゃ全部なんて救えないかもしれない。
なのに見過ごすこともできなくてこうして足掻いてるのって、間違ってるのかな…?」
自分の無力さと、それでも誰かを救いたいというエゴの狭間で揺れる絵名にセイバーはゆっくりと視線を向けた。
その蒼い瞳には冷酷な王としての光ではなく、同じように這いつくばってきた者同士の温もりが宿っていた。
「間違っては、いません」
セイバーは静かに、けれど力強く首を横に振った。
「すべてを救うことなど人にはできません。
私が生涯かけて学んだのは、あまりにも残酷なその事実でした。ですが___」
セイバーは夜空に手を伸ばした
「あなたが誰かのために筆を執り、その心をわずかでも温めたという事実の重さは決して消えることはありませんよ。
士郎が誰かを救おうとする姿もまた、破滅ではなく誰かの暗闇を照らす灯火になり得る
だから迷うことはありません。あなたがあなたの色で、その手を伸ばしたいと思うのならば」
セイバーのその言葉は、絵名の胸の奥で固まっていた異物をそっと溶かしていくようだった
全部を救えなくたっていい
自分の絵が未熟でも、誰かの心をほんの少しでも救えたなら——それは間違いなく私だけの意味を持つ
冷たい夜風のなかで、不器用な少女とかつての王様というまったく異なる世界を生きる二人の少女の心が、静かに重なり合う夜だった_____