静かなホテルの部屋に、朝の光がカーテン越しに淡く差し込んでいた。
絵名は重い瞼を開き、見覚えのない白い天井を見つめた。
頭の奥がズキズキと痛む。見知らぬベッドの感触に、ここが渋谷の自分の部屋ではなく冬木市のホテルであることを思い出す。
「……そっか……私、冬木に……」
昨夜の出来事が、現実味のない影となって脳裏をよぎる。
夜の街で突如として突きつけられた死の恐怖。そして、光と共に現れた少女。
(...夢じゃ、ないよね……)
絵名が身体を起こすと部屋の隅——陽の当たらない壁際に、小さく丸まっている影があった。
ひまわりのような衣装を纏った少女が、自分の膝を抱え、身体を細かく震わせている。
『……あ……起きて…しまわれましたか……』
消え入りそうな、蚊の泣くような声
少女は恐る恐る顔を上げた。
『あは...ごめんなさい……私なんかがこんなところで息をしていて、不快でしたよね。
気味が悪いですよね……。私消えた方がいいでしょうか……? 私……私なんて、本当は生まれてこない方がよかった存在なのに……っ』
爪を立てて自分の腕を強く擦り始め、急速に自虐の渦へと落ちていく少女。
名前すら明かせないほどの強い自責と恐怖に苛まれその呼吸は浅く、今にも自分を壊してしまいそうなほど不安定だった。
絵名は思わず息をのむ。
(……なに、この子……)
その痛々しい姿に、絵名の胸がキュッと締め付けられた。
感情を暴走させて自傷しようとする危うさ自分を価値のない存在だと決めつけて傷つく姿。……それはどこか、自分の知っている仲間たちの姿や、時折自分自身が陥る深い暗闇と重なって見えた。
絵名はベッドからそっと脚を下ろすと、少女を脅かさないよう静かに歩み寄った。
そして少女の目線に合わせて柔らかく、でもしっかりとした声で問いかける。
「……ねえ。大丈夫?」
少女がビクッと肩を跳ね上げ、おどおどと絵名を見上げる。
「腕、痛いでしょ。
もう擦らないで…お願いだから」
「あ……ま、マスター……?怒って……いらっしゃらない、のですか?こんな……出来損ないの私なのに……」
「怒ってないよ。……驚いただけ」
絵名は困ったように小さく笑うと膝を抱える少女の手へ、そっと自分の手を重ねた。
「…昨日は助けてくれて、ありがとう。
ねえ、落ち着いたらでいいからゆっくり教えてくれる?...あんたが誰なのか」
絵名の温かい手に包まれ、少女の瞳の揺れが、ほんの少しだけ収まっていく。
静かなホテルの一室で、二人の時間が動き始めていた。
「……あ、ありがとう、だなんて……」
絵名の言葉を聞いた瞬間、ゴッホは弾かれたように目を丸くした。
そして次の瞬間には今にも崩れ落ちそうなほど顔をクシャクシャにして、ぼろぼろと涙を零しはじめる。
「そんな、お礼だなんて滅相もないです……!わたしはただ、あなたの命の危機に勝手に呼び出されただけの……出来損ないの、不気味なサーヴァントなのに……!綺麗で優しいマスターに……そんな温かい言葉をかけてもらえるなんて」
「ちょっと、なんで泣いてんのよ……!?
泣かないでよ!」
急に大泣きし始めたゴッホに、絵名はおろおろと手をかざした。
自分だって昨日の今日でパニックになりたいくらいなのに、目の前の少女(?)があまりにも情けなく泣くものだから毒気を抜かれてしまう。
絵名はため息をつきながら、ベッドの端に腰を下ろした。
昨夜の恐怖はまだ胸の奥に冷たく残っている。
あの青い槍を持った男の殺意。
そして、この少女が放った常軌を逸した「力」。
「……ねえ。泣き止んだら、ちゃんと説明して」
絵名は右手の甲に浮かび上がった、刺青のような赤い紋様をじっと見つめた。
「ここは冬木市で私はただ、スケッチ遠征に来てただけ。なのに急にあの人に襲われて……気づいたら手甲が痛くなって、あなたが現れた。……これ、一体何が起きてるの?」
ゴッホは袖でゴシゴシと涙を拭うと、申し訳なさそうに身を縮めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「はい……。ここは……『聖杯戦争』の戦場です
あらゆる願いを叶える万能の願望機『聖杯』を巡り、7人の魔術師と7騎の英霊が殺し合う…血塗られた儀式、です……」
「……は?
殺し合い……?万能の願望機……?」
絵名は眉をひそめた。
おとぎ話かB級映画のような話だ。
しかし、昨夜体験した「死」のリアルな感覚がそれが現実だと残酷に告げている。
「そんなの……聞いてないわよ。
私、魔術師でも何でもないただの女子高生よ!?聖杯なんていらないし、そんなものに興味もない!」
「はい……絵名さんからは…魔術師としての『血』の匂いがほとんどしません……。だから、巻き込まれてしまったのは……わたしのせい、です。わたしのような異形が……絵名さんの『諦めたくない』という切実な想いに勝手に引き寄せられてしまって……うぐっ、ごめんなさい……ごめなさ……」
「だから謝らないでって言ってるでしょ!」
また自分を責め始めたゴッホの言葉を、絵名は強い声で遮った。
そして、ゴッホが言った「諦めたくないという切実な想い」というフレーズに胸を突かれる。
(昨日の夜、私は自分の才能のなさに絶望して、泣きながらスケッチブックに向かってた……。『何者かになりたい』って、血を吐くような思いで筆を握ってた……)
それが、この少女を呼び寄せてしまったのだとしたら。
絵名はぐっと口唇を噛み締め、
窓の外——朝日が昇り始めた冬木市の街並みを見つめた。
「……要するに。
私を殺そうとしたあの男みたいに、他の連中も私を狙ってくるってことね?」
「……はい。マスターである絵名さんを倒すのが、一番手っ取り早いですから……」
「ふざけないでよ……」
絵名はベッドのシーツを固く握りしめた。
怒りと、理不尽さへの苛立ち。
だが、その瞳の奥には弱々しい絶望ではなく「足掻いてやる」という情熱が宿り始めていた。
「私は死なない。絶対に渋谷に帰るの。……奏やまふゆ、瑞希、家族みんなが待ってる場所に」
絵名は立ち上がり、ゴッホの正面に立った。
自分よりも背の低いおどおどと震えるサーヴァント。
けれど、その手には昨夜自分を救ってくれた強大な力が握られている。
「改めて私、東雲絵名。
見ての通り...才能も何もないただの絵描きよ。でも諦めるのだけは嫌いなの」
絵名は右手を差し出した。
「私に殺し合いのルールなんて分からないし
魔術なんて使えない。……でも、生き残るために足掻く覚悟ならある。私を・・・無事に家に帰すために、力を貸してくれる?」
ゴッホは差し出された絵名の手に目を奪われた。
絵の具の匂いがかすかに残る、爪に少し塗料が残った、「絵を描き続ける人間の手」。
「マス、ターさん……」
ゴッホの瞳から、再びぽろぽろと涙が溢れた。けれど、今度の涙は先ほどまでの自責の涙ではなかった。
ゴッホは両手で、絵名の小さな手をしっかりと握り返した。
「はい…… わたし…足で纏で、不気味な召喚物ですけれど……!絵名さんの命と……その描く手を……絶対に、守ってみせます……!」
朝の光が差し込むホテルの一室で、正式に絆を結んだ二人。