秋の澄んだ日差しが降り注ぐ冬木市・新都。
昨夜のあの凄惨な空気と死の恐怖が嘘のように、駅前の通りには買い物を楽しむ家族連れや学生たちの姿が行き交っていた。
「……で、あんたの名前だけど」
カフェのテラス席の端。絵名は買ったばかりのアイスカフェラテにストローを挿しながら、対面に座る少女――私服代わりに絵名の予備のパーカーをダボッと羽織ったサーヴァントを見つめた。
「さっき小さく『ゴッホ』って聞こえた気がしたんだけど……まさか、ね。あの教科書に出てくる大画家のわけないわよね?女の子だし」
「ひっ…
い、いえ!滅相もないです!わたしなんかがそんな偉大な画家の名を名乗るなんて恐れ多すぎて、呪いで自害してしまいます!わたしは……その、うぐぐ……」
案の定、少女はあわあわと手を振りながら激しく首を横に振った。あまりのパニックぶりに
絵名は「分かった分かったから!」と手で制する。
「分かったわよ。本当の名前を軽々しく教えるのは危険だって、あんたも言ってたしね
じゃあなんて呼べばいいの、クラス?だっけ」
「あ…はいっ。わたしのクラスは……『フォーリナー』外来者、です」
「フォーリナーね。じゃあ、当分は『フォーリナー』って呼ぶわ」
「は、はい…!フォーリナーとお呼びください、マスター!」
ホッとしたように胸を撫でおろすフォーリナー。
絵名はふうと息をつき、手元のスケッチブックに目を落とした。
実は、朝からひとつだけ不思議なことがあった。
魔術の素養なんて一切ないはずの自分が、なぜか体の重さを感じない。むしろ普段徹夜で絵を描いている時よりも頭が冴えているくらいだ。
(フォーリナーが言うには私が『描きたい』って強く念じる情熱そのものを、彼女が魔力に変換して受け取ってる……らしいけど)
理屈はさっぱり分からない。けれど、自分が筆を走らせようと決意するたびに、体の中から温かい何かがフォーリナーへと流れていく感覚だけは確かにある。
私たちは間違いなく「描くこと」で繋がっている。
「ねえ、フォーリナー。街の様子を見に来たはいいけど、敵のマスターとかサーヴァントって
どうやって見つければいいの?」
「うぅ……本来なら、魔術師同士の『魔力感知』でお互いの気配を探るのですがマスターには魔術回路がありませんし、わたしも索敵は得意では……あっ、でも、なにか異様な気配があれば、霊体として街を見渡して――」「……ねえ」
フォーリナーの言葉を遮り、絵名は急に目を細めた。
彼女の視線は、通りを挟んだ向かい側――新都のシンボルでもあるビル群と、その背後に広がる商業エリアの一角に注がれている。
「何かしら、これ。
なんか……『不自然』じゃない?」
「え……?」
絵名は手に持った鉛筆を、デッサンの構図を測るようにすっと立てた。
毎日毎日、キャンバスに向かってキャンバスの
明暗、
光の角度、
色彩の濁り、
空気のグラデーションを血が出るほど観察し続けてきた絵名の「画家の目」。
その目が、昼間の街並みの中に決定的な『狂い』を捉えていた。
「あのビルの屋上周辺、光の屈折がおかしいわ。日陰の落ち方と空の青さの度合いが微妙にズレてる。……まるで、誰かが雑な透明絵の具で
そこだけ上書きしたみたいに」
「な……ッ!?」
フォーリナーは息を呑み、絵名が指さす方向へ視線を向けた。
最初は分からなかった。だが、絵名に言われて意識を集中すると――そこには極めて巧妙に隠蔽された「魔術の結界」の歪みが存在していた。
「す…すごいです、マスター!術式としても気配としても完璧に隠されているのに……『空間の色彩の違和感』だけで見破るなんて」
「……やっぱり、あれ『普通の景色』じゃないのね?」
「はい……!あれは、おそらくどこかのマスターが張った『認識阻害の結界』です。あそこに何か……陣地のようなものを構築している可能性があります!」
絵名はフン、と鼻を鳴らした。
「雑なレタッチ見落とすほど、私の目は腐ってないわよ。……あんなの画面のバランスを壊してる悪手だわ」
魔術の知識ゼロ。
けれど、膨大な観察とスケッチによって培われた「違和感を見抜く洞察力」。
それが、一般人であるはずの東雲絵名をどんな熟練の魔術師よりも鋭い「異変の探知機」に変えていた。
「どうする、マスター…?近づいて、様子を探ってみますか?」
フォーリナーがおずおずと尋ねる。
「行くわけないでしょ、バカ言わないで」
絵名は呆れたように即答し、買ったばかりのアイスティーをズルズルと吸った。
「昨日の今日よ?殺されかけたの、なんで自分から怪しいところに突っ込んでいかなきゃいけないのよ。あそこには絶対に近づかない。いいわね?」
「は、はい…!ごめんなさい、わたしったら浅はかで……ッ!マスターを危険に晒すような提案をしてしまいました。愚かなわたしを絵の具の溶剤で洗ってやりたいです……っ!」
「だから大袈裟に謝らないでってば……」
頭を抱えるフォーリナーにため息をつきつつ
絵名はスケッチブックを鞄に仕舞った。
「とにかく、あのビル周辺には近づかないように遠回りしてホテルに帰るわよ。私は無事に渋谷に帰りたいだけなんだから」
そう言って立ち上がり、わざと違和感のあるビル群とは逆方向の静かな路地裏を選んで歩き出した。
——だが、絵名はまだ知らなかった。
聖杯戦争において、「危険を避けようとする者ほど、歪んだ悪意に絡め取られる」という冬木のジンクスを。
カツン、カツン、と住宅街のブロック塀に足音が響く。
「……ねえ、フォーリナー。
なんだか静かすぎない?」
昼間のはずなのに、通りから一本入っただけで人通りがピタリと途絶えていた。
まるで、街全体が巨大な水槽の中に沈んでしまったかのような気味の悪い静寂。
「マスター、止まってくださいっ!」
フォーリナーが青ざめた顔で絵名の前に立ち塞がる。
「空間の色が、急速に濁っていきます...
これ、遠くの結界じゃありません…『今、まさに私たちの頭上で発動している』……ッ!!」
「え……!?」
絵名がハッと見上げると、住宅街を囲む電柱や塀の影がねっとりとした紫色の靄となって伸び、空を覆い始めていた。
「—おや?鼠がかかったかと思えば、見慣れない顔だね」
頭上から、嘲るような薄笑いを含んだ若い男の声が降り注ぐ。
見上げると、高いブロック塀の上にワカメのような青緑色の髪をした学ラン姿の少年
——間桐慎二が立ち下ろしていた。
その隣には、紫の長髪に目隠しをした不気味な女性が佇んでいる。
「新顔のマスターかい?挨拶もなしに僕の『餌場』に迷い込んでくるなんてうっかり者にも程があるよ」
「…っ、なによ、あんた……!」
絵名は身構えた。
自分の足元から急速に体力が奪われていくような酷い眩暈と吐き気が襲ってくる。
街の景色がドロドロと溶け始めていた。
危険を避けて逃げた先が、慎二が街に仕掛けていた「一般人の生命力を吸い上げる結界」の展開エリアの真っ只中だったのだ。
「フン……魔術師の気配もしないしただの出来損ないか。まあいいやライダー、そいつらを殺して令呪を奪え。僕のコレクションにしてやるよ」
「——承知いたしました、マスター」
紫の影が、風を置き去りにする速度で跳躍する。
「マスター!!」
フォーリナーが叫び、絵名を庇うように前に飛び出した——。