いつも通りの日常
プリベット通りの朝はいつだって整っていた。
芝生は短く刈り揃えられ玄関先の植木鉢には季節の花が並ぶ。家々の窓は朝日を受けてきらきらと輝いて、通りを歩く人々は互いに会釈を交わす。
誰もが自分の家を誇りに思い隣家より少しでも立派に見せようと努めている。そんな通りの中でもとりわけ「普通」であることに熱心なのが、四番地のダーズリー家だった。
大きな家の黄色い煉瓦造りの二階建て。白い窓枠に手入れされた芝生。
そして、そこに住む人間たちもまた、どこから見てもごく普通――少なくとも、そう見えるように努めていた。
ダーノン・ダーズリーは朝食の席で新聞を大きく広げていた。ネクタイを締めて髪をきちんとなでつけ、太い首をシャツの襟に押し込んでいる。
妻のペチュニアは、台所からベーコンを運んでいた。その隣では、息子のダドリーが皿いっぱいの料理を口に詰め込んでいる。
そして――
その食卓から少し離れた場所に小さな椅子があった。そこに座っている少年だけが、この家の景色の中でひどく異質だった。
クシャッとした黒い髪に細い身体。額には薄い傷跡。
そして、何よりも目立つのが――鮮やかな緑色の瞳だった。その色を見た瞬間、ペチュニアの胸には、いつも決まった感情が湧き上がる。
嫌悪。恐怖。懐かしさ。…認めたくないほどの愛情。リリーと同じ目。
鏡を見ているような錯覚を起こすほど、姉によく似た顔立ち。だが、笑ったときだけは違った。
少年の口元が少し持ち上がると、そこにはジェームズの面影が浮かぶ。あの男の、嫌になるほど自信に満ちた笑い方。ペチュニアは、それが嫌だった。嫌で、嫌で仕方がなかった。だからこそ、ハリーがこちらを見ていることに気づくと、視線を逸らした。
「ハリー」
ダーノンの声が飛んだ。
「はい」
「食べ終わったら車を見ろ」
ハリーは一瞬、箸を止めた。
「車?」
「昨日からエンジンの音がおかしい。会社へ行く前に分かるなら見ておけ」
ペチュニアが振り返り声を掛ける。
「あなた、その子にそんなことをさせるの?」
「できるんだろう?」
ダーノンは新聞から目も上げない。
ハリーは少し考えた。
「たぶん」
「たぶんだと?」
「見てみないと分からないから」
ダーノンが眉をひそめた。だが、怒鳴る代わりに鼻を鳴らした。
「生意気な口を利くな。直せるなら直せ」
「分かった」
ハリーは頷いた。
褒められたわけではないし期待されたわけでもない。
それでも、ハリーはほんの少しだけ嬉しかった。
機械を触ることは好きだった。壊れたものには理由がある。部品が摩耗していたり接触が悪いとか歯車が噛み合っていないなんか、どこかに無理がかかっている。
原因を探して、組み直して、動かす。それは人間よりずっと分かりやすかった。ハリーが食器を片付けて外へ出ると、ダドリーも後からついてきた。
「おい、ハリー」
「何?」
「昨日のこと覚えてるか?」
ハリーは振り返った。
ダドリーは拳を握っている。
「何のこと?」
「とぼけんなよ!」
ダドリーが走り出した。ハリーも走った。迷う必要はなかった。ダドリーは速い。だがハリーはもっと速かった。体格なんて敵わないし腕力でも敵わない。だから、捕まらないよう少しだけ速く走る、庭を横切り物置の角を曲がる。ダドリーが手を伸ばした。
「待て!」
「待ったら殴るだろ!」
「殴る!」
「じゃあ待たない!」
ハリーは笑った。それがダドリーには腹立たしかったらしい。
「笑うな!」
追いかける勢いのまま、ダドリーが物置脇に置かれていた棚へ突っ込み箱が倒れた。中から工具が散らばりそのうちの一本が古い金属製のケースに当たった。
ガシャン、と嫌な音がした。
二人とも動きを止め、ハリーはケースを見た。
ダーノンが大切にしている工具箱だった。
「……まずい」
ダドリーの顔から血の気が引いた。
「どうしよう」
「どうしようって……」
ハリーはしゃがみ込み見る、留め具が歪んでいて蝶番も少し曲がっていた。
「直せる」
「ほんと?」
「うん」
「パパに怒られない?」
ハリーは工具箱を手に取った。
「怒られると思う」
「……」
「だから、怒られる前に直そう」
ダドリーはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……手伝う」
「じゃあ、そこ押さえて」
「分かった」
兄弟は――少なくとも、兄弟のように育った二人は、並んで壊れた工具箱を直し始めた。誰にも見られていない場所で、それがこの家における二人の関係だった。
殴る。逃げる。壊す。直す。
何事もなかったように、また翌日を迎える。
その日の夕方ペチュニアは台所で皿を洗っていた。窓の外ではハリーが庭の片隅に座っていた。膝の上には壊れたラジオ。いつから壊れていたのかは分からない、ハリーは小さなドライバーを使って内部を覗き込んでいる。
手つきが妙に慣れていた。
ペチュニアは、その姿から目を逸らせなかった。姉も、こんな顔をしていた。何かに夢中になったとき。目を輝かせて、周りが見えなくなるほど集中していた。けれど、横顔はジェームズだった。それが、どうしようもなく腹立たしい。やがてハリーが顔を上げた。緑の目が窓越しにペチュニアを捉えた。ペチュニアは反射的に顔を背けた。
「……ハリー」
呼んでから、自分でも驚いた。
少年が立ち上がる。
「何?」
「……その、ラジオ」
「うん?」
「直るの?」
ハリーは少し笑った。
「たぶん。線が切れてるだけだと思う」
「そう」
それだけだった。
ペチュニアは再び皿を洗い始めた。だが、手元がわずかに震えている。自分でも分からなかった。
なぜ、あの子が笑えることを、少し嬉しいと思ってしまったのか。なぜ、あの子が笑うと胸が痛むのか。
なぜ――
あの緑色の瞳を見るたびに遠い昔の妹の姿が蘇るのか。ペチュニアは蛇口を強く捻った。水音が大きくなる、その音に紛れるように呟いた。
「……リリー」
庭では、ハリーが知らず知らずのうちに微笑んでいた。そして、壊れていたラジオから、かすかな音楽が流れ始めた。ハリーは嬉しそうに笑った。
その笑顔は――
リリーにも、ジェームズにも似ていた。