私のことは親しみを込めて鬼龍院さんと呼びなさい 作:みみみみm
とあるところに、安心院なじみに憧れた男がいた。
それはもう、どうしようもないほどに。
憧れた。
陶酔した。
畏怖した。
そして、愛した。
もちろん、恋愛的な意味ではない。
彼にとって安心院なじみという存在は、生半可な言葉で表現できるようなものではなかった。
彼女は彼にとって、一種の理想とも言えるような存在だった。
いや、理想という言葉ですら生温い。
「こうなりたい」と願う対象。
「こうあるべきだ」と信じる対象。
そして何よりも――「自分では決して届かない」と理解しながら、それでもなお手を伸ばしたくなる対象。
それが、安心院なじみだった。
彼は『めだかボックス』という作品に登場するその存在に、文字通り人生を狂わされた。
あまりにも規格外。
あまりにも超越的。
あまりにも強大。
それでいて、どこか飄々としていて、すべてを見透かしたような態度を取り、何をしても「まあ、僕だからね。」とでも言いたげな余裕を崩さない。
その姿に、彼は心底惚れ込んだ。
「自分もこうなりたい。」
そう思った。
もちろん、無理だということは理解していた。
現実の人間が漫画のキャラクターそのものになれるわけがない。
安心院なじみのような存在になれるわけがない。
彼女が持つ異常なまでの能力も、メタ的な視点も、作品世界そのものを俯瞰するような存在感も、自分には手に入らない。
それでも。
彼は諦めなかった。
諦めるという選択肢を、最初から持ち合わせていなかった。
安心院なじみのような立ち振る舞いを研究した。
安心院なじみならどういう場面でどういう言葉を使うのかを考えた。
余裕のある笑み。
相手を食ったような態度。
どんな状況でも崩れない平静。
自分以外の存在を、等しく下に置くような視線。
彼は、それらを一つずつ自分の中に叩き込んでいった。
鏡の前で何度も笑った。
何度も喋った。
何度も姿勢を直した。
時には一人で会話の練習までした。
他人から見れば狂気の沙汰だっただろう。
だが、本人にとっては真剣そのものだった。
いつか、安心院なじみになりたい。
その一心だけで、気の遠くなるような時間を努力に費やした。
肉体を鍛えた。
頭脳を鍛えた。
観察力を鍛えた。
記憶力を鍛えた。
話術を鍛えた。
心理学を学び、人間という生き物について考え続けた。
身体能力に関しては、もはや趣味の領域を超えていた。
走る。
跳ぶ。
殴る。
蹴る。
投げる。
受ける。
避ける。
それらを延々と繰り返した。
「安心院なじみなら、これくらいできるはずだ。」
根底にあるのは、ただ、それだけ。
理由としてはあまりにも単純だった。
だからこそ、彼は強くなった。
どこまでも。
どこまでも。
そして───。
そんな彼の人生は、ある日突然終わった。
信号無視のトラックによって。
「……え?」
轢かれた。
ほんとうに呆気なく、彼は轢かれた。
あまりにも古典的。
あまりにも前時代的。
異世界転生系作品のテンプレートをそのまま現実に持ってきたかのような最期だった。
「いや、待て。これは……。」
彼が最後に何を思ったのか。
それは誰にも分からない。
ただ。
もしかしたら彼は、こんなことを考えていたのかもしれない。
────これ、転生フラグじゃないか?
そして。
その予想は、見事なまでに的中した。
彼は死んだ。
そして───生まれ変わった。
ただし。
そこには一つだけ、とても大きな問題があった。
前世の記憶が、一部抜け落ちていたのである。
おそらく、トラックに轢かれた際の衝撃が原因だろう。
幸いなことに、一般常識や生活に必要な記憶の大部分は残っていた。
文字も読める。
言葉も分かる。
自分が何者だったのかも、おぼろげながら理解している。
しかし神のいたずらか、あるいは悪魔の嫌がらせか。
なぜか。
たった一つの存在についてだけ、記憶が酷く曖昧だった。
自分が何よりも憧れていた存在。
人生を捧げるほどに追いかけ続けた存在。
あれほど研究し、あれほど真似し、あれほど近づこうとした存在。
その名前が───思い出せない。
特徴も。
能力も。
細かな容姿も。
どこに住んでいたのか。
何をしていたのか。
そういった情報が、霧の向こう側に隠されてしまったかのように思い出せない。
しかし。
奇妙なことに。
一つだけ、強烈に残っているものがあった。
その存在の「性格」である。
いつも飄々としていた。
何事にも動じなかった。
自分以外のすべてを等しく見下していた。
何より────。
自分が物語の外側にいるかのような、妙な言動をする人物だった。
それだけは、鮮明に覚えていた。
そして。
もう一つ。
彼女の名前の一部だけが残っていた。
『〇〇院〇〇』
それが、その存在の名前だった。
……たぶん。
少なくとも、本人はそう思っていた。
そんな彼が生まれ変わった先。
その世界は、前世の世界とよく似ていた。
文明もある。
学校もある。
車もある。
スマートフォンもある。
インターネットもある。
どうやら完全な異世界というわけではないらしい。
そして。
彼――否。
今生では彼女となった存在の名前は。
鬼龍院楓花。
きりゅういん、ふうか。
何を隠そう。
『ようこそ実力至上主義の教室へ』。
その物語に登場するキャラクターの一人である。
そして、この時点で。
彼女の中に、一つの奇妙な符合が生まれていた。
『鬼龍院楓花』
『〇〇院〇〇』
一致している。
しかも。
身体能力も高い。
頭も切れる。
そして何より――。
自分が知る限り、この世界においてもトップクラスの天才。
まさに安心院なじみである。
ここまで条件が揃えば。
普通ならどう考えるだろうか。
『自分はかの存在の生まれ変わりなのでは?』
そう考える。
考えてしまう。
いや。
むしろ。
そう考えない方が難しい。
記憶を失っているのだから、なおさらだった。
「……そういう、ことか。」
幼い楓花は、鏡の中に映る自分を見ながら呟いた。
銀色の髪。
紫紺の瞳。
自分とは思えないほど整った顔。
そして――鬼龍院という名字。
「僕は……彼女になったんだ。」
完全なる勘違いである。
しかし。
本人の手もとには、それを否定する材料がなかった。
むしろ肯定する材料しかなかった。
だから。
彼女は確信した。
自分は安心院なじみなのだと。
きっと、そういうことなのだと。
そして。
そこから先の行動は、実に早かった。
安心院なじみとして生きる。
その決意をしたのである。
「なら、やることは一つだね」
そう呟いた瞬間。
前世で培ったものが、再び動き始めた。
彼女は鍛えた。
前世以上に。
そして、今度こそ本物になるために。
自分以外のすべての人間を平等に見下す。
安心院なじみの代名詞とも言える、あの在り方。
それを再現するために、徹底的に自分を鍛えた。
ただ強いだけでは足りない。
圧倒的でなければならない。
誰が相手であろうと、真正面から立っていられるだけの力。
誰かに負ける可能性そのものを考える必要がないほどの力。
彼女は、それを求めた。
勉強もした。
人間関係も学んだ。
相手の癖を見抜き、思考を読む。
言葉の裏側を読む。
視線の動きから感情を推測する。
相手が何を望み、何を恐れ、何を隠そうとしているのかを把握する。
そして。
戦闘能力。
これに関しては、もはや説明する必要もないだろう。
前世からの積み重ね。
そして今世の恵まれた身体。
その二つが組み合わさった結果。
鬼龍院楓花という少女は、恐ろしいほどの怪物へと成長していった。
本人としては。
「まだまだ足りない。」
という感想だった。
何故なら。
安心院なじみなら、この程度の力は当然だと思っているからである。
実際には。
すでに十分すぎるほど強い。
下手をすれば、『よう実』において原作最強格にすら食い込める。
しかし本人だけが、それを理解していない。
いや。
正確には理解している。
自分が強いことは分かっている。
ただし。
「安心院なじみなら当然。」
そういうフィルターがかかっているため、評価基準が完全に狂っているのである。
他者から見れば異常でしかなくとも、楓花は大真面目だった。
これこそが安心院なじみ。
これこそが、自分が前世で追い求めた存在。
そう信じている。
だから。
彼女は努力を続ける。
もっと強く。
もっと賢く。
もっと余裕を持って。
もっと超越的に。
もっと絶対的に。
いつか。
本物の安心院なじみと寸分違わぬ存在になるために。
────至極当然のことではあるが。
彼は安心院なじみになれない。
なぜなら。
彼女は安心院なじみではないからだ。
鬼龍院楓花。
それが彼女の本当の名前である。
そして彼女が憧れていた安心院なじみは、この世界には存在していない。
少なくとも。
彼女が今生きている世界には。
だが。
そんな事実を知らない楓花は、今日も今日とて鏡の前に立つ。
銀髪を整える。
紫紺の瞳を細める。
口元に薄い笑みを浮かべる。
そして。
前世で何千回、何万回と繰り返した表情を作る。
「……うん。」
満足そうに頷く。
「今日も僕は、
違う。
君は君である。
安心院なじみではない。
鬼龍院楓花だ。
だが。
本人は知らない。
そして。
誰も教えない。
何故なら。
その勘違いによって生まれた存在が───あまりにもおかしすぎるからである。
自分を安心院なじみだと思い込んでいる鬼龍院楓花に憑依した狂人。
原作と大きく乖離してしまった彼女が本気を出したとき。
『ようこそ実力至上主義の教室へ』という世界の勢力図が、どう変わるのか。
それはまだ。
誰にも分からない。
ただ一つ確かなことがあるとするならば。
彼女は今日も、安心院なじみとして振る舞っている。
安心院なじみではないのにも関わらず。
徹底的に。
完璧に。
それが。
それだけが。
この物語における唯一にして最大の、今すぐにでも是正すべき勘違いだった。