勘違い夫の処刑日~私を捨てた営業トップの末路~ 作:桐山さくらこ
貴之にとって、私はもう、隣を歩くのが恥ずかしい妻なのだそうだ。
「営業トップの俺の妻なんだからさ。もう少し見栄えに気を遣えよ」
居間の鏡越しに、夫の姿が見えた。新しいスーツの袖から、銀色の腕時計がのぞいている。値段を聞いた時、私は一度、聞き返した。子供たちの服なら何年分買えるだろうと考えて、それから慌てて、その考えを追い払った。
頑張った貴之への、ご褒美なのだから。
「聞いてる? 毎日、そのよれよれのTシャツ」
私は裾をつまんだ。洗って乾かして、着替えて、また洗う。赤ん坊が吐き戻すので、きれいな服を一日着ていられることは少ない。
「買い物には行きたいんだけど、下の子を連れてだと……」
「言い訳ばっかり。子供産んでから、本当におばさんになったな」
貴之は笑った。
私は笑えなかった。鏡の中の自分だけが、返事をする場所を失って、取り残されていた。
昔、貴之は私に、たい焼きの大きい方をくれる人だった。
それは、高い時計を買うよりずっと前のことだ。
大学のサークルで初めて会った頃、貴之は、目立つ人ではなかった。誰かが話す時は黙って聞き、片づけが始まれば、最後まで残る。皆が駅へ走っていった雨の日にも、私は部室の戸締まりをする彼を待っていた。
外へ出ると、思っていたより強い雨だった。
「うそ。傘、持ってこなかった」
「駅まで入れば?」
貴之が開いたのは、透明のビニール傘だった。私は断りかけたけれど、彼が当たり前のように半歩横へずれたので、そこへ入った。
歩きながら、何の仕事をしたいのかと聞いた。
「人と話して、誰かの役に立つ仕事かな」
格好をつけた答えではなかった。言った後で、まだよく分からないけど、と困ったように笑った。その顔を、もっと見たいと思った。
駅の手前で、甘い匂いがした。たい焼き屋のケースには、最後の一個が残っていた。
お互いに譲り合っていると、貴之が一個を買って、店の軒下で割った。
「半分こしよう」
湯気と一緒に、あんこの匂いが上がった。渡された方は少し大きかったけれど、指摘すると彼が困りそうで、私は黙って受け取った。
彼の右肩が、雨で濡れていた。その時に初めて、傘が私の方へ傾いていたと気づいた。
何度か二人で出かけた後、小さな公園で告白された。返事をする前にうなずいてしまい、貴之に、まだ何も言ってない、と笑われた。
就職が決まると、彼は私の手を取った。
「絶対、営業でトップになって、菜穂と子供を幸せにするから」
「子供まで、もう決まってるの?」
「そこは、その……いつか」
未来の話をするだけで、顔が熱くなった。
数年後の結婚式で、父の隆三に、娘を頼むと言われた時も、貴之は同じ顔をしていた。
高価ではない指輪を、いつかもっといいものにすると約束された。私は左手を握って、この指輪がいいと答えた。
あの時は、本当にそう思っていた。
結婚して最初の数年、営業は思うようにいかなかった。
新居には家具らしい家具もなく、引っ越しの段ボールに布を掛けて食卓にした。食事の途中で箱がへこみ、二人で皿を持ち上げたこともある。
「やっぱり無理だった」
「立派なテーブルって言ったの、誰だっけ」
笑って、床に座り直した。狭い部屋でも、貴之がそこにいれば、みじめだとは思わなかった。
昼はスーパー、夜は飲食店で働いた。足がむくんで靴がきつい日はあったけれど、帰宅して貴之が起きていると、それだけで疲れが少し軽くなった。
彼は、給与明細を私の方へ滑らせる時、いつも視線を落とした。
「今月も、これだけで。ごめん」
私は自分の二枚を、その隣へ置いた。
「二人分なら、今月も大丈夫だよ」
うつむいていた彼の手が、私の指へ重なった。ありがとう、と言う声が小さかったから、顔を近づけて、もう一度聞いた。
休みの日には二人で、半額シールの時間を狙った。彼が唐揚げを取り、私が魚を見つける。袋の中を見せ合うと、それは戦利品になった。
お金がない話をしても、その頃は、私たちは同じ側にいた。
太一が生まれた後、平日の育児はほとんど私が引き受けた。夜の仕事は、貴之に赤ん坊を任せられる日に入れた。
明け方、泣き声で目を開けると、先に彼が起き上がることもあった。
「今日は俺が見る」
「明日も仕事でしょ?」
「二人の子だろ。菜穂だけに任せられないよ」
太一を抱いたまま、彼が座って眠ってしまった朝がある。毛布を掛ける時、太一の小さな手が彼のシャツを握っているのを見た。
この人と結婚してよかった。
眠くてたまらない朝に、私はそう思えた。
ある結婚記念日には、ケーキを買う余裕さえなかった。せめて卵焼きを大きくしようと思っていたら、帰宅した貴之が、背中から小さな紙袋を出した。
「あの店、並んできた。一個だけで、ごめんな」
袋の底に、たい焼きが一個。
私は口元を押さえた。大学の帰り道を、彼も覚えていた。
「一個で十分だよ」
「半分こしよう」
二人の間から太一が見上げてきて、私たちは笑った。値段のことなど、その夜は一度も考えなかった。
やがて、二人目の妊娠が分かった。
報告した時、貴之は太一を抱き上げ、兄ちゃんになるぞ、と何度も言った。太一は意味がよく分からないまま、楽しそうにはしゃいだ。
けれど、その喜びの後、貴之は仕事の話をしなくなった。
夜、食器を洗い終えて振り向くと、彼が頭を抱えていることが増えた。
「仕事、辞めようかな」
「辞めたいほど、つらい?」
「このままじゃ、お前と子供たちを養えない」
大丈夫だよと言いかけて、言葉が止まった。何度も同じことを言われた彼の背中には、私の励ましが、もう届かないように見えた。
頑張っていない人ではなかった。朝は早く出て、帰宅してからも資料を広げる。報われてほしい。せめて一件、仕事が決まれば。
妊娠九か月で里帰りをした夜、私は父と二人でお茶を飲んだ。
「貴之くんは、最近どうなんだ」
「仕事が、厳しいみたい」
湯飲みを置き、私は膝の上で手をそろえた。
「お父さん。お願いがあるの」
貴之の顔が浮かんだ。自分の力で結果を出すと、内定通知を握っていた、あの顔。
「貴之には、私が頼んだことを、内緒にしてほしいんだけど」
父は、まず私の話を聞こうと、静かにうなずいた。
二人目を出産した直後、病院に貴之から電話が来た。
「菜穂! 大きな契約が決まった!」
彼の声が、途中で裏返った。
「子供が生まれて、俺にも運が回ってきたんだな」
「すごいじゃん。頑張ったね」
彼が泣いていた。私は眠る赤ん坊を見ながら、同じように泣いた。これでまた、彼が笑える。今はそれだけでよかった。
家に戻ると、小さなケーキが三つ並んだ。太一がいちごを指さし、貴之が私に、どれがいいと聞く。
一か月後には、大きな分譲地の契約も決まった。照れくさそうに渡されたブランドのチャームを、私は何度も手の中で転がした。
値段よりも、私を思い出してくれたことがうれしかった。
どこにつけようと相談すると、貴之は普段使いの鞄を指さした。毎日見える方がいいだろ、と。
私は金具を留め、鞄を持ち上げて見せた。彼がうなずくと、明日も頑張れそうな気がした。
契約は続いた。トップ表彰の写真を見せられた時、私は太一と一緒に手をたたいた。
そして、彼は、私の手を取らなくなった。
「来月もトップ取ればいいだろ」
少し貯金をしようと話した夜、貴之はスマホを見たまま言った。
私の二枚の給与明細を覚えているだろうか。寝不足の朝に、毛布を掛けたことは。
鏡の前の私へ、彼はもう一度、恥ずかしいと言った。
昔のことを話せば、思い出してくれるのかもしれない。
そう思ったのに、言葉は喉の奥にひっかかったまま、出てこなかった。
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著者:さくらこ