勘違い夫の処刑日~私を捨てた営業トップの末路~   作:桐山さくらこ

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笑ってごまかすのをやめた日

 太一が積んだブロックは、居間の隅にまとまっていた。

 赤ん坊が眠ったところだったので、私はそのままにしていた。崩さないでねと言われた、小さな家だ。夕飯を作り終えたら、一緒に片づけるつもりだった。

 帰宅した貴之は、靴下のまま、その家をまたいだ。

 

「おい。俺が外で、いくら稼いでると思ってるわけ?」

 

 私は抱いていた赤ん坊を揺すりながら、夫を見た。

 

「太一が、後で見せたいって」

「家から一歩も出ないで主婦やってるんだから、片づけくらい完璧にしろよ」

 

 太一は、私の足の後ろに立っていた。父親へ駆け寄りかけて、途中でやめたのだと分かった。

 貴之は子供の顔を見ず、ソファに座った。

 私は太一としゃがんで、ブロックを箱へ入れた。一個ずつ外す太一の指が、いつもよりゆっくりだった。

 

「パパに、見せたかったの?」

 

 小さなうなずきが返ってきた。

 私も、本当は見てほしかった。子供が今日できるようになったことも、眠らない赤ん坊をようやく寝かせたことも。家が片づいているかどうかより、先に。

 箱のふたを閉じると、貴之のゲームから楽しそうな音がした。

 

 仕事のプレッシャーなのだと思おうとした。

 やっと得たトップの座を守るため、余裕がなくなっているのだろう。私が一歩引けば、彼もいつか、元に戻るのかもしれない。

 そう考えるたびに、大学の帰り道の、濡れた肩を思い出した。

 けれど、私が引いた場所に、貴之は当然のように足を踏み入れてきた。

 

「少しだけ、太一を見ていてくれない?」

 

 赤ん坊に授乳をする前に頼んだ時も、彼は顔を上げなかった。

 

「お前、今は専業主婦だろ。一銭も稼いでないのに」

「下の子を寝かせる間だけでいいの」

「だったら家事と育児くらい、ちゃんとやれよ」

 

 ちゃんとやれ、という言葉が、私の頼みを閉じた。

 前に彼が起きて、二人の子だろと言ってくれたことは、もう話せなかった。そんな昔のことを持ち出すなと、言われる気がした。

 泣き始めた赤ん坊を抱き、私は寝室へ入った。太一が何も言わずについてきた。

 親子三人で戸を閉めると、ソファの音だけが、遠くなった。

 

 学生時代からの友人、恵美に会ったのは、その数日後だった。

 外で誰かと話したくなって、子供たちを連れてカフェへ行った。太一は隣でジュースを飲み、下の子はベビーカーで眠った。

 最初は、子供の話をしていた。

 私が服を買いに行けない話から、貴之の言ったことを、つい口にした。

 

「おばさんになったって。まあ、最近ちゃんと鏡も見てないしね」

 

 笑ってみせた。いつもの軽い愚痴になると思った。

 恵美の手が、カップの途中で止まった。

 

「菜穂に、そう言ったの?」

「うん。でも、今は仕事のストレスもあると思うから」

「子供二人を産んで、毎日頑張ってるのに?」

 

 恵美は、眠る赤ん坊へ一度目を落とした。それから、私をまっすぐ見た。

 

「成績が上がったら、支えてくれた人をそんなふうに扱っていいわけ?」

 

 私はカップを両手で囲んだ。温かさが、指に伝わった。

 

「……よくは、ないよね」

「うん。菜穂が我慢すれば済む話じゃないよ」

 

 泣きそうになって、私は窓の方を向いた。誰かにひどいと言ってほしかったのだと、その時、初めて分かった。

 それなのに、帰る頃には、ちょっと言い過ぎだよね、とまた笑っていた。

 恵美は、その笑いに合わせなかった。

 

「今すぐ何か決めろって言ってるんじゃない。でも、つらい時は、ちゃんと連絡して」

 

 太一の手を握って店を出ると、空気が少し冷たかった。恵美の言葉は、その冷たさの中でも、消えなかった。

 

 会社の懇親会に夫婦で呼ばれた夜、私は久しぶりに、きちんとした服を着た。

 子供たちは実家へ預けた。出かける前、母に、楽しんでおいでと言われた。

 鏡の中の私は、少し顔色が悪かった。でも、貴之の仕事を支える場なら、今度こそ、夫の隣にいていいはずだった。

 レストランで、貴之は同僚たちに囲まれていた。

 

「今期も独走だったね。営業センスって、やっぱりあるんだよ」

 

 私は半歩後ろで、笑顔を作った。

 同僚の一人が、私へ体を向けた。

 

「奥様も、お子さんが二人では大変でしょう」

 

 答えようとした時、貴之が笑いながら割り込んだ。

 

「いや、こいつ家事も適当で。正直、あんまり当てにしてないんですよ」

 

 グラスに触れていた指が、動かなくなった。

 

「俺が稼いでるから、生活できてるようなもので」

 

 彼は、面白い話をしたつもりの顔だった。

 目の前の人が、困ったように笑った。別の人が料理を勧め、話題が変わる。

 私は水の揺れるグラスを見ていた。誰も声を上げて笑わなかったことが、かえって苦しかった。

 私をかばえば、夫を困らせる。だから皆、別の話を始めた。見ず知らずの人に、その気遣いをさせたのは、私の夫だった。

 帰り道、ありがとうと言われるのを、まだ待っていた。

 貴之は、今日の店はなかなかだったなと言っただけだった。

 

 数日後、小さな箱が食卓に置かれた。

 

「この前は言い過ぎた。お詫び」

 

 ふたを開けると、ネックレスが光った。

 私はすぐには触れなかった。

 

「家事が適当だって、本当に思ってる?」

「あれは場を盛り上げるためだろ。分かれよ」

 

 貴之は箱を私の方へ押した。

 

「ほら。似合うと思って買ったんだから」

 

 私のために選んだ。その言葉に、心が緩みかけた。こんなふうに笑ってくれるなら、まだやり直せるのではないか。

 手に取った鎖は細く、冷たかった。

 ありがとうと答えた後も、問いへの返事がなかったことは、胸に残った。

 

 それから、帰宅は遅くなった。

 接待だと聞けば、それ以上は言えなかった。以前の貴之なら、何時ごろになると連絡をくれたのに、今は時計を見て待つ方が悪いらしかった。

 ある夜、脱ぎ捨てられたジャケットを持ち上げて、手が止まった。

 甘い香水の匂いだった。

 私は、香水を使っていない。

 鼻を近づけ直す必要はなかった。それでも私は、もう一度、襟を持ち上げた。何か間違っていてほしかった。

 

 その頃、貴之は、夜の店で舞の隣に座っていた。

 家では自分の話をする前に、子供の頼み事が始まる。舞は違った。時計を褒め、営業トップという言葉を聞いて、目を丸くする。

 

「たかくんは、やっぱりオーラが違うね」

 

 彼は袖を引き、文字盤を見せた。菜穂は金額ばかり気にした時計を、舞は、似合うと言ってくれる。

 この人なら、自分を分かってくれる。

 そう思う方が、心地よかった。

 

「近いうちに、嫁とは別れるから」

「本当? 待ってるよ」

 

 舞は彼の肩へ頭を預けた。グラスが空になると、次は何を飲もうかと顔を上げる。

 貴之は、次のインセンティブでバッグを買ってやる、と約束した。

 舞の大好きという声を聞きながら、彼は、家に帰れば待っている子供たちのことを、考えなかった。

 

 夜中を過ぎて貴之が帰った時、私は居間にいた。

 ネックレスの箱は、棚にしまったままだった。

 

「最近、ずいぶん帰りが遅いね」

「接待だって言ってるだろ」

「服から、私のじゃない香水の匂いがする」

 

 彼の顔から、一瞬、表情が消えた。

 私はその目を見ていた。困ってでも、否定してほしいわけではなかった。今度こそ、私の言葉に答えてほしかった。

 次の瞬間、壁が鳴った。

 貴之の拳が、白い壁に当たっていた。

 

「ああ、そうだよ。浮気して遊んでるよ!」

 

 息が止まった。

 貴之は、私がひるんだのを見て、さらに声を大きくした。

 

「お前みたいなおばさんと一緒にいたら、俺の運が下がるんだよ。成績まで下がったらどうする!」

 

 奥の部屋から、太一の泣き声がした。続いて、赤ん坊も泣き出した。

 私はそちらへ顔を向けた。

 貴之は、まだ何か言っていた。男は自由にしていた方が成功するのだと、私には分からないのだと。

 今、子供が泣いている。

 彼にはそれが、止まる理由にならなかった。

 

 私は寝室へ入り、太一を抱き寄せた。彼の肩は、泣くたびに小さく跳ねた。

 

「大丈夫。ママ、ここにいるから」

 

 自分にも聞こえるように言って、背中をなでた。

 十二年分の思い出が、なくなったわけではなかった。たい焼きも、毛布も、彼のありがとうも、全部あった。

 それでも、今の夫に子供たちを預けてまで、あの頃へ戻りたいとは、もう思えなかった。




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著者:さくらこ
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