勘違い夫の処刑日~私を捨てた営業トップの末路~ 作:桐山さくらこ
朝、壁の小さな傷を見つけた。
貴之が拳を当てた場所だった。昨夜は暗くて、気づかなかった。
太一も見ていると分かって、私はその前に立った。隠すことに意味がないのは、分かっていた。それでも、そこを見つめる息子の顔を、見ていられなかった。
「パパ、怒ってる?」
「もう会社へ行ったよ」
太一は、そうなんだ、と下を向いた。
出勤したという答えでは、不安が消えない。私はその小さな背中に触れた。
「太一が悪いことをしたからじゃないよ」
彼はようやく、私の方を見た。
毎晩これを説明しなければならない家には、したくなかった。
恵美に連絡をすると、まず、今どこにいるのと聞かれた。
家で、夫は仕事に出ていると答えると、彼女は少し息を吐いた。
私は昨夜のことを、最初から話した。貴之が浮気を認めたことも、子供たちが泣いていたことも。笑いに変えずに話すと、自分が何を聞かされたのか、改めて分かった。
「別れたい」
口にした時、涙が出た。
恵美は、よかったとも、早くそうすればよかったとも言わなかった。
「うん。まず、子供たちと菜穂の暮らしを考えよう」
私は泣きながらうなずいた。
昔の貴之を好きだったことまで、間違いにしなくていい。その人に会うために、今を耐え続けなくてもいい。
恵美と話し終えて、私は父へ電話を掛けた。
数日後、貴之の前へ離婚届を置いた。
子供たちは実家にいた。手の届くところに、携帯電話を置いた。私が何を話すのか、父にも恵美にも伝えてあった。
「貴之。もう、別れよう」
彼は私を見て、それから紙を見た。
驚いた顔の次に、口元が緩んだ。隠そうとしたのだろうけれど、隠れていなかった。
「分かった。でも、お前から言ったんだから、慰謝料は一円も払わないぞ」
その勝手な理屈に、私は一瞬、紙から手を離した。
彼には、私が傷ついたことよりも、自分がいくら出すかの方が気になるらしかった。
謝ってもらうために、長く座り続けるつもりはなかった。子供の分だけは、曖昧にしないと決めていた。
「養育費のことは、話し合って。子供たちの暮らしに必要だから」
「俺はトップで忙しいんだ。子供はお前が連れていけばいい」
まるで、余った荷物を分けるような言い方だった。
私は太一が小さな家を作って、父親を待っていた顔を思い出した。
この人の前で、その話をしたくなかった。子供の期待まで、いらないものにされたくなかった。
「本当に、離婚していいの?」
「何だよ。まだ未練あるの?」
貴之は、椅子にもたれた。
「俺は一ミリもないから。早く話を進めようぜ」
私もそうする、と答えた。
未練を確かめたかったのではない。貴之が自分で選んだことを、ちゃんと聞いておきたかった。
養育費の取り決めを見せると、彼は金額に目を走らせ、笑った。
「このくらい、今の俺なら余裕だわ」
好調だった収入を踏まえて話し合った額だった。彼は支払日も確認し、合意した。後日、公証役場で書面を整える手続きにも応じた。
書類を前にしても、貴之は急いでいた。早く新しい生活を始めたいのだろうと、私は思った。
全部が終わり、貴之が荷物を持って玄関へ立った時、私は、気をつけてとは言わなかった。
「じゃあな」
ドアが閉まった。
軽い音だった。
その軽さを聞いているうちに、私は椅子へ座り込んだ。怒りが消えたわけでも、悲しみが消えたわけでもない。ただ、彼の機嫌に合わせる次の言葉を、考えなくてよくなった。
貴之はその夜、舞とシャンパンを開けていた。
「やっと別れられた。これで、ずっと一緒にいられる」
舞は笑い、腕に触れた。ボトルを持った店員が近づくと、貴之は、今日は祝いだからと手を振った。
自分は、ようやく足を引っ張る妻から自由になった。仕事は絶好調で、隣には若く美しい女性がいる。
今よりいい時期が来るだろうかと思うほど、彼は満たされていた。
一週間後、田中工務店を訪ねた時も、その自信はあった。
今までのように契約の話を進め、次の分譲地の資料を開いた。
田中社長は、資料を見る前に手を上げた。
「今回は、ほかに頼むことにしたんだ」
「ほかに? 先月は、あれほど乗り気だったのに」
「申し訳ないね」
社長は時計を見て、立ち上がった。
貴之は、出した資料をしまい損ねた。どこが悪かったのか分からない。価格なのか、条件なのかと質問しても、答えは曖昧だった。
一件くらい、こんなこともある。
そう思って、次の客先へ向かった。
けれど次も、その次も、同じように断られた。
一か月が過ぎ、上司に呼ばれた。
成績表の契約数の欄に、ゼロが並んでいた。
「西村。今月はどうしたんだ」
「家のことで、少しごたごたがありまして。来月は大丈夫です」
「君は、うちのエースなんだから。頼むよ」
上司はまだ、責めるというより、戸惑っている顔だった。
貴之は頭を下げ、会議室を出た。信じてもらえている間に、何とかしなければ。
今までと同じ話し方だった。資料も丁寧に作っている。相手の望みを聞き、何度も通う。突然、自分の営業の才能だけがなくなることなど、あるはずがない。
なのに、相手は以前ほど話を聞かなくなっていた。
訪問の約束そのものが、取りにくくなっていた。
同じ頃、私は実家で、父とお茶を飲んでいた。
庭で太一が、虫を探していた。下の子は、隣の部屋で眠っている。泣けば聞こえる距離だった。
「菜穂。本当に、これでよかったのか」
私は少し考えた。
終わってしまったことを、何でもよかったと言いたくはなかった。子供の父親を、自分が信じていた人を、こんなふうに見送ったことは、今も痛い。
「戻りたいとは、思わない」
父は、湯飲みを置いた。
「そうか」
その短い返事が、私にはありがたかった。
「ただ、彼には幻滅したよ。お前が、助けてほしいと、あれほど頼んだというのに」
里帰りした夜の父の手を、思い出した。
私の実家は、地元の人々とのつながりが深かった。父には、長年付き合っている工務店の社長や、土地の取引に関わる知人がいた。
私は貴之が辞めようかと悩んでいる話をして、機会だけでも与えてほしいと頼んだ。
父は知人たちに連絡を取り、貴之の話を聞いてもらった。それが最初の契約へつながった。
次の大きな契約も、その次の紹介も、父のつながりが後ろにあった。
貴之が働いていなかったわけではない。資料を作り、客先へ行ったのは、彼だ。
だから私は、頑張ったねと言った。その言葉に、嘘はなかった。
ただ、話を聞いてもらえるところまで、誰かが道をつないでいたことを、彼は知らなかった。
「俺には未練がないって、言ってた」
私が言うと、父は眉を寄せた。
「お前を傷つけて、子供まで邪魔にする男のために、私が頼み続ける理由はない」
父は、離婚したことを知人たちへ伝えていた。もう、元の婿を支えてほしいとは頼まなかった。
それぞれの相手は、それぞれの判断で取引先を選ぶ。以前のように、父への信頼まで含めて貴之へ仕事を回すことは、なくなった。
引き上げられたのは、貴之が勝手に自分の才能だと呼んだ、見えない支えだった。
「もっと早く、話しておけばよかったのかな」
私の声は、自分で思うより小さかった。
父は、すぐには答えなかった。
「話したからといって、お前を大事にするのか。そんな理由でなければ大事にできないのか」
私は湯飲みを見つめた。
実家の力がある妻だから、親切にされる。それは、私が欲しかった夫婦ではなかった。
貧しい部屋で、お互いの明細を並べた時、私は何も渡してほしいと思っていなかった。
私の手を、同じ側にいる人の手として、握ってほしかっただけだ。
太一が、庭から私を呼んだ。
虫が葉の裏へ隠れたのだと、息を切らして教えてくれる。
私は父へ、ありがとうと言った。
そして、子供のところへ立った。
もう、誰かを立派に見せるために、自分の頑張りを隠さなくてよかった。
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著者:さくらこ