勘違い夫の処刑日~私を捨てた営業トップの末路~ 作:桐山さくらこ
二か月目の成績も、ゼロだった。
貴之は、客先で笑顔を作ることが、前より難しくなっていた。
昔なら次につながる話でも、今は、そこまで聞いてもらえない。断られた後に資料をしまう指が、こわばった。
自分は、トップの営業マンだったはずだ。
部下や同僚にそう語り、舞にもそう約束した。ところが、次の契約の予定を聞かれると、答えが続かない。
上司へ、次は絶対に、と言った。言うたびに、その言葉は薄くなった。
三か月目、会議室の戸が閉まると、上司は成績表を机へ置いた。
「三か月連続で最下位だ。いったい何があったんだ」
貴之は、表の数字を見られなかった。
「すみません。本当に……」
「謝っているだけでは、契約は戻らないぞ」
足元へ視線を落とすと、買ったばかりだった靴が目に入った。調子のよかった頃、こういうものを持つ人間になったのだと、うれしく眺めた靴だ。
今は、その靴を履いてどこへ行っても、歓迎されなかった。
インセンティブがなくなり、給与の振り込まれた額は、思っていた以上に小さかった。
家賃を払う。合意した養育費を払う。毎月の支払いを並べると、自由に使えるお金は、ほとんど残らなかった。
養育費の額を見て、鼻で笑った時の自分を思い出した。
あの頃の収入が続くと、疑っていなかった。続かない時にどうするかなど、考えもしなかった。
時計を売ろうと手に取って、また置いた。
これまでの自分まで売ってしまうようで、嫌だった。
舞の店へ行く回数が、減った。
久しぶりに顔を出した夜、舞は、今日は何を飲むと聞いた。以前なら、いちばん高いものを選んだ。
「今日はシャンパンはいいや。少し体調が悪くて」
舞は笑って、気をつけてねと言った。
その後で、別の席を見た。呼ばれて立つ時も、以前ほど名残惜しそうではなかった。
貴之は、彼女の背中を見ていた。
店を出るまで、舞は、結婚の話をしなかった。
数日後、彼は携帯電話を握った。
『今日、会えないかな』
すぐに返事が来た。
『いいよ。何時に店来る?』
貴之は、画面を見ながら唇をかんだ。店へ行くには、お金が要る。しかし、舞は、自分の恋人のはずだった。
『店には行けないんだけど。普通に外でデートしようよ』
少し間が空いた。
彼は、仕事中なのだろうと思った。返信を待つ間に、何度も画面を明るくした。
『店に来ないのに、デートするわけないじゃん』
続いて届いた言葉は、見間違えようがなかった。
『営業トップで、お金があるから付き合ってあげてたんだよ。泥船に付き合う義理はないから』
貴之は、指を画面へ当てたまま止まった。
冗談だろう、と入力しかけた。けれど、二度と連絡しないでという文が来て、その先のやり取りは途絶えた。
欲しいバッグを買ってやると言った時の舞は、喜んでいた。
貴之は、その喜びの向いていた先を、ようやく見た。
自分の人柄でも、一緒にいる時間でもなかった。
空になった部屋へ帰ると、テレビをつけた。
笑い声が響いた。音量を上げても、誰かが一緒に笑うわけではなかった。
菜穂がいた時は、帰宅すれば、何かが温まっていた。子供の服が乾いていた。自分はその中で、スマホを見ながら、ちゃんとやれと言った。
その時間が、今さら、欲しくなった。
貴之は菜穂の名前を開いた。
電話が来た時、私は、太一の服をたたんでいた。
実家の居間で、下の子が眠っている。太一は父と庭へ出ていた。夕飯までには戻ってくるだろう。
画面の名前を見て、少しだけ手を止めた。
子供たちのことで必要な話なら、聞かなければならない。
私は立ち上がり、廊下へ出て、通話をつないだ。
「菜穂。頼む、助けてくれ」
挨拶より先に、貴之の声が飛び込んできた。
「急に、契約が全然取れなくなったんだ。今月も、給料がほとんど残らない」
私は壁に背中を預けた。ここには、拳の傷はない。
「養育費を払ったら、もう、まともに暮らせない」
私は彼の言葉を聞いた。
以前なら、困っていると聞いた時点で、何とかしようと思っただろう。自分の予定を変え、働く時間を増やし、父に頭を下げたかもしれない。
今は、手が震えなかった。
「営業トップなんだから、余裕だって言ったよね」
「だから、あの時は……。全部、俺が悪かった」
その言葉を、初めて聞いた。
けれど、私の話を聞くための言葉ではなかった。彼は息を継いで、続けた。
「頼むから、やり直してくれ」
私は目を閉じた。
半分こしようと笑った顔が、浮かんだ。
その人を思い出すことと、その人のところへ帰ることは、同じではなかった。
「私がいなくなったら、もっと成功するんじゃなかったの?」
貴之が、黙った。
待っていると、弱い声で、悪かったよ、と繰り返した。
「私をおばさんって呼んで、子供たちが泣いても、怒鳴るのをやめなかった」
「あれは、つい……」
「未練は一ミリもないって言ったのも、覚えてる」
廊下の向こうで、玄関が開いた。太一の明るい声がした。
私はその声を聞いて、目を開けた。
「あなたの実力、その程度だったんだね」
貴之が、待ってくれと声を大きくした。
私は声を大きくしなかった。
「やり直さない。子供の話がある時は、その話をして」
名前を呼ばれたけれど、通話を切った。
画面が暗くなった後、しばらく、その携帯電話を握っていた。勝ったという気分ではなかった。もう、戻らなくていい。それを自分の声で言えたことに、息がゆっくり落ち着いていった。
その夜、恵美に電話をした。
戻らないと答えたことを話すと、向こうで、鼻をすする音がした。
「もう、十分頑張ったよ」
私はベランダの戸の前へ座った。
「うん」
返事をしたら、涙が出た。貴之には流さなかった涙が、恵美の声で出てきた。
彼女は、私が落ち着くまで、電話を切らなかった。
数か月後、恵美が、子供たちへのお土産を抱えて実家へ来た。
太一は袋を見る前に、恵美の手を引いた。庭で捕まえた虫を見せるのだと言う。
「待って。まず、靴を脱がせて」
恵美が笑い、太一も笑った。
私は二人を見て、同じように笑えた。
夜、よく眠れるようになっていた。戸が開く音や、時計の針に、息を止めることがなくなった。昼間、鏡を見ても、まず疲れた顔を探すことは減った。
「前より、ずっと顔色いいじゃん」
縁側でお茶を渡すと、恵美が言った。
「ちゃんと眠れるようになったからかな」
「仕事も始めたんだって?」
「うん。父が紹介してくれたところで。久しぶりで、毎日いろいろ教わってる」
父に頼るのを、恥ずかしいとは思わなかった。紹介された先で働くのは、私だ。分からないことを聞き、お礼を言い、少しずつ覚えている。
人に支えられていることを、忘れずにいたかった。
仕事を始めた最初の週、帰宅すると、太一が玄関で待っていた。母に聞いて、私が頑張ってきたことを知ったらしかった。
「ママ、お疲れさま」
覚えたての言い方が、少し得意そうだった。
私は鞄を置いて、ただいま、と息子を抱いた。何を終えて帰ったのか、聞いてもらえる。それだけで、こんなにうれしいのだと分かった。
太一が庭から、名前を呼んだ。
恵美は湯飲みを置き、見に行こうと立ち上がった。
「菜穂も来て。すごいらしいよ」
私は、お茶が冷めるかな、と一度だけ湯飲みを見た。それから、後でまた淹れればいいと思った。
下の子を抱いて、庭へ降りた。
太一は葉をそっと持ち上げ、そこにいる小さな虫を見せてくれた。恵美が腰をかがめ、私は息子の隣へしゃがんだ。
「昨日、見つけたのと同じ?」
「違う。今日は、こっち!」
見てほしいものを、子供がためらわず見せてくれる。
私も、それを見たいと思える。
こんな何でもない時間が、ずっと欲しかったのだと思う。
太一の指の先で、葉が揺れた。
私は隣の恵美と顔を見合わせて、ゆっくり笑った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
この小説を楽しんでいただけましたら、作品への評価や、お気に入り登録をしていただけるとうれしいです。いただいた反応を、これからの作品づくりの励みにします。
【漫画版のご案内】
この物語の漫画版『勘違い夫の処刑日~私を捨てた営業トップの末路~:匿名希望の体験談④【コミック】』をAmazonで配信しています。
漫画版はKindle Unlimited対象作品です。
Kindle Unlimited会員の方は、追加料金なしでお読みいただけます。
漫画版をAmazonで見る
著者:さくらこ