嘘つき夫の処刑日~妻を悪妻に仕立てたイクメン夫の末路~ 作:桐山さくらこ
数ヶ月後、臨月が近づいたある日陽介が、いきなりリビングのテーブルに離婚届と、分厚いノートを叩きつけた。
ドンッ、という音に、肩が跳ねた。
「美穂、もうお前とは限界だ」
「離婚してくれ」
「理由は、お前の度重なる家事・育児放棄、および俺へのモラハラだ」
「ほら見ろ」
「このノートに、お前が何月何日に家事をサボったか、写真付きで全部記録してある」
「世間がお前の味方をすると思うなよ?」
「お前からはしっかり慰謝料をもらうからな」
「私が家事をサボった……?」
「あなたが勝手に『寝てろ』って、奪い取ってやってただけでしょ」
陽介は、鼻で笑った。
「ハッ、そんな言い訳、通用するわけねえだろ!」
「お前みたいな無能なケチ臭い主婦、俺の人生のノイズなんだよ」
「今すぐこの家から出ていけ」
隣の部屋で、上の子が、びっくりして泣き出す声が聞こえた。
私は、怖くて泣きそうなフリをしながら。
震える上の子をぎゅっと抱きしめて、静かに実家へ避難した。
キャリーバッグを引きずって歩く夜道。
吐く息が、白かった。
玄関のドアを閉める瞬間、背中越しに、陽介の楽しそうな鼻歌が聞こえた気がした。
実家に戻ってからの数日間。
お母さんが温かいご飯を作ってくれてやっと、肩の力が抜けた気がした。
「美穂、大丈夫だからね」
「うちはいつでも、美穂と孫たちの味方だから」
お母さんの一言に、ボロボロ泣いてしまった。
でも、夜になると本当にこのまま勝てるのか、不安で眠れなかった。
陽介の用意した、あの分厚い「証拠」のノート。
何百枚もの写真と、几帳面な日付の記録。
もし調停委員が、あれを信じてしまったら。
上の子の親権まで取られてしまうかもしれない。
そう考えると、お腹の中の赤ちゃんごと胃が、きゅっと縮こまるみたいだった。
調停の前日の夜、さやかが、わざわざ実家まで来てくれた。
「美穂、絶対に大丈夫だから」
「証拠は、こっちの方が圧倒的に強いんだから」
「もし調停委員の前で泣きそうになっても」
「私がちゃんと、味方でいるからね」
その言葉に、少しだけ、眠れる気がした。
そして迎えた、離婚調停の当日。
家庭裁判所の、狭い調停室の重い扉を、弁護士さんと一緒にくぐる。
心臓が、痛いくらい脈打ってた。
部屋の中央には長いテーブルがあり、奥には年配の男女の調停委員が2人座っている。
原則、調停は夫婦が別々に部屋に入って話すものだけど。
陽介側が「双方の証拠をその場で突き合わせて、一発で終わらせたい」と強く希望したため、同席での話し合いになったの陽介は、雇った弁護士と並んで勝ち誇った顔で座ってる。
陽介側の弁護士が、あの分厚い日記を調停委員に提出した。
「これほどの長期間にわたるワンオペ育児の記録があります」
「日付、時間、写真付きで、相手方側の家事放棄は明白です」
調停委員も、そのノートをめくりながら。
眉間に皺を寄せている。
形勢は、完全に私に不利。
陽介は隣の席で、口角を上げて、こっちを見てた。
「おい美穂」
「今さら泣いて謝っても遅いからな?」
「お前の言い訳なんて、この日記の前には何の価値もないんだよ」
その瞬間私の弁護士さんが、静かに立ち上がった。
「調停委員の皆様」
「その日記が作成された背景について、重要な証言があります」
「本日、こちらの待合室に、新たな証人をお呼びしています」
調停室の扉が、ギィ、と開く。
入ってきたのは、私の親友、橘さやかだった。
陽介の顔が、一瞬で強張った。
「な……なんだよお前……」
「関係ない奴を、連れてくるなよ……」
さやかは調停委員に向かって、まっすぐ告げた。
「私は、申立人の高木陽介さんが」
「不倫相手と結託して、妊娠中の妻を計画的に陥れようとしていた現場を」
「目撃しました」
陽介が、顔を真っ赤にして叫んだ。
「そんなのでっちあげだ!」
「その女は妻の身内だ、証拠がないぞ!」
「証拠なら、ここにあります」
さやかが、鞄から取り出したのは、1台のICレコーダーとその会話を完璧に書き起こした書面。
テーブルの上に置かれたスピーカーから。
あの、陽介の楽しそうな声が、響き渡る。
『家事やってるアピールの日記を毎日つけてるんだよね』
『悪妻ってことにすれば、慰謝料なしで一発で離婚できるからさ』
『次の子供の名前は絶対に騎士(ナイト)くんにしようねw』
調停室が、しん、と静まり返った。
調停委員がノートから目を上げた。
陽介は、一瞬で血の気が引いてガタガタと震え出した。
「そんな……」
「本人の許可なく録音したものなんて、証拠にはならないはずだ!」
陽介側の弁護士も、慌てて食い下がった。
「調停委員、盗聴に近い録音データの信憑性は疑わしいとは思いませんか?」
私の弁護士さんは、表情ひとつ変えずに答えた。
「元の録音と、全体を書き起こした資料をお渡ししています」
「切り取った一部分だけではなく、前後も確認してください」
調停委員の女性が、手元のノートをパタンと閉じて、陽介を鋭く睨みつけた。
「高木さん。これは事実ですか?」
調停委員の言葉に、陽介は突然、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ち、違う! 俺は嵌められただけだ」
「調停委員の皆さん、騙されないでください!」
調停委員が尋ねた。
「嵌められたというと?」
陽介が言った。
「これは美穂と、その親友が仕組んだ罠なんです!」
「俺が毎日必死に家事をやってるのが気に入らなくて、裏で俺を追い詰めてたんだ!」
「そのファミレスの日も、俺はただ仕事の愚痴を友達に言ってただけです!」
「それをこの女が、録音して俺の立場が悪くなるように、悪意を持って切り取ったんだ!」
「俺が毎日、家事も育児も全部やってたのは事実ですよ!」
「日記の写真を見ればわかるだろ!」
あまりの必死な剣幕に、陽介側の弁護士もすかさず乗っかった。
「確かに、録音だけでは前後の文脈がわかりません」
「しかし、高木氏が長期間、一人で家事を行っていたという写真の記録は本物です」
陽介側の弁護士が、さらに何枚もの紙を差し出した。
そこには、私が陽介に送ったLINEが印刷されていた。
『今日もお願い。体がつらくて何もできない』
『悪いけど、今日も全部任せるね』
私の言葉だけが、大きく切り取られて並んでいた。
「奥様自身が、家事も育児もできないと繰り返し認めています」
「高木氏が離婚について不適切な発言をしたことと」
「奥様が家事を放棄していたことは、分けて考えるべきです」
調停委員の男女が、顔を見合わせた。
「確かに、このメッセージだけを見れば……」
「奥様、本当にあなたは何もしなかったのですか?」
空気の針が、ふっと陽介側に傾きかけた。
陽介は、口角を上げて、私を勝ち誇った目で見た。
私の弁護士さんは、表情ひとつ変えずに、静かに告げた。
「今ご提出いただいたLINEには、前後がありません」
弁護士さんが、今度は私のスマホから出力した資料を提出した。
陽介が切り取ったメッセージの、その直前。
『今日も俺が全部やる。お前は何もしなくていい』
『保育園には俺が行く。勝手に迎えに行くなよ』
陽介から送られてきた言葉が、はっきり残っていた。
さらに、私が残していた録音が流れた。
『今日は私が作るよ』
陽介が言った。
『いいって。余計なことしないで』
『俺がやった方が早いから、座ってて』
『体調いいから、今日は私が迎えに行くね』
陽介が言った。
『勝手に行くなよ』
『倒れられたら俺が迷惑なんだよ』
一度じゃない同じような会話が、別の日付で何度も続いた。
陽介の口角から、笑みが消えた。
「妻は家事を放棄していたのではありません」
「高木さんに拒まれ、意図的に家事と育児から遠ざけられていたんです」
陽介が言った。
「ち、違う!」
「妊婦を気遣って言っただけだ!」
「それがどうして、育児放棄の証拠になるの?」
私がそう聞くと、陽介は答えられずに口を開け閉めした。
それでも、陽介側の弁護士は食い下がった。
「夫婦間のやり取りについては、受け取り方に違いがあった可能性があります」
「これだけで、初めから妻を陥れる目的だったと断定することはできません」
私の弁護士さんは、静かに頷いた。
「では、もう一人、別室でお待ちいただいている証人を呼びます」
「高木陽介さんの不倫相手、果穂さんです」
「え……?」
次に部屋に入ってきたのは、陽介が100%味方だと信じ込んでた、不倫相手の果穂だった。
「か……果穂……!?」
「なんでお前が……」
果穂は、陽介の方を一切見ようともせず。
調停委員の前で、淡々と話し始めた。
「はい」
「録音されている声は、間違いなく私と高木さんです」
「私は高木さんから」
「『妻とはすでに冷めきっていて、離婚寸前だ』と騙されていました」
「奥さんを悪者に仕立て上げて、慰謝料をむしり取る計画を聞かされて」
「怖くなって、すべて美穂さんに白状しました」
「お前……裏切ったのか!? 果穂!!」
陽介の叫び声を無視して、果穂は冷たい目で陽介を一瞥した。
「裏切ったんじゃないよ、私は本当のことを言いに来ただけ」
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著者:さくらこ