嘘つき夫の処刑日~妻を悪妻に仕立てたイクメン夫の末路~ 作:桐山さくらこ
*
実は果穂が、陽介の味方をやめてこの場に現れた理由があるんだ。
それは、調停の少し前、私とさやかが裏で果穂を呼び出した。
あの日、駅前の喫茶店の隅の席で私は、コーヒーカップを握りながら、果穂と向き合ってた。
「でさ、いきなり呼び出しておいて何?」
向かいに座る果穂は、最初、ふてくされたみたいに、ずっと目を逸らしてた。
「私さ、陽介から『もう離婚する』って聞いてるんだけど」
「今さら妻面されても、ぶっちゃけ迷惑なんだよね」
ストローをいじりながら、果穂は鼻で笑った。
私は、ICレコーダーを、静かにテーブルに置いた。
再生ボタンを押すと、あのファミレスの会話が流れる。
『悪妻ってことにすれば、慰謝料なしで一発で離婚できるからさ』
『すごーい! 陽介、頭いい〜!』
果穂のストローを動かす手が、ピタッと止まった。
「陽介から、離婚工作の話を楽しそうに聞いてるよね」
「私を陥れる計画だって、あなた最初から知ってたよね?」
果穂は一瞬だけ顔をこわばらせたけど、すぐにまたフッと鼻で笑った。
果穂が尋ねた。
「……だから何?」
「これ、ただの世間話だし」
「それにさ、内緒で録音したやつなんて、どうせ証拠にならないでしょ?」
完全に私をナメきった口調で、果穂が睨みつけてくる。
(やっぱり、この録音だけじゃダメなのかな……)
果穂の図太さに、私が一瞬、怯みかけたその時だった。
隣に座っていたさやかが、ドォン、と激しくテーブルを叩いた。
コーヒーカップがガタガタと音を立て、果穂の肩が大きく跳ねる。
さやかが言った。
「証拠になるかならないか、あんたが決めることじゃないんだよ!」
「不倫して妊婦をハメようとしてた動かぬ証拠がこれだろうが!」
さやかは般若みたいな顔で、果穂を凄まじい気迫で睨みつけた。
さやかが言った。
「あんた、美穂を騙して楽しそうに笑ってたよね」
「親切でアドバイスしてあげるけど、これ弁護士に提出済みだから」
「あんたが陽介の言う通りにその嘘日記に加担するなら、美穂はあんたを共同不法行為で徹底的に訴えるよ」
「自分がしたことを、なかったことにはできないよ」
「それでもいいの!?」
果穂の顔が、みるみる青ざめていく。
さやかが尋ねた。
「それに離婚して慰謝料で借金まみれになる男のために、あんたの人生、棒に振る気?」
さやかの怒涛の正論に、果穂は完全に言葉を失って、ガタガタと震え出した。
自分のこと以上に、私のために本気で怒って、守ろうとしてくれるさやか。
その姿を見て、視界がじんわりと涙で滲んだ。
(本当に、さやかが親友でよかった)
私は、冷たくなった果穂の目を見据えて、一拍置いてから続けた。
「でも、調停に協力して、すべて本当のことを話してくれるなら」
「あなたからは、慰謝料は取らないけど...」
「どうする?」
果穂は、しばらく黙り込んでた。
カップの中のコーヒーが、すっかり冷めるくらい長い沈黙だった。
『借金まみれになるかもしれない既婚男のために
人生を棒に振る気なんて、馬鹿らしい』
打算的な女が出す答えなんてすぐわかる。
果穂が言った。
「出ます、出ます!」
「私もあの男に騙されてたんです!」
*
調停委員が、陽介に対して心底軽蔑しきった口調で告げた。
「高木さん、あなたのしていることは、虚偽の記録で妊娠中の奥様を追い詰める極めて悪質な行為です」
「このまま合意できなければ調停は成立しません。双方の主張と記録を整理して、条件を話し合いましょう」
形勢は、1秒で大逆転。
陽介の用意した「完璧な日記」は、そのまま「妻を陥れようとした極悪不倫の動かぬ証拠」へと変わり陽介のハメ技は完全に自爆に終わった。
陽介は、弁護士の説明を黙って聞いた。
その後、費用や支払い方も確認し、私たちは離婚の条件を決めた。
陽介が支払うことになったのは、不倫と一連の工作に対する慰謝料だけじゃない。
財産分与。
別居してからの婚姻費用。
そして、これから長く続く2人分の養育費。
私から金をむしり取るつもりだった陽介が逆に、それをはるかに超える金額を支払う側になった。
条件を聞き終えた陽介は、真っ青な顔で、突然私の方を向いた。
「美穂、待ってくれ」
「俺が悪かった」
「もう果穂とは会わない」
「子供たちには父親が必要だろ?」
「なあ、やり直そう」
あれだけ私を無能だと罵って家から追い出した人と、同じ人とは思えなかった。
「その子供たちから、私を奪おうとしたのは誰?」
陽介が言った。
「それは……」
「毎日写真を撮って」
「毎日嘘を書いて」
「何か月もかけて、私を母親失格にしようとしたよね」
陽介が言った。
「だから、それは本当に悪かったって……」
「一度だけ、俺にやり直すチャンスを――」
「一度?」
私が聞き返すと陽介は何も言えなくなった。
テーブルの上には、陽介が得意げに持ってきた離婚届が置かれていた。
私はそれを、陽介の前へ押し返した。
「もう話すことないから」
「早くサインして」
陽介は、ガタガタ震える手でペンを持った。
合意書にサインした瞬間、机に突っ伏して、頭を抱えた。
その背中が、来た時よりも、ひと回り小さく見えた。
家庭裁判所の外。
冷たい風が、頬を撫でた。
肺いっぱいに、その風を吸い込んだ。
やっと、息ができた気がした。
果穂が、陽介の顔を、まっすぐ睨みつけた。
「マジきもい」
「奥さん陥れるために家事やってたとか、サイコパスじゃん」
「騙されたわ」
果穂は、吐き捨てるように言うと陽介を置いて、一瞬で立ち去った。
陽介の声が背中の向こうへ遠ざかった。
私は、迎えに来てくれた母の方へ歩いた。
その後、私は実家に帰って無事に、2人目の男の子を出産した。
生まれた我が子の出生届にいたって普通の、でも響きの良い、落ち着いた名前を記入した。
「健人(けんと)」
キラキラネームに振り回されることもなく、実家で、私の両親と子供たちに囲まれて暮らしている。
離婚が成立して、1年が経った頃、ふと、さやかから聞いた話なんだけど。
陽介は、慰謝料と養育費の支払いに追われて今は、安いワンルームで一人暮らしをしてるらしい。
「あの果穂さんとも、結局すぐ別れたんだって」
「そりゃそうだよね、もう一銭も残ってないんだもん」
さやかは、笑いながらそう教えてくれた。
正直、もう陽介がどうなろうと私にはどうでもいいことだったんだけどね。
あれから一年たっても、出生届を書いた日のことは覚えている。用紙を前にしたとき、私はすぐにはペンを持てなかった。
名前を決めることは、誰かのセンスを競うことではない。そう言いたかっただけなのに、あの家では、それが私の何もかもを否定する理由になった。
健人、と声に出してみる。
隣に座っていた娘も、小さくまねをした。まだ慣れない呼び方を口にしたあと、弟の寝顔をのぞき込む。
「けんと、寝てるね」
「うん。今は寝てるね」
娘が笑った。私も、その声に笑った。読めるかどうかも、古いか新しいかも、誰もからかっていない。この子を呼ぶための、大切な名前だった。
ペンの先を紙に置く。自分で選んだ文字を、一画ずつ書いた。
生まれたばかりの頃は、夜中に健人が泣けば眠かった。二人の子供を育てる暮らしが、急に楽になるわけではなかった。娘が甘えたそうにしていても、両手がふさがってしまうこともある。
それでも、母へ「少し抱いていてくれる?」と頼めた。頼んだ言葉だけを抜き出され、母親失格の記録にされることを恐れずに。
母は健人を抱き、私は娘と並んで絵本を開いた。ページをめくると、娘が先の絵を指した。
「これ、覚えてる」
以前、陽介が古臭いと笑った番組も、娘が好きな洋服も、今は娘自身が好きだと言っていい。
膝の上で温かい頭が私へ寄った。最後のページまで読む間、娘は一度も私から離れなかった。
先日さやかが遊びに来た帰りに、玄関でお礼を言った。何回も言ったはずなのに、まだ足りないと思っていた。
「一人だったら、あのノートを見せられたときに、私が間違ってるのかもって思った」
「間違ってないよ」
「今は、そう思える」
さやかは、私の顔を見てからうなずいた。声の大きさで相手に勝たなくても、この人の前では自分の言葉を信じてもらえる。
家へ戻ると、娘が健人のそばに座っていた。小さな指が、弟の手に触れている。私は二人の前にしゃがんだ。
今日したことを、写真で証明する必要はない。ここにいる二人を見て、もう少しそばにいたいと思った。その気持ちを、誰かの嘘のために譲らなくてよかった。
健人が目を開いた。私は、決めた名前を呼んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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著者:さくらこ