「奥に二人います! 足場の上です!」
肩を白い粉だらけにした男の人が、俺たちを押し退けるようにして外へ転がり出てきた。
倉庫の奥で、金属の軋む音がした。
*
五分前まで、仕事は順調だった。
川沿いの倉庫は、区画ごとに貸し出されている大きな建物で、例の解体会社が借りているのは、いちばん奥の一区画だけだった。ほかの区画には普通の運送会社が入っていて、朝から作業員が出入りしている。
ライトハウスが奥の区画を確認する間、ほかの区画の人たちには外へ出てもらう。俺の役目は、その人たちが通る中央の通路に点々と落ちている黒い残留物を、先に回収しておくことだった。
通路の黒は、やっぱりあの黒だった。墨を重ね塗りしたような、底の見えない色。古い機械油の匂い。
点々と、奥へ続いている。何かを引きずって、こぼしながら運んだ跡だ。
その跡を辿るように回収していた時、奥の仕切りの向こうから、それは出てきた。
人の形をしていた。でも、輪郭がどこか溶けている。背中から肩にかけて、黒いものがこぶのように盛り上がり、ゆっくりと脈打っていた。
怪人だった。
その手が、大きな樹脂の容器の縁をつかんでいた。容器が傾き、中から黒い塊がどろりとこぼれる。怪人がそこへ手を突っ込むと、塊は指から手首へ、腕へと這い上がっていった。
肩のこぶが、ひと回り膨らんだ。
食べている。
残留物を、自分の体に戻している。
「それ、触らないでください!」
俺の声に、怪人は振り向きもしなかった。容器ごと引きずって、奥へ戻ろうとする。容器の底が、ほかの区画との境に組まれた作業用の足場の脚に引っかかった。
怪人は、止まらなかった。
「上に人がいる!」
相良さんが走った。白い腕が前へ伸び、光の板が足場の下へ滑り込む。
足場の上で、二つの人影が動いた。片方が手すりにしがみつき、もう片方に手を伸ばしている。
足場の脚が、浮いた。
金属が床を叩く音と、何かが割れる音が重なった。天井の断熱材が剥がれ落ちて、白い粉が一気に広がる。俺は口元を覆って、壁際へ下がった。
「動かないで!」
相良さんの声がした。目の前を、小さな破片が跳ねていく。光の板の向こうで、誰かが咳き込んでいた。
*
粉が少しずつ落ち着いてきた。
相良さんは両腕を上げたまま、傾いた足場と天井から落ちてきた板を、光の板で受け止めていた。
「相良さん!」
「湊さんはそこで! まだ上から来ます!」
天井の一部が、また剥がれた。相良さんが片手を動かすと、二枚目の光の板がその下へ入る。破片が板の上で跳ねて、乾いた音を立てた。
怪人の姿は、もう見えなかった。奥の方で、容器を引きずる音だけが遠ざかっていく。
「誰か、聞こえますか!」
崩れた足場に向かって叫んだ。
「ここ! こっちに、もう一人!」
手が見えた。倒れた足場の床板の下、床との間にわずかに空いた隙間から、作業着の袖が動いている。
「二人とも、声は出せますか!」
「俺は……出せる。もう一人も、起きてる!」
奥から、別の咳が聞こえた。
一人は、手前の床板の下。もう一人は、折れ曲がった梁の向こう側だ。
二人がいる場所までの床には、砕けた天井材と足場の部品が膝の高さまで積もっていた。救助隊はまだ入口の外だ。この瓦礫を手で一つずつどけていたら、隊が着くまでに道はできない。
かといって、掃除機で手前から一気に吸えば、瓦礫の山が崩れて、人のいる方へ雪崩れる。
片づけの順番を考えるのは、俺の仕事だ。
端から。人のいない側から。崩れる方向を、人と反対に向けながら。
「相良さん。そこを支えたまま、手前の瓦礫をどかしても大丈夫ですか」
相良さんが、ちらりとこちらを見た。俺の手が腰のバックルにかかっているのを見て、すぐに床に視線を戻す。
「この線までなら。足場には、まだ触らないでください」
光の板の端が、床の一角を照らした。人の挟まっている場所より、ずっと手前だ。
「分かりました。まず、そこまで空けます」
バックルを押し込み、回した。
金管が倉庫の天井に反響した。装甲が足元から組み上がり、胸と肩に重い板が重なっていく。この音で救助の邪魔にならないかと一瞬だけ思ったけれど、もう止められない。最小でも、このくらいなのだ。
仮面が閉じると、粉で白く霞んでいた床が、急にくっきりと見えた。
一歩、前に出る。天井から落ちてきた破片が肩に当たって、かつん、と軽い音を立てて横へ転がった。痛くも何ともない。そのまま足を進めた。
「ここから、どかします」
装甲を通った声は、やっぱり低い。床板の隙間から出ていた手が、びくっと引っ込んだ。
「清掃の三枝です! さっき、入口にいた!」
「……掃除の人?」
「はい。まず、そちらへ行けるようにします」
手が、もう一度隙間から出てきた。
それを確かめてから、掃除機を呼び出した。
両手で柄を支えて、誰もいない足元に吸入口を向ける。細かい破片から順に吸い込まれていき、握りこぶしほどの塊がごろりと転がってきた。吸入口を下げて受け止める。
人のいる方へは、絶対に向けない。相良さんが示した線まで、手前から一枚ずつ床を剥がすように出していった。
掃除機の唸りの向こうで、声がした。
「こっち、足が抜けない!」
「見えてます! 今、行きます!」
掃除機を戻して、空いた床に片膝をついた。
床板の隙間に、男の人の顔が見えた。額から頬まで粉で真っ白だけれど、目はしっかりこちらを向いている。足場の床板が斜めに落ちて、その低い方の端が、片足の先を押さえていた。
「そこから動かなくて大丈夫です。この板を、少し上げます」
手をかける前に、相良さんを見た。
「上、動きませんか」
「待ってください」
光の板が一枚、角度を変えた。床板の上に引っかかっていた部材が、そちらへ預けられる。
「どうぞ。ゆっくり」
床板の端に指をかけた。
重さが、腕に乗った。
それでも、持てた。
普段なら、三人がかりで端を探すような板だ。それが俺の片手で、床から離れている。
急に動かさないよう、指に力を入れ直した。
「上がってます。足、どうですか」
「……抜ける。待って……抜けた!」
男の人の靴が、板の下から出てきた。反対の手を伸ばしかけたところで、後ろから声がかかった。
「そのままで! こちらで受けます!」
救助隊の人たちが、俺の空けた通路を通ってきていた。先頭の人が俺の脇に屈んで男の人に声をかけ、もう一人が担架を広げる。
俺は板を持ったまま、腕を動かさずに待った。男の人の体が少しずつ板の下から抜けていき、最後に靴の先まで見えたところで、救助隊の人が頷いた。
「出ました。ありがとうございます」
板を、床に下ろした。
音を立てないつもりだったのに、端が触れた瞬間、床がずん、と小さく震えた。
「……重かったんだな」
つぶやいた声が、仮面の中で返ってきた。救助隊の人が、俺の手と板を順に見た。
「持ってましたよね、今」
「はい。下ろしてみて分かりました」
担架で運ばれながら、男の人が俺の腕をつかんだ。
「奥のやつ……あいつ、崩れる時、俺を先に押してくれたんだ」
「次、そっちに行きます」
手が離れた。救助隊の人たちが、さっき空けた道を戻っていく。
俺は奥へ向き直った。
梁の向こうで、もう一人が手を上げた。相良さんの光は、そこまで届いている。居場所は分かった。あとは、そこまで道を伸ばすだけだ。
「見えました! そっちに行きます!」
足元に残った細かい破片を除けるために、ほうきを呼び出した。柄が手に収まる。
梁の手前まで、あと五歩。
その時、奥で鳴っていた、容器を引きずる音が止んだ。
仕切りの向こうの暗がりに、さっきの黒い怪人が立っていた。肩のこぶが、さっきよりさらに大きい。
今度は、まっすぐに俺を見ていた。
「その鎧……」
ひび割れた、低い声だった。
「なぜ、まだ動いている」