【掲示板・配信】そのラスボス、戦闘後の清掃員です 作:シラヌイ321
律は、カメラのケースを閉めたあとも、留め具を親指で押していた。
「閉まってるぞ」
「あ、はい。分かってます」
返事をして、もう一度押す。
いつもなら帰り道に撮ったものを確かめているのに、今日はケースから手を離すきっかけを探しているように見えた。
俺も、弁を閉めたあとに容量計を何度も見直すことがある。忘れ物がないのに、何か一つ足りない気がする時だ。
休憩室の外では、管理担当が案内板を外していた。
カサネは相談担当と工場側へ戻っている。俺たちが帰るまで、ここで待っていてもらう必要はなかった。
「今日の分、撮れなくて困った?」
口にしてから、聞き方が悪かったと思った。
カサネが断ったせいで、という話にしたかったわけじゃない。
「いや。今、何か俺にも手伝えることがあればと思って」
「予定変更のお知らせは、戻ったら僕が出します。それは大丈夫です」
律は持ち手を立てた。
「撮らないって決めたのは、後悔してないんです。ただ……帰ってから、何を見ればいいのかなって」
「見る?」
「いつもは映像を見直して、出したら反応を見るんです。最後まで見てもらえたかとか、どこで分からなくなったかとか。何も出さないと、今日の自分に何点をつけたらいいのか、分からなくて」
ケースの上を指でなぞり、途中でやめた。
「相談、ちゃんと続きましたよね。あれでよかったのに、僕だけ物足りないのも、嫌なんです」
俺は、すぐには返事ができなかった。
今日の律に何点をつけるかなんて、考えたこともない。
ただ、カサネが紙を机の真ん中へ戻した時には、ほっとした。律がカメラをしまうのを見てからだった。
「俺は、いてくれてよかったけど」
「ありがとうございます」
律が笑った。声は小さかった。
言った俺のほうも、これで気が済んだだろうとは思えない。俺だって「助かった」と言われたあと、帰ってから自分の説明を思い出して、もっと短く言えたなと思う日がある。
廊下の向こうで、こつん、と音がした。
案内板を外した三本の支柱を、管理担当が台車へ寝かせている。丸い台座の縁には、乾いた泥が付いていた。
「律。手伝ってくれるなら、あれ洗わない?」
「支柱ですか」
「うん。普通の泥。今日はあれが立ってたから、みんな迷わず来られた」
律は支柱を見た。
「一回も、映してませんね」
「俺も、帰る時になって見た」
偉そうに言えるほど、ずっと気に掛けていたわけでもなかった。
管理担当に聞くと、外の洗い場を貸してくれた。洗って乾かしてから、休憩室の物置へ返すものだという。
律はケースを乾いた室内へ置き、借りた手袋をはめた。
*
泥は、水を掛けると案外あっさり落ちた。
俺が台座の縁を洗い、律が支柱を拭く。布を一往復させるたびに、曇っていた銀色が戻ってくる。
「これ、どこまでやれば終わりですか」
「泥を取って、水を拭いたら。傷は、そのままでいい」
「この線、さっきから気になってたんですよ」
律が同じ所をこするのをやめた。
細い傷だった。光の向きで白く見えたり、消えたりする。
「落ちなかったら、俺に聞いて。取れない物をずっと拭くと、疲れるから」
「経験あります?」
「塗装。下の色が出てきて、やっとやめた」
「それ、きれいになったんじゃなくて、削れてますよね」
「うん。母さんに、そこまで取るなって言われた」
律が、布を当てたまま笑った。
笑い終わってからも、口元が少し上がっていた。
ほっとして、俺も残りの泥へブラシを戻す。さっきより、話しながら手を動かしやすかった。
三本を乾いた場所へ並べると、洗い場には使った布が残った。
管理担当から借りたものなので、すすいで、脇の干し台へ掛けて返す。
干し台は二本の脚だけが出ていて、間に張るひもは箱にしまってあった。
律は二枚目をすすぎ、俺は最初の一枚を絞った。
「洗濯ばさみ、どこですか」
「その箱だって」
指した箱には、輪になったひもと洗濯ばさみが絡まって入っていた。
管理担当が、しまう時に一緒に入れてしまったと言っていたやつだ。
片手で引くと、全部ついてきた。
両手が要りそうだったので、絞った布を律へ渡そうとする。律も両手に、二枚目を持っていた。
「あ、俺が持つよ。律、箱のほう頼める?」
「はい。じゃあ、これも」
一枚目を左の腕へ掛け、二枚目を右へ受け取った。
腕に広げると、布の端が地面へつかずに済む。
これなら、律がほどく間だけ待てる。せっかく洗った布を、また泥の所へ置きたくなかった。
「三枚目も、先に絞っちゃいますね」
「うん」
律が最後の布を絞った。
俺の右腕と左腕を、順に見る。
「肩、いいですか」
「いいよ」
肩へ掛かった布は、首の後ろへ滑りかけた。
ひやっとして、思わず顎が上がる。
「冷たかったですか」
「平気。背中へ入ると、ちょっと困るけど」
「じゃあ、もう少し前で」
律が布を直した。今度は、胸の前へ長く垂れる。
俺が下を向くと、鼻に当たった。
「あ。そのまま、顔は上げててください」
「はい」
「左腕、もう少し外で。そっちの布と重なってます」
「こう?」
「そうです。右も少し。……いいですね」
言われた位置で止まった。
両腕に布を掛け、顎を上げ、胸にも一枚。
律は一歩下がって全体を見た。
「うん。きれいに広がりました」
俺も、三枚とも地面へついていないのを確かめた。
よかった。どれも洗い直さなくて済む。
「それで、洗濯ばさみは?」
律の視線が、足元の箱へ落ちた。
まだ、開けた時のままだった。
「……すみません。つい、形を整えてました」
「うん。俺は、よく整ったと思う」
右腕の布から、水が一滴落ちた。
律は俺の顔を見て、唇をかみ、それから横を向いた。
肩が揺れている。
「支柱を片づけたのに、一本増えてる」
声に出すと、もう堪えられなかったらしい。
箱を拾い上げ、笑いながらひもをほどき始めた。
俺は腕を上げたまま待った。
さっきケースの留め具を押していた時とは、ずいぶん違う顔だった。
こうなるとは思わなかったが、今、手伝えているのは分かる。
「律。急がなくていいけど」
「はい」
「乾くまで俺に掛けるのは、やめてほしい」
律がさらに笑って、ひもを落とした。
急がせないほうが早いと思ったのに、また止めてしまった。
律がほどいたひもを二本の脚の間へ張り、俺の腕から布を取った。
三枚とも干し台へ移ると、腕が軽くなった。
俺は肩を回し、律は洗濯ばさみを三つ、使いやすい向きへそろえた。
「今のは、撮らなくてよかったです」
「変だった?」
「カメラ持ってたら、布を取れないので」
それは困る。
俺はうなずいて、空いた手で残りの箱を運んだ。
乾いた支柱を物置へ戻し、管理担当に置き場所を見てもらう。
「助かりました。次は、ここから出せばいいんですね」
「はい。三本とも、この列です」
律が、自分の戻した一本を指した。
扉が閉まるまで、その先端を見ている。
休憩室で機材を受け取ると、律はケースの留め具を一度だけ押した。
「帰りましょうか」
「うん」
俺が扉を押さえると、律が台車を出した。
持ち手を渡す時にも、まだ少し笑っていた。
*
会社へ戻ると、母さんは電話を終えたところだった。
俺が相談の控えを渡すと、水の運び方がまだ決まっていない欄へ目を留める。
「返事が来たら、先にカサネへね」
「うん。作業の日は、それから」
母さんが控えを閉じる。
机の端には、黒い缶についての連絡メモもあった。
「工藤さんからの途中経過、明日の夕方までだよね」
「そう。分かった範囲で、会社に連絡をもらうことになってる」
今ここで、答えが出たわけではなかった。
俺は明日の予定の横に印を付け、今日使った道具をしまった。
*
夜、青葉荘へ帰ると、二〇二号室の扉が開いた。
灯也は眼鏡を押し上げ、俺の手元を見た。
「帰ってきた。今日、九時から空いてる?」
「うん。風呂入って飯食ったら」
「よし。この前、勝てなかったところ、いけそうなんだよ」
言いながら、片手で空中に道を描く。
右へ行きかけた指が戻り、今度は左へ伸びた。
「入口の敵は俺が引くから、お前はこっち。で、俺が合図したら橋を渡って。早いと落ちる」
「灯也が?」
「俺が。ちゃんと待って。すっげえ格好悪いから」
落ちたところを想像して、笑ってしまった。
灯也は俺を指した。
「笑うけど、助けに来てお前も落ちるだろ」
「前は、届くと思ったんだよ」
「二人いなくなって、敵だけ橋の上に残ったんだぞ」
あれは、しばらく画面を見ていた。
俺たちがいなくなっても、敵は律儀にこっちを待っていた。灯也が先に吹き出したせいで、俺まで操作をやり直せなくなった。
「じゃあ、今日は先に待ってる」
「頼む。勝ったら次の場所、見に行こうぜ」
灯也の声につられて、まだ知らない景色が楽しみになった。
そこまで行けるかどうかは、まず橋を渡ってからだ。
「九時な」
「おう。飯、ちゃんと食ってこいよ」
俺は自分の部屋の鍵を開けた。
靴を脱いで、スマホに九時の通知を入れる。
誰かが待っている時間を、今日は俺も楽しみにしていた。
*
【青葉荘・二〇二号室/端末に残る私信】
【止まり木・匿名相談】
窓番:夜帳さん。相談の続き、話せますか。
夜帳:少しなら。
夜帳:昔のことを知らない友達がいる。
夜帳:話したら、今まで一緒にいたことも、全部嘘だったって思われそうで、怖い。
窓番:その人に、何を伝えたいですか。
夜帳:あの倉庫で、救援を止めたこと。
夜帳:でも、友達でいたいって言っていいのか、分からない。
窓番:相手の答えを、ここで約束することはできません。
窓番:伝える言葉を、一緒に考えることはできます。
夜帳:……じゃあ、そこから。