【掲示板・配信】そのラスボス、戦闘後の清掃員です   作:シラヌイ321

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おはようございます。第18話です。
今日は、仕事のあとの夕ご飯まで。


第18話 今夜は、ここで止めます

「夜なら、通路を使う人も減ります。照明と人を改めて手配できれば、奥の確認だけでも」

 

 橘さんが、俺の右手を見た。

 真白さんも見た。

 俺も見た。

 

 片づけようと脱いだ軍手を、またはめていた。

 

 手が勝手に、働く準備をしている。

 

「三枝」

「はい」

「その続きは、明日の手でやれ」

 

 明日の手。

 うちの会社は、手だけ交換してくれるほど福利厚生が充実していない。

 

 軍手を脱ぎ直す。指の先に、乾いた土の感触が残っていた。

 朝に立てた仮囲いの影が、道路を横切って長く伸びている。昼には白く見えたコンクリートの破片が、今は薄い橙色だった。

 

 外周でできる作業は、もう終わった。休憩を挟んで片づけまで済ませたが、奥へ入るための確認だけが終わらない。

 朝、俺から待つ時間を確かめて、五時には切り上げると皆で決めた。

 今、四時五十二分。

 自分で決めた約束を、八分前に値切っている。

 

「交代の人が見つかれば、です。今いる人を、そのまま残すつもりじゃありません」

「うん。それで、お前は?」

「俺は、確認だけなら」

「交代する側だろ」

 

 橘さんの声はいつもどおりだった。

 怒られる前に言い訳を探すような声でも、褒めて引き下がらせるような声でもない。

 ただ、人数の数え間違いを指摘された。

 

 俺を一人、数えていなかった。

 

「……そうですね」

 

 真白さんは、規制の外のベンチに座っていた。

 通院の帰りに母さんと合流して、会社で夕飯を一緒に食べることになったらしい。母さんの車はすぐ先に停まっている。

 俺がいつまでも道具箱を閉めないので、二人とも帰りそびれていた。

 

「三枝さん、さっきも同じところ、締め直してました」

 

 真白さんが、俺の足元へ目を向けた。

 道具箱の留め具。

 閉まっている。ちゃんと。

 

「念のために」

「うん。二回目までは、私もそう思ってました」

 

 三回目を見られていたらしい。

 

 真白さんはそこで笑わなかった。

 左手で鞄の紐を寄せて、ベンチの隣を空ける。

 

「ここ、座れますよ」

 

 座るほどじゃないです、と言いかけた。

 言いかけて、やめた。

 さっきの橘さんの問いに、もう一度つかまった気がした。

 

 腰を下ろすと、膝の裏が少し楽になった。

 こんなに楽になるなら、立っている意味はあまりなかった。

 

「……奥、今日も見られませんでしたね」

「はい」

 

 真白さんは、囲いの向こうを見た。

 俺も見た。

 隙間から見えるのは、薄暗くなり始めた地面だけだ。何が残っているか、外からでは決められない。

 

「明日も同じ返事だったら、と思うと」

 

 そこで止まった。

 自分が嫌だというだけで、口にしても仕方がない。

 

 真白さんが、先に言った。

 

「また待つの、嫌ですよね」

 

 あっさり言われた。

 

「……嫌ですね」

 

 口に出すと、少し息が抜けた。

 

 母さんが通話を終えて戻ってきた。

 

「区域は市の方で維持するって。朝の連絡を待ってから、こっちの作業を組み直すよ」

「分かった」

「湊。今日は終わり」

 

 俺は足元の道具箱を見た。

 閉まっている。

 さすがに四回目は、やめておいた。

 

「今夜は、ここで止めます」

 

 橘さんが一度うなずいた。

 それから、箱を持って歩き出した。

 

「あ、それは俺が」

「お前はそっち」

 

 指された先に、俺の水筒が一本あった。

 今日、いちばん軽い担当だった。

 

 

 会社へ戻る車の中で、母さんが夕飯の話をした。

 

「橘さんも誘ったから、食べていってもらうよ。真白さんが持ち帰りのメニュー、見つけてくれてね」

「ありがとうございます」

 

 後部座席の真白さんが、少しだけ声を弾ませた。

 

「焼き魚と、唐揚げと、カツがあります」

「カツで」

 

 自分でも驚くくらい、返事が早かった。

 

 母さんが前を向いたまま笑った。

 

「そこは待たないんだね」

 

 カツは、返事を待たせても柔らかくならない。

 むしろ、今すぐ食べたい。

 

「真白さんは?」

「唐揚げにしました。写真がよかったので」

「魚じゃないんですね」

「……魚の方がよかったですか?」

「いえ。何となく」

 

 何となく、ちゃんとした物を選ぶ人だと思っていた。

 言ってから、唐揚げに失礼な考えだと思った。

 

 真白さんは窓に映る俺を見て、少し口元を緩めた。

 

「私も、写真を見てお腹がすくこと、ありますよ」

「それは、そうですね」

「あと、このお店、唐揚げが大きいんです」

 

 既に知っている人の言い方だった。

 母さんが「じゃあ大丈夫だね」と言った。

 何が大丈夫なのか分からないが、夕飯にはかなり期待してよさそうだった。

 

 真白さんが店へ電話をかけ、注文を伝えた。

 母さんは、受け取りに寄るために次の角を曲がった。

 

 

 会社の机を二つ寄せると、普段は書類を広げる場所が、四人分の夕飯で埋まった。

 揚げ物の匂いが、紙と洗剤の匂いに勝つ。

 蓋の内側についた湯気を見た途端、腹が鳴った。

 

 橘さんが、隣の椅子を引いた。

 

「ほら」

「先に、お茶を」

「私が出すよ」

 

 母さんが湯飲みを四つ持っていた。

 

「じゃあ、箸を」

「ここにあります」

 

 真白さんが、袋に入った割り箸を左手で見せた。

 

「机、もう少し寄せますか」

「座ってから言え」

 

 橘さんに椅子を指で叩かれた。

 

 座った。

 目の前にカツがある。

 何も悪いことは起きていない。

 なのに、手ぶらで先に座っていると、自分だけ何か忘れている気がした。

 

 母さんが、俺の顔を見て言った。

 

「お客さんみたいな顔しないの。あんたの会社でしょうが」

「母さんの会社だろ」

「じゃあ、社長が座れって言ってる」

 

 夕飯の席にまで、雇用関係を持ち込まれた。

 

 橘さんが箸を割った。

 

「三枝社長。こいつ、食うのも指示待ちになりますよ」

「いただきます」

 

 俺が先に言うと、三人とも笑った。

 そこは待たなくていいらしい。

 

 カツを一切れ、口に入れる。

 衣がまだ軽く鳴った。

 熱い。うまい。

 さっきまで頭の中にあった囲いの隙間が、ようやく少し遠くなった。

 

 真白さんの唐揚げは、本当に大きかった。

 箸で持ち上げた一つが、ご飯の上に影を作っている。

 

「写真より大きくないですか、それ」

「そこがいいんです」

 

 即答だった。

 

 橘さんは焼き魚だった。骨をきれいに端へ寄せていく手つきが速い。

 あの人は、夕飯まで撤収が上手い。

 

 つい見ていたら、目が合った。

 

「魚、欲しいのか」

「いえ」

「じゃあ自分のを食え。冷める」

 

 言われて、二切れ目を食べた。

 今日はよく、自分の担当へ戻される。

 

 真白さんが、俺のカツをちらっと見た。

 箸の先に、大きな唐揚げがある。

 

「一個、交換しませんか」

「いいんですか。それ、だいぶ大きいですよ」

「カツも食べたくなっちゃって」

 

 それなら、と一番厚い一切れを探した。

 端の方が衣は多い。真ん中は肉が厚い。

 どちらが好きか聞こうとしたところで、母さんに笑われた。

 

「一切れ選ぶのに、そんな真剣にならなくても」

「交換だから」

「私、端が好きです」

 

 真白さんの申告で、交渉は無事に終わった。

 唐揚げを受け取る。持つと、見た目より重い。

 一口かじると、生姜の匂いがした。

 

「……これ、次は俺も頼みます」

「でしょう?」

 

 真白さんがうれしそうに言った。

 母さんが自分の弁当を少し寄せてくる。

 

「あたしの漬物とも交換する?」

「しない」

「返事、早いねえ」

 

 カツも唐揚げも、まだ食べたい。

 母さんだって、自分の唐揚げは一つも差し出していない。

 

 母さんが小さな袋を開いた。

 四人分の味噌汁だった。

 持ち帰り用の丸い容器から、だしの匂いがする。

 

 自分の分の蓋を外そうとして、指が滑った。

 縁が少し固い。

 容器を持ち直す。

 

「貸せ」

 

 隣から、橘さんの手が出た。

 

「大丈夫です」

「汁、こぼすぞ」

「湊、下にこれ敷いて」

 

 母さんが布巾を持ってきた。

 

「あ、そっち、蓋の端が」

 

 真白さんが左手で指した。

 

 容器を挟んで、橘さんの手と俺の手が止まる。

 母さんの布巾が、その下へ入ろうとする。

 真白さんが示している端は、ちょうど橘さんの親指に隠れていた。

 

「一度、置け」

「置く所に母さんの手があるんです」

「あたしは、こぼさないように」

「俺も、こぼしたくないんだけど」

 

 四人いる。

 味噌汁は、まだ一人も飲めていない。

 

 俺は容器を持ったまま、三人の顔を順番に見た。

 

「……すみません。一人にしてもらっていいですか」

 

 急に静かになった。

 真白さんが、俺の顔を見た。

 少し真面目な目だった。

 

 違う。

 そんな、つらい告白ではない。

 

「味噌汁の蓋だけです」

 

 真白さんの肩が小さく揺れた。

 すぐに右側をかばって、左手で口元を押さえる。

 橘さんは自分の手を引っ込め、母さんは布巾を置いた。

 

「……悪かった」

 

 橘さんが、笑いを噛んだ声で言った。

 

 蓋を開けた。

 普通に開いた。

 湯気の向こうで、三人ともまだ見ていた。

 

「開きました」

「報告しなくていいの」

 

 母さんに言われた。

 ここまで見守られたら、報告くらいしたくなる。

 

 真白さんはまだ笑っていた。

 俺と目が合うと、少し眉を下げた。

 

「ごめんなさい。皆、同じこと考えてましたね」

「俺、味噌汁より先に囲まれました」

 

 橘さんが下を向いた。

 今度は、母さんまで箸を置いて笑った。

 

 三人の笑いが収まるのを待って、味噌汁を飲んだ。

 さっきより、腹がすいていた。

 

 

 二杯目のお茶を飲む頃には、窓の外が暗くなっていた。

 母さんが残った漬物を真ん中へ寄せる。

 橘さんが、空になった容器を重ねた。

 

「で。まだ行きたいか」

 

 一瞬、どこへ、と聞きそうになった。

 現場だ。

 

「今日は、もういいです」

「そうか」

「明日は進んでほしいですけど」

 

 これは本音だった。

 言うと、母さんがうなずいた。

 

「そうだね」

 

 それだけだった。

 待つのも仕事だとか、急ぐと危ないとか、分かっていることは足されなかった。

 

 だから、もう一つ出た。

 

「待つなら待つで、早く言ってほしい」

「うん」

「あと十分で分かるかもしれない、が続くと、他のこと始めにくいし。帰っていいって決めた後で、返事が来るかもしれないし」

 

 口にすると、ぽろぽろ出た。

 作業が進まないことだけじゃなかった。

 いつ終わるか分からないまま、終わる用意だけしているのが、嫌だった。

 

 橘さんが湯飲みを置いた。

 

「俺も嫌いだ。それ」

 

 真白さんが、小さくうなずく。

 

「帰っていいって言われた後も、頭だけ残っちゃうんですよね」

 

 病院の待合室の話なのか、仕事の話なのかは聞かなかった。

 同じ場所に座っている感じがした。

 

「明日は俺が、連絡の時刻をもう一回」

 

 言いながら、机の端の鞄へ目を向けた。

 手帳は外側のポケットだ。

 

「三枝さん」

 

 真白さんに呼ばれた。

 顔を戻す。

 

「それ、明日の三枝さんにお願いしませんか」

 

 俺は少し考えた。

 

「あいつ、もう結構、仕事あるんですけど」

「今夜のあんたより、寝てるでしょうよ」

 

 母さんが言った。

 それは、そうだ。

 明日の俺には、悪いが寝てきてもらおう。

 

 手帳は出さなかった。

 

 代わりに、最後のカツを食べた。

 少し冷めていたけれど、まだおいしかった。

 

「湊、明日は」

 

 母さんが言いかける。

 俺は箸を止めて見た。

 

 母さんも止まった。

 橘さんが湯飲みの向こうで笑い、真白さんがそっと視線を逸らした。

 

「……何?」

「いや。明日の話は、明日だね」

 

 母さんが、俺の空いた湯飲みにお茶を足した。

 

 これは一つ、ちゃんと言っておこうと思った。

 

「母さんも、今日は帰って寝てくれよ」

 

 母さんは返事をせず、机の端を見た。

 そこに、さっきまでなかった書類の束がある。

 夕飯が終わったら広げるつもりで、いつの間にか持ってきたらしい。

 

 俺は束を指した。

 橘さんも見た。

 真白さんも見た。

 

 母さんが、書類を裏返した。

 

「見えなくしても、あるからな」

 

 今度は、俺が先に笑った。




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