【掲示板・配信】そのラスボス、戦闘後の清掃員です 作:シラヌイ321
今日は、仕事のあとの夕ご飯まで。
「夜なら、通路を使う人も減ります。照明と人を改めて手配できれば、奥の確認だけでも」
橘さんが、俺の右手を見た。
真白さんも見た。
俺も見た。
片づけようと脱いだ軍手を、またはめていた。
手が勝手に、働く準備をしている。
「三枝」
「はい」
「その続きは、明日の手でやれ」
明日の手。
うちの会社は、手だけ交換してくれるほど福利厚生が充実していない。
軍手を脱ぎ直す。指の先に、乾いた土の感触が残っていた。
朝に立てた仮囲いの影が、道路を横切って長く伸びている。昼には白く見えたコンクリートの破片が、今は薄い橙色だった。
外周でできる作業は、もう終わった。休憩を挟んで片づけまで済ませたが、奥へ入るための確認だけが終わらない。
朝、俺から待つ時間を確かめて、五時には切り上げると皆で決めた。
今、四時五十二分。
自分で決めた約束を、八分前に値切っている。
「交代の人が見つかれば、です。今いる人を、そのまま残すつもりじゃありません」
「うん。それで、お前は?」
「俺は、確認だけなら」
「交代する側だろ」
橘さんの声はいつもどおりだった。
怒られる前に言い訳を探すような声でも、褒めて引き下がらせるような声でもない。
ただ、人数の数え間違いを指摘された。
俺を一人、数えていなかった。
「……そうですね」
真白さんは、規制の外のベンチに座っていた。
通院の帰りに母さんと合流して、会社で夕飯を一緒に食べることになったらしい。母さんの車はすぐ先に停まっている。
俺がいつまでも道具箱を閉めないので、二人とも帰りそびれていた。
「三枝さん、さっきも同じところ、締め直してました」
真白さんが、俺の足元へ目を向けた。
道具箱の留め具。
閉まっている。ちゃんと。
「念のために」
「うん。二回目までは、私もそう思ってました」
三回目を見られていたらしい。
真白さんはそこで笑わなかった。
左手で鞄の紐を寄せて、ベンチの隣を空ける。
「ここ、座れますよ」
座るほどじゃないです、と言いかけた。
言いかけて、やめた。
さっきの橘さんの問いに、もう一度つかまった気がした。
腰を下ろすと、膝の裏が少し楽になった。
こんなに楽になるなら、立っている意味はあまりなかった。
「……奥、今日も見られませんでしたね」
「はい」
真白さんは、囲いの向こうを見た。
俺も見た。
隙間から見えるのは、薄暗くなり始めた地面だけだ。何が残っているか、外からでは決められない。
「明日も同じ返事だったら、と思うと」
そこで止まった。
自分が嫌だというだけで、口にしても仕方がない。
真白さんが、先に言った。
「また待つの、嫌ですよね」
あっさり言われた。
「……嫌ですね」
口に出すと、少し息が抜けた。
母さんが通話を終えて戻ってきた。
「区域は市の方で維持するって。朝の連絡を待ってから、こっちの作業を組み直すよ」
「分かった」
「湊。今日は終わり」
俺は足元の道具箱を見た。
閉まっている。
さすがに四回目は、やめておいた。
「今夜は、ここで止めます」
橘さんが一度うなずいた。
それから、箱を持って歩き出した。
「あ、それは俺が」
「お前はそっち」
指された先に、俺の水筒が一本あった。
今日、いちばん軽い担当だった。
会社へ戻る車の中で、母さんが夕飯の話をした。
「橘さんも誘ったから、食べていってもらうよ。真白さんが持ち帰りのメニュー、見つけてくれてね」
「ありがとうございます」
後部座席の真白さんが、少しだけ声を弾ませた。
「焼き魚と、唐揚げと、カツがあります」
「カツで」
自分でも驚くくらい、返事が早かった。
母さんが前を向いたまま笑った。
「そこは待たないんだね」
カツは、返事を待たせても柔らかくならない。
むしろ、今すぐ食べたい。
「真白さんは?」
「唐揚げにしました。写真がよかったので」
「魚じゃないんですね」
「……魚の方がよかったですか?」
「いえ。何となく」
何となく、ちゃんとした物を選ぶ人だと思っていた。
言ってから、唐揚げに失礼な考えだと思った。
真白さんは窓に映る俺を見て、少し口元を緩めた。
「私も、写真を見てお腹がすくこと、ありますよ」
「それは、そうですね」
「あと、このお店、唐揚げが大きいんです」
既に知っている人の言い方だった。
母さんが「じゃあ大丈夫だね」と言った。
何が大丈夫なのか分からないが、夕飯にはかなり期待してよさそうだった。
真白さんが店へ電話をかけ、注文を伝えた。
母さんは、受け取りに寄るために次の角を曲がった。
会社の机を二つ寄せると、普段は書類を広げる場所が、四人分の夕飯で埋まった。
揚げ物の匂いが、紙と洗剤の匂いに勝つ。
蓋の内側についた湯気を見た途端、腹が鳴った。
橘さんが、隣の椅子を引いた。
「ほら」
「先に、お茶を」
「私が出すよ」
母さんが湯飲みを四つ持っていた。
「じゃあ、箸を」
「ここにあります」
真白さんが、袋に入った割り箸を左手で見せた。
「机、もう少し寄せますか」
「座ってから言え」
橘さんに椅子を指で叩かれた。
座った。
目の前にカツがある。
何も悪いことは起きていない。
なのに、手ぶらで先に座っていると、自分だけ何か忘れている気がした。
母さんが、俺の顔を見て言った。
「お客さんみたいな顔しないの。あんたの会社でしょうが」
「母さんの会社だろ」
「じゃあ、社長が座れって言ってる」
夕飯の席にまで、雇用関係を持ち込まれた。
橘さんが箸を割った。
「三枝社長。こいつ、食うのも指示待ちになりますよ」
「いただきます」
俺が先に言うと、三人とも笑った。
そこは待たなくていいらしい。
カツを一切れ、口に入れる。
衣がまだ軽く鳴った。
熱い。うまい。
さっきまで頭の中にあった囲いの隙間が、ようやく少し遠くなった。
真白さんの唐揚げは、本当に大きかった。
箸で持ち上げた一つが、ご飯の上に影を作っている。
「写真より大きくないですか、それ」
「そこがいいんです」
即答だった。
橘さんは焼き魚だった。骨をきれいに端へ寄せていく手つきが速い。
あの人は、夕飯まで撤収が上手い。
つい見ていたら、目が合った。
「魚、欲しいのか」
「いえ」
「じゃあ自分のを食え。冷める」
言われて、二切れ目を食べた。
今日はよく、自分の担当へ戻される。
真白さんが、俺のカツをちらっと見た。
箸の先に、大きな唐揚げがある。
「一個、交換しませんか」
「いいんですか。それ、だいぶ大きいですよ」
「カツも食べたくなっちゃって」
それなら、と一番厚い一切れを探した。
端の方が衣は多い。真ん中は肉が厚い。
どちらが好きか聞こうとしたところで、母さんに笑われた。
「一切れ選ぶのに、そんな真剣にならなくても」
「交換だから」
「私、端が好きです」
真白さんの申告で、交渉は無事に終わった。
唐揚げを受け取る。持つと、見た目より重い。
一口かじると、生姜の匂いがした。
「……これ、次は俺も頼みます」
「でしょう?」
真白さんがうれしそうに言った。
母さんが自分の弁当を少し寄せてくる。
「あたしの漬物とも交換する?」
「しない」
「返事、早いねえ」
カツも唐揚げも、まだ食べたい。
母さんだって、自分の唐揚げは一つも差し出していない。
母さんが小さな袋を開いた。
四人分の味噌汁だった。
持ち帰り用の丸い容器から、だしの匂いがする。
自分の分の蓋を外そうとして、指が滑った。
縁が少し固い。
容器を持ち直す。
「貸せ」
隣から、橘さんの手が出た。
「大丈夫です」
「汁、こぼすぞ」
「湊、下にこれ敷いて」
母さんが布巾を持ってきた。
「あ、そっち、蓋の端が」
真白さんが左手で指した。
容器を挟んで、橘さんの手と俺の手が止まる。
母さんの布巾が、その下へ入ろうとする。
真白さんが示している端は、ちょうど橘さんの親指に隠れていた。
「一度、置け」
「置く所に母さんの手があるんです」
「あたしは、こぼさないように」
「俺も、こぼしたくないんだけど」
四人いる。
味噌汁は、まだ一人も飲めていない。
俺は容器を持ったまま、三人の顔を順番に見た。
「……すみません。一人にしてもらっていいですか」
急に静かになった。
真白さんが、俺の顔を見た。
少し真面目な目だった。
違う。
そんな、つらい告白ではない。
「味噌汁の蓋だけです」
真白さんの肩が小さく揺れた。
すぐに右側をかばって、左手で口元を押さえる。
橘さんは自分の手を引っ込め、母さんは布巾を置いた。
「……悪かった」
橘さんが、笑いを噛んだ声で言った。
蓋を開けた。
普通に開いた。
湯気の向こうで、三人ともまだ見ていた。
「開きました」
「報告しなくていいの」
母さんに言われた。
ここまで見守られたら、報告くらいしたくなる。
真白さんはまだ笑っていた。
俺と目が合うと、少し眉を下げた。
「ごめんなさい。皆、同じこと考えてましたね」
「俺、味噌汁より先に囲まれました」
橘さんが下を向いた。
今度は、母さんまで箸を置いて笑った。
三人の笑いが収まるのを待って、味噌汁を飲んだ。
さっきより、腹がすいていた。
二杯目のお茶を飲む頃には、窓の外が暗くなっていた。
母さんが残った漬物を真ん中へ寄せる。
橘さんが、空になった容器を重ねた。
「で。まだ行きたいか」
一瞬、どこへ、と聞きそうになった。
現場だ。
「今日は、もういいです」
「そうか」
「明日は進んでほしいですけど」
これは本音だった。
言うと、母さんがうなずいた。
「そうだね」
それだけだった。
待つのも仕事だとか、急ぐと危ないとか、分かっていることは足されなかった。
だから、もう一つ出た。
「待つなら待つで、早く言ってほしい」
「うん」
「あと十分で分かるかもしれない、が続くと、他のこと始めにくいし。帰っていいって決めた後で、返事が来るかもしれないし」
口にすると、ぽろぽろ出た。
作業が進まないことだけじゃなかった。
いつ終わるか分からないまま、終わる用意だけしているのが、嫌だった。
橘さんが湯飲みを置いた。
「俺も嫌いだ。それ」
真白さんが、小さくうなずく。
「帰っていいって言われた後も、頭だけ残っちゃうんですよね」
病院の待合室の話なのか、仕事の話なのかは聞かなかった。
同じ場所に座っている感じがした。
「明日は俺が、連絡の時刻をもう一回」
言いながら、机の端の鞄へ目を向けた。
手帳は外側のポケットだ。
「三枝さん」
真白さんに呼ばれた。
顔を戻す。
「それ、明日の三枝さんにお願いしませんか」
俺は少し考えた。
「あいつ、もう結構、仕事あるんですけど」
「今夜のあんたより、寝てるでしょうよ」
母さんが言った。
それは、そうだ。
明日の俺には、悪いが寝てきてもらおう。
手帳は出さなかった。
代わりに、最後のカツを食べた。
少し冷めていたけれど、まだおいしかった。
「湊、明日は」
母さんが言いかける。
俺は箸を止めて見た。
母さんも止まった。
橘さんが湯飲みの向こうで笑い、真白さんがそっと視線を逸らした。
「……何?」
「いや。明日の話は、明日だね」
母さんが、俺の空いた湯飲みにお茶を足した。
これは一つ、ちゃんと言っておこうと思った。
「母さんも、今日は帰って寝てくれよ」
母さんは返事をせず、机の端を見た。
そこに、さっきまでなかった書類の束がある。
夕飯が終わったら広げるつもりで、いつの間にか持ってきたらしい。
俺は束を指した。
橘さんも見た。
真白さんも見た。
母さんが、書類を裏返した。
「見えなくしても、あるからな」
今度は、俺が先に笑った。
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