「三枝さん。まさか、一人で行くつもりじゃないですよね?」
袖をつかむ指に、力がこもっていた。
行くつもりでした、と正直に答えるのはやめておいた。
カサネさんは、俺たちのやり取りを黙って見ていた。それから、スマートフォンを載せていない方の手を、さっきよりさらに高く上げた。
「僕、ここで待ってた方がいい? 手、上げたままの方がいい?」
「いえ、下ろして大丈夫です」
答えたのは相良さんだった。声は落ち着いていたけれど、俺の袖はまだ離してもらえない。
「身元を確認できるものは、持っていますか」
「これ」
大きな指が、甲殻の隙間から小さな袋をつまみ出した。中身は、透明なケースに入った怪人登録証だ。写真の角の形まで、本人とぴったり同じだった。
相良さんが端末で照会している間に、俺は頭上のドローンへ手を振った。
「すみません。お客様のお話になるので、撮影はここまででお願いします」
ドローンは迷うように一度揺れてから、高度を上げて離れていった。
カサネさんは、下ろしたばかりの自分の手を見ていた。
「……お客さん」
「はい」
「そう呼ばれたの、初めて」
相良さんが、登録証をカサネさんへ返した。
「登録は確認できました。依頼のお話は聞きます。でも、三枝さんだけでは行かせません。場所の確認までは、私も同行します」
ヒーローの護衛つきの見積もりは、俺も初めてだった。
会社に電話を入れると、母はすぐに出た。場所と依頼の中身を伝える間、受話器の向こうでボールペンの走る音がずっとしていた。
『持ち主の許可も確認してね。今日は見るだけでいいから』
「分かった」
『見積もりに行って、勝手に全部やってこないように』
返事が、一拍遅れた。
その一拍を、母は聞き逃さない。
『湊』
「やらない。見るだけ」
電話を切ると、隣で相良さんも自分の端末でライトハウスに報告を入れていた。誰と一緒か聞かれたらしく、「三枝さんの……はい、三枝環境サービスの三枝さんです。いえ、社長さんではなくて、息子さんの方の三枝さんで」と、三回くらい言い直している。
「三枝さんが二人いると、ややこしいですね」
「湊でいいですよ。会社でもそう呼ばれてるので」
「じゃあ……湊さん」
確かめるように一度呼んでから、相良さんは端末をしまった。
*
カサネさんの寝床は、駅から台車を押して十五分ほどの、使われなくなった工場の一角だった。管理人から借りている場所で、その管理人とも電話で話がついた。
『ああ、清掃屋さん。悪いね。この前、門の鍵を開けっぱなしにしちまってさ』
その数日の間に、誰かがごみを捨てていったらしい。
入口の引き戸の前に、曲がった金属の板が斜めに立てかけてあった。俺の背丈ほどもある。その横の隙間から中へ入ると、壊れた木箱と板切れが床を埋め尽くしていて、奥の壁際に、きちんと畳まれた毛布がひとつあった。
ごみの波は、毛布の手前でぴたりと止まっている。いや、止めたのだ。毛布のまわりだけ、ごみを押し退けた跡がついていた。
「僕、あそこで寝てたんだ」
カサネさんが角を低くして、天井の梁をくぐった。
「自分で片づけようとしたら、板にこれがついてたから。やめた」
金属板の裏に、黒い汚れがべったりと貼りついていた。その端に、大きな爪の跡が二つ。触らずに持てる場所を探して、見つからなかったのだろう。
「やめて正解です。これは俺が回収します」
「手についたら、毛布も汚れるし」
「はい。毛布が無事でよかった」
しゃがんで、黒い汚れに顔を近づけた。
怪人の残留物は、出した怪人によって色も匂いも少しずつ違う。駅前の看板についていたのは、赤錆を溶かしたような色で、焦げた鉄の匂いがした。
でも、この板の黒は違う。墨を何度も重ね塗りしたような、底の見えない黒だ。古い機械油の匂いが、鼻の奥につんと残る。
「カサネさん。これ、カサネさんのじゃないですよね」
「僕のは、灰色」
即答だった。ほんの少しだけ、むっとした声だった。
「失礼しました」
「ううん。間違えられるの、慣れてるから」
慣れなくていいことに慣れている人の声だった。
俺は黒い板の写真を一枚撮った。誰が捨てたのかは分からない。でも、この黒の持ち主は、カサネさんとは別のどこかにいる。
*
「残しておきたいものを、先に教えてもらえますか」
「毛布。あと、石」
壁の下に、小さな石が並んでいた。白いの。丸いの。少し透き通ったの。黒くてつるつるしたの。大きな爪が、触れないぎりぎりの距離で、ひとつずつ示していく。
「全部で、七個」
「七個ですね」
見積用紙を取り出して、できる範囲と時間を書き込んだ。入口と寝床のまわりを空ける。残留物を回収する。奥の古い機械には触らない。最後に、いちばん上の欄へいつもの四文字を書いて、カサネさんが読める向きに紙を回した。
太い指が、その四文字の上で止まった。
「これ、僕も捨てるって書いてある?」
清掃一式。
一式。ここにあるもの、一式。
毎日のように書いている言葉なのに、そう読めるのだと、言われるまで気づかなかった。
「いえ。カサネさんはお客様なので」
「ここにいるもの、全部じゃない?」
「違います。分かりにくかったですね。書き直します」
二重線を引いて、片づけるものの名前をひとつずつ書いた。金属板。木箱。散らばった破片。黒い残留物。その下に、毛布と石七個は残す、と書き足した。
「これでどうでしょう」
カサネさんは、長いこと紙を見ていた。それから、爪の先で余白を指した。
「もう一つ、書いて」
「はい」
「僕は、残す方」
ペンが止まりかけた。止めずに、書いた。
お客様は、残します。
大きな指が紙のいちばん下まで降りて、「石七個」のところを、爪のない側の指の腹でとん、と叩いた。
「うん。これなら、お願いしたい」
控えを渡すと、カサネさんは両手で受け取って、登録証と同じ袋にしまった。袋の口を二回折ってから、甲殻の隙間へ戻す。
なくさないようにしてくれている。俺も、石の並びをもう一度頭に入れた。
*
見るだけ、のはずだった。
母にもう一度電話をかけると、俺が何か言う前に、ため息が聞こえた。
『道具、積んでるんでしょう』
「……積んでる」
『二時間。超えそうなら電話。それと、相良さんにちゃんとお礼を言いなさい』
「まだ何もしてもらってないよ」
『するでしょう、どうせ』
電話が切れた。母の予想は、だいたい当たる。
今日は装備を使わなかった。普通の道具で足りる量だし、何より、この工場の中であの曲を鳴らしたら、カサネさんの石が棚から転がり落ちる気がする。
回収具の先を金属板の裏へ向けると、カサネさんが後ろから覗き込んだ。
「その缶に、板も入るの?」
「板は入りません。回収するのは、ついている黒いのだけです」
「じゃあ、板は?」
「あとで運びます。二人がかりで」
カサネさんは、俺の背丈ほどある板を見て、俺を見て、もう一度板を見た。
「僕、持てるよ」
「回収が終わったら、お願いしてもいいですか。端が曲がってるので、そこだけ気をつけて」
黒い汚れを吸い終えると、カサネさんは板の両端を指先でつまむようにして、ひょいと持ち上げた。ノートを一冊拾うくらいの軽さだった。
俺なら、相良さんと二人でも、まず持ち方の相談から始めるところだ。
「外の、右側の空き地へお願いします。管理人さんと決めた仮置き場です」
「うん」
カサネさんが板を立てたまま入口へ向かい、手前でぴたりと止まった。
板を見る。入口を見る。斜めに傾けると、上の角が鴨居に当たって、ごん、と鈍い音がした。
「カサネさん、一回手前に戻って、横を向いてください。俺もこの前、肩でやりました」
身体ごと横を向くと、今度は板も角も、するりと通った。
外から、低い声が聞こえた。
「入れる時も、こうしたのかな」
「捨てていった人がですか」
「うん。こんなに大変なら、ちゃんと持って帰ればよかったのに」
相良さんが、何か言いかけて、やめた。開いた戸口の向こうに立てかけられた板を見て、それから小さく息を吐いた。
「……本当に、そうですね」
俺もそう思った。それ以上うまい言い方は、たぶんない。
毛布と石は、カサネさんに頼んで先に外の日なたへ移してもらった。俺は木箱を畳み、破片を集め、床を掃く。相良さんはライトハウスへの報告を終えると、何も言わずに軍手をはめて、ちり取りを持ってくれた。母の予想が、また当たった。
奥の機械の陰を掃いていた相良さんが、手を止めた。
「湊さん。これ、石じゃないですか」
白くて平べったい、小さな石だった。床の色とよく似ていて、俺の位置からは見えなかった。
「カサネさん!」
呼ぶと、カサネさんが入口から角だけ覗かせた。相良さんの手のひらを見た途端、低い声が、一段大きくなった。
「それ、探してた」
受け取る時、大きな爪がきちんと内側へ引っ込められていた。
「ありがとう。白い人」
「相良です」
「相良さん」
「はい」
カサネさんは、石を両手で包んだまま、俺の方を向いた。
「八個に、書き直していい?」
「……はい。書き直します」
見積用紙の控えを出してもらって、七に線を引き、八と書いた。マスクの下で口元が緩みそうになるのを、どうにか引き結んだ。
*
最後に、引き戸を動かした。
途中で引っかかる。しゃがんで溝を見ると、小さな木片が挟まっていた。それを拾ってからもう一度引くと、戸は端まですっと滑った。
「閉まりますね」
カサネさんが隣にしゃがみ込んだ。俺が場所を空けると、自分でゆっくりと戸を閉める。
開けて、閉める。
もう一回、開けて、閉める。
それから中へ戻って、毛布を広げた。窓の下に石を並べて、ひとつだけ位置を直して、こちらを振り向いた。
「今日は、ここで寝ていい?」
「はい。もう大丈夫です」
カサネさんは頭を下げたまま、しばらく顔を上げなかった。
作業後の確認をしてもらうと、大きな指が、用紙の担当者欄に書いた俺の名前をなぞった。
「湊さんって、呼んでもいい? 相良さんが、そう呼んでたから」
「はい。どうぞ」
書類を袋にしまうと、カサネさんは今度はスマートフォンを取り出した。
「会社の名前、友達に教えてもいい?」
「はい。困っていることがあれば、まずお電話を」
「人間に頼んでもいいんだって、みんな知らないから」
俺は、道具を片づける手を止めた。
カサネさんは画面をこちらへ向けて、会社名の漢字が合っているか、一文字ずつ確かめさせてくれた。
「これで合ってる?」
「……はい。合ってます」
送信の印がついた。返事は、すぐに来た。
『ヒーローもいたのに、帰してもらえたの?』
相良さんが、横から画面を覗く。カサネさんは画面をじっと見てから、大きな爪で一文字ずつ打ち込んだ。
『石、見つけてくれた』
「そこなんですね」
相良さんが、小さく笑った。
次の返事が届く。
『僕も、会っていい?』
カサネさんが顔を上げた。甲殻の表情はまだよく読めないけれど、二本の角が、さっきより上を向いている気がした。
続けて、もう一通。
『うちの寝床にも、黒いの置いていかれた』
相良さんの笑顔が、すっと消えた。
俺は、ポケットの中のスマートフォンを握った。さっき撮った、あの真っ黒な板の写真が入っている。
「……今日は、まずお話を聞くところまででお願いします」
母に言われたのとそっくり同じ台詞になっていたことに、言ってから気づいた。