昨日、俺が拭いた床に、黒い筋がついていた。
「ここも、お願いしたつもりだったんだけどねえ」
荷さばき場の管理人さんが、奥の壁際を指した。金属の板が何枚も重ねて立てかけてあって、その下から、黒いものがじわりとはみ出している。
朝いちばんに電話をもらって、道具を積み直して飛んできた。電話口の声は怒ってはいなかったけれど、どこか残念そうだった。そういう声の方が、怒られるよりこたえる。
「すみません。少し見せてもらえますか」
「ああ。こっちにもあるんだよ」
管理人さんが奥へ歩き出そうとしたので、慌てて手を出した。
「その手前で、止まってください。靴につくと、外まで持っていってしまうので」
入口にコーンを二つ並べて、管理人さんにはその外側に立ってもらった。保護面を下ろし、黒いところを避けながら、板の手前にしゃがむ。
床の黒い筋は、入口の方から奥へ向かって伸びていた。その横に、昨日はなかった引きずり傷が一本、並んで走っている。
スマートフォンを出して、昨日の作業後の写真を開いた。
清掃屋の写真フォルダは、だいたい床でできている。終わった現場は必ず撮る。あとで「ここもやったっけ」と聞かれた時に、俺の記憶よりずっと頼りになるからだ。
同じ壁。同じ黄色い枠線。枠の隅に、どうしても落とせなかった古い塗料の跡。
そしてその先の床には、何も置かれていなかった。
「管理人さん、こちらを見てもらえますか。黒いところは踏まないように」
管理人さんが、俺の足跡をなぞるように近づいてきた。画面を見せると、眼鏡を額に押し上げる。
「これ、昨日の?」
「はい。終わった時の写真です。この黄色い角のところ」
管理人さんは、画面と床を何度か見比べた。それから、立てかけられた板に顔を向けた。
「……この板、なかったか」
「昨日、俺が帰る時には」
「隣の建物が工事中でね。向こうの業者さんに、鍵を一本預けてあるんだよ。朝早く荷物が届くこともあるから」
板のいちばん下の一枚は、角が欠けていた。その欠けた端に黒いものがこびりつき、床の筋へとつながっている。板の横には、昨日はなかった木箱が二つ。箱の底の角からも、黒いものが垂れていた。
「片づけたあとで、これを運び込んだみたいです」
「業者さんに聞いてみるよ。悪かったねえ。取り残しだと思っちゃって」
「見たら、俺もそう思います」
管理人さんはその場で電話をかけた。俺は板の端、箱の底、門まで続く引きずり傷を順に撮って、昨日の写真と一緒に会社へ送った。管理人さんの了解をもらって、相良さんにも送る。
電話を終えた管理人さんが、首をかしげて戻ってきた。
「工事の人のじゃないって。解体屋さんに『二、三日だけ預かってくれ』って頼まれて、ここに置いたらしい」
「解体屋さんの名前は」
「名刺も置いていかなかったってさ。白いトラックで来た、としか」
白いトラック。
頭の隅に貼っておいたメモが、端からめくれかけた。
*
スマートフォンが鳴った。母だった。
『今、何か言いかけてない?』
「まだ何も言ってない」
『料金の話は、こっちで先にするから。管理人さんに代わって』
なぜ分かるのだろう。俺はたしかに今、「今日の分は大丈夫ですよ」と言いかけていた。
電話を渡すと、管理人さんは何度か頷き、途中で俺の台車にちらりと目をやった。
「ああ、うん。そうだよね。新しく持ち込まれた分なんだから。……いや、私もさっきは、取り残しだと思っちゃってね」
戻ってきた電話の向こうで、母が淡々と続けた。
『板は動かさない。持ち主に確認が取れてないから。回収できる分の残留物だけ。向こうの了解は取れた』
「分かった」
『それと、門の外の草は別料金』
門の方を振り返った。台車の車輪に絡みそうな雑草が、何本か伸びている。
「……見えてる?」
『昨日の写真に写ってる』
俺はスマートフォンを伏せかけた。今さら伏せても遅かった。
*
相良さんが来たのは、板の下に回収具を差し込んでいる時だった。今日は白い装甲ではなく、ライトハウスの紺色の上着を着ている。
「こんにちは。ここですね」
「はい。昨日の写真だと、何もなかったところです」
相良さんは管理人さんから話を聞いたあと、床に目を落とした。奥へは、一歩も踏み込まなかった。
「湊さん。実は、今週に入ってから、空き家や倉庫に残留物を置いていかれたという通報が、市内で六件あるんです」
「六件」
「全部、夜か早朝です。それから、全部……」
相良さんが、板の下の黒を見た。
「この色です」
カサネさんの工場。カサネさんの友達の寝床。昨日のここ。そして今日。
俺の知っている分だけでも、四か所。相良さんの言う六件に、たぶん全部入っている。
「残留物を処理するには、お金がかかります。正規の業者に頼むと、量によってはかなり」
「はい。うちも、ちゃんと処理場に持ち込んでます」
「だから、引き取るふりをして料金だけもらって、空いている場所に置いていく人たちがいるんです。今回のは、手口がそれに近いと思います」
相良さんの声は静かだったけれど、上着の袖口を握る手に、力がこもっていた。
片づけるふりをして、別の場所に置いていく。それは掃除じゃない。ごみを、誰かの寝床に移しているだけだ。
板の持ち主については、管理人さんを通じて相良さんが連絡を取ることになった。電話の向こうの解体業者は、残留物の話をしても「荷物を勝手に動かすな」の一点張りだったらしい。
「動かさないでほしい、ですか」
「荷物の場所が分からなくなるから、だそうです」
相良さんは、板の下から出ている黒いものを見た。
俺も見た。その荷物の下から、黒いのは出ている。
「分かりました。こちらからも話します。それまで、板と箱には触らないでください」
俺は板の外へ落ちた分だけを、端から回収した。管の先を動かすたびに、床の黒い筋が短くなっていく。残った砂と小さな金属片は、ほうきでちり取りへ。管理人さんが空の袋を広げて待っていてくれた。
それから、板の周りを広めに囲って、門から受取窓口までの通路を作った。管理人さんに台車を押してもらって、角を曲がれる位置までコーンをずらす。奥は使えなくても、荷物の出し入れはできる。
さっき引き返していった配達の人が、戻ってきて荷物を下ろし始めた。
俺は空いた床を、もう一度撮った。今度は、囲った板も同じ写真に入れて。
「前の状態の写真があって、助かりました」
相良さんが、隣で言った。
「帰ってから、どこまでやったか分からなくなるので」
「湊さんが、ですか?」
「一回、違う現場の写真を会社に送ったことがあるんです」
相良さんが、俺の顔を見た。俺は日付と場所をもう一度確かめてから、送信を押した。
*
道具を積み終える頃、管理人さんが門のところで手を振った。
「草の方も、今度見積もり頼めるかな」
俺は門の外の雑草に目をやった。今なら、道具を下ろせば十分で終わる。
「……社長に、伝えておきます」
相良さんが、俺の横で小さく笑った。
車に乗る前に、門の外の地面に目がいった。
乾いた土の上に、太いタイヤの跡が残っている。その溝に、うっすらと黒いものが詰まっていた。
跡は門を出て、町工場の並ぶ通りを抜けて、川の方へ曲がっていた。