「湊さん。もう一回しゃがんでもらえます?」
「はい」
「そのまま、こっちを見てください」
雑巾を持ったまま顔を上げると、カメラの後ろで律さんが首をかしげた。
「……やっぱり、こっち見ない方がいいですね」
顔の向きを戻した。顔に、何か問題があったのだろうか。
荷さばき場から戻った午後、会社の玄関で仕事紹介の撮影をしていた。昨日、律さんに現場へ同行してもらったので、今日は足りない説明の部分を撮る。そういう段取りだった。
律さんが、カメラの画面をこちらに向けた。
「これだと、汚れが見えないんです」
画面の真ん中に、俺の膝があった。その上に、床を見下ろす俺の真剣な顔。雑巾は、画面の端にかろうじて映っている。
「すみません。邪魔でしたね」
「いえ、立ってもらうと今度は床が遠くなるので」
立ちかけた腰を下ろした。律さんも、俺に合わせてしゃがむ。
「ここから撮ったら、どうですか」
俺は脇へずれて、床の汚れを指した。律さんがそこにカメラを据える。俺は手だけを伸ばして、汚れを拭いた。
「これなら見えますか」
「手は見えます。……顔が、ものすごく近いです」
画面を確認しようとして、俺までカメラを覗き込んでいた。
*
「じゃあ、最初の挨拶だけ別に撮りましょう」
律さんが三脚を伸ばした。ようやく立ってもいいらしい。
「今日は、僕が掃除を教わる形にしますね。湊さんは先生役で」
「教えられるほどじゃないですけど」
「大丈夫です。僕、さっき玄関の砂をいきなり雑巾で拭こうとして止められたので。生徒としての資格はあります」
マットに残っていた砂を、拭く前に取っておきましょう、と言っただけだ。
録画が始まった。カメラに向かって頭を下げ、会社名と名前を言う。普段の建物の清掃と、怪人残留物の回収について、短く話した。
「お部屋の片づけも、ご相談ください」
そこで律さんが、片手を上げた。
「すみません。後ろ、何が入ってます?」
「道具の棚です」
「一回、見てもらっていいですか」
画面の中の俺は、両肩から長い柄を生やしていた。ほうきとモップだった。右の耳の横からは回収缶、左の脇からは巻いたホース。
悪の組織の、量産型の何かみたいだった。
「……棚、閉めます」
扉を閉めかけたところで、棚の下の段にしゃがんでいた母が顔を上げた。
「今、私までしまわなかった?」
「すみません」
扉を開け直すと、母が書類を抱えて出てきた。律さんがカメラを下ろして、口元を押さえていた。
「今のは、使わないでください」
「使いません。仕事紹介なので」
挨拶を撮り直して、今度は手元の撮影に戻った。マットをめくって、裏の砂を見せようと持ち上げる。砂がこぼれそうになって、慌てて床に戻した。
「持ち上げる前に、下に新聞を敷いた方がいいですね」
「今の説明、自然でいいです」
「今、本当に危なかったので」
新聞紙を広げるところから撮り直した。今度はマットの裏も、集めた砂も、ちり取りもちゃんと映った。俺が仕上がりを確認しようと立ち上がったところで、律さんが言った。
「先生だけ、画面の外へお願いします」
「はい」
ほうきを持って、画面の外へ出た。
「ほうきは残して!」
戻した。
画面の端から、俺の腕だけが伸びている。
「いいです。そのまま、今の説明を」
「三枝環境サービスの――」
「そこからじゃなくて大丈夫です」
*
夕方には、使える映像が揃った。律さんが事務所の机にパソコンを置いて、昨日の荷さばき場の分と並べていく。
広告の確認がてら様子を見に来た灯也も、母の淹れたお茶を片手に、俺の後ろから画面を覗いていた。
清掃前の荷さばき場。床を拭く手元。台車を通して、幅を確かめているところ。
「あれ。昨日は、こんなに普通なのに」
律さんが首をひねった。
「何がですか」
「いや、何でもないです」
昨日の俺は、撮られていることを忘れて、普通に働いていた。そっちの方がいいなら、最初からずっと仕事をしていればよかったのかもしれない。
片づけた床を撮ったあと、カメラは門の方を向いていた。俺が台車を車に積んでいる間の、ただのつなぎの映像だ。
その画面の奥を、白いトラックが横切った。
「すみません、そこ、少し戻してもらえますか」
律さんが再生を止める。トラックは門の手前で曲がり、荷さばき場の脇へ入っていった。
荷台の後ろに、赤い斜線が三本。
「この車、昨日来てたんですね」
「ええ。搬入みたいだったので、邪魔にならないように移動したんです」
映像が揺れた。律さんがカメラを持ち直したらしく、少し高い位置から、門の向こうが見えるようになる。
荷台の扉が開いた。男が二人、重ねた金属板を下ろしている。いちばん下の一枚は、角が欠けていた。
「これです」
俺はスマートフォンを出して、今朝撮った写真を開いた。床に立てかけてあった板。欠けた端と、そこにこびりついた黒いもの。
画面の中で、男たちは板を小さな台車に載せ、そのあとに木箱を二つ続けた。
「今朝、この荷物がありました」
「……昨日、そこ片づけましたよね」
「はい。俺が帰る準備をしている間に、来てたみたいです」
律さんが、もう一度その少し前から再生した。トラックの赤い三本線と、荷物を下ろすところが、ひとつながりの映像に収まっている。途中で、俺の声も入っていた。
『道具、全部積みました。律さん、大丈夫ですか』
『はい、今行きます』
撮影は、そこで終わっていた。
背中の後ろで、湯飲みを置く音がした。
振り返ると、灯也が画面を見ていた。お茶にはほとんど口をつけていない。
「灯也?」
「……いや。悪い。続けて」
灯也はそう言って、もう一度画面に目を戻した。止まったままの映像の、トラックの荷台の、三本の線に。
律さんは気づかずに、映像を少しずつ送っていた。ナンバープレートが一瞬だけ読める場面で、もう一度止める。
「相良さんに、これを見てもらいたいんですが」
「もちろん。切っていない元の映像も、別に残しておきます」
律さんは映像を複製して、仕事紹介用とは別のフォルダに保存した。
「これは、会社の動画には入れない方がいいですよね」
「はい。まだ、どこに出す話でもないので」
*
相良さんは、電話で事情を聞くとすぐに来てくれた。映像を見ている間、一度も画面から目を離さなかった。ナンバーの見える場面で、自分の端末に何かを打ち込む。
「確認できます。ありがとうございます」
撮った時刻。撮影していた位置。俺たちが帰った順番。相良さんに聞かれたことに、律さんと二人で答えた。分からないところは、分からないと言った。
その間、灯也は一言もしゃべらなかった。
夜になって、相良さんから連絡が来た。
『ナンバー、照会できました。今週の六件のうち、少なくとも三件の近くで、同じ車が目撃されています』
「そうですか」
『登録は小さな解体会社です。ただ、事務所の住所に行ったら、空き店舗でした。トラックがどこに出入りしているのかは、まだ分かっていません』
俺は、今日の帰りに見た、門の外のタイヤの跡を思い出した。川の方へ曲がっていった、あの跡。
「荷さばき場の門の前から、川の方へ跡が続いてました。役に立つか分かりませんけど」
『十分です。周辺を当たってみます』
電話を切ってから、律さんが仕上げた会社紹介の動画を、母と一緒に見た。
最初に俺が挨拶をして、そこから先は道具と床と手元がよく映っていた。玄関の砂がなくなり、マットが元の位置に戻る。最後に会社名と、大きな電話番号。
「これなら、何を頼めるか分かるね」
母が頷いた。俺の顔は、最初の五秒くらいしか出ていない。いい動画だと思う。
スマートフォンが震えたのは、その時だった。灯也からだった。
『今夜、そっち行っていい?』
すぐに、もう一通。
『先に、聞いてほしいことがある』