波紋が生まれた。
音声情報が届いた。
『それ』が生まれた。
「君は、佐久間まゆだよ」
佐久間……まゆ? それは何だろう。現在持っている情報を参照しても、その存在は認識できない。
「君と言う存在は、佐久間まゆと言うんだ」
「私が、佐久間まゆ、ですか?」
再び届いた音声情報。それにあわせて、私の存在は定義されていく。
佐久間まゆ。
宮城県仙台市出身の十六歳の少女。誕生日は九月七日、趣味はお料理と編み物。
一目惚れした■を追って、都会に出てきた恋する少女。
アイドルのプロデューサーである■の傍にいるために、自身もアイドルとなった。
まゆが『佐久間まゆ』として目覚めました。
目の前は真っ黒な世界。手を伸ばしても何もなく、ただ混じり気のない黒だけが広がっています。
時折、遠くで光が瞬きますが、すぐに消えてしまいます。
まゆは、どこに居るのでしょうか?
プロデューサーさんは、どこに居るのでしょうか?
「さあ、おいで」
また、声が聞こえてきます。それに応じて、世界が更新されました。
黒い海は消え、殺風景な部屋の中に一人の人間が居る視覚情報が入ってきます。
「見えるかい?」
『はい』
音声情報は出てきません。かわりに、付箋のようなウィンドウにまゆが言いたかった言葉が映し出されます。
『まゆの、声は?」
「ごめんよ、音声情報のサルベージは終っていないんだ」
人間は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げます。
どうしてでしょう。その姿を見ると、まゆの演算領域にノイズが走ります。ざわつく……まるで、心がざわつくような。
心? 心とは、なんでしょうか?
『そうですか……』
言葉を出すけれど、顔を伏せたあの人には伝わりません。また、まゆの演算領域……思考回路と定義された場所にノイズが走ります。
「さて、いつまでもこうしている訳にはいかないか」
顔を上げると、あの人はまゆを真っすぐに見つめます。
「もう気が付いているとは思うけれど、今の君の体は、以前の『佐久間まゆ』のモノとは違う」
『そうなんですか?』
よくわかりません。
「いや、以前にも君の体があったかは分からない……まあ、それは今の君にはあまり関係がないか」
わざとらしく咳払いすると、あの人は部屋の隅を指示します。
「入出力デバイスをあそこに移動させるんだ。そうすれば視界も変わるはずだ」
デバイス。言われてすぐには理解できませんでいた。すぐにインストール済みの情報を収集すると、操作方法が更新されました。
『こうですね』
まゆの視界が動きます。映像情報を更新すると、大型の筐体の隣に立つあの人が見えました。きっと、あの筐体は、さっきまでまゆが居たところでしょうか。
「次に、立体映像を表示して欲しい」
言われたように実行します。すると、まゆの姿が部屋の中に浮かびました。
『これが、まゆですか?』
「そう、キミは、佐久間まゆだ」
まゆは、『佐久間まゆ』。
「佐久間まゆと言う存在のアーカイブから再現した、『佐久間まゆ』と定義された存在だ」
『佐久間まゆ』と手議された存在。
数世代前、地球には『佐久間まゆ』と言うアイドルが居たそうです。
華やかなステージで歌い、ファンの人たちに愛を伝える一人の少女。その存在は情報として遥か未来にも残っています。
あの人は、それを再現してみたそうです。
それが、今のまゆ。
電子頭脳で思考パターンを再現され、ホログラムだけで実態のない、まだ不完全な『佐久間まゆ』です。
まだ、この世界について何もわかりません。
けれど、まゆは存在していてよかったと思っています。
だって、生まれた初めて見た視覚情報。『あの人』の、解放されたかのような笑顔。それが見れただけで、まゆの思考回路はエラーを生んだからです。
でも、なんでエラーが生まれてよかったと思うのだろう?
まだわからないことばかりです。
◇◇◇
まゆが生まれた部屋には、ガラス張りの大きな窓がありました。
そこから見えるのは、小さなお庭と海。残念ながら、芝生は枯れていてあまり見栄えは良くないけれど、よせてはかえす波は見えていて飽きません。
「まゆは、海を見るのが好きかい?」
そうしていると、ときどきあの人が声をかけてくれます。
『はい。プロデューサーさんは、嫌いですか?』
「まゆ、僕はプロデューサーじゃないよ」
『あ、ごめんなさい』
いけない。つい癖でプロデューサーさんと言ってしまいます。あの人……まゆが生まれて初めて見た人は、プロデューサーさんと呼ぶと悲しそうな顔でそうやって否定します。
どうしてか分からない。だけど、悲しい顔は見たくない。だから、まゆはプロデューサーさんと呼ばないようにしています。
海の果てから日が昇り、灰色の空と海を照らしてまた沈む。
あの人となんともないお話をしながら、そうして日々を過ごしていく。
時々、あの人は端末から過去の情報を探して、まゆに教えてくれます。
まゆがどういう存在だったか。まゆがどんな世界で生きていたのか。
それを聞いているだけで、まゆは満足でした。
◇◇◇
ある日のこと、あの人は興奮しながら部屋に入ってきました。
「まゆ、音声データが見つかったぞ!」
音声データ? それって、まさか――
「これで、まゆも喋れるようになる!」
『本当ですか?』
正直に言うと、喋れるようになるメリットが分かりませんでした。今でも、文字で意思の疎通は出来るのに。
でも、あの人が喜んでいる顔をみると、まゆもうれしくなります。
あの人は、まゆに確認するとすぐにデータの更新を行います。
そして、まゆの中で何かが書き換わりました。
「聞こえ……ますか?」
恐る恐る、声を出す。おかしくないでしょうか。大丈夫でしょうか?
「ああ、聞こえるよ」
あの人は、満面の笑みで答えてくれました。
それだけで、よかった。
「いい声だよ」
「イイ声、ですか?」
言葉に、ノイズが混じります。
「え……」
途端に、あの人の顔が固まります。
「ア……アれ、なにか変ですかァ?」
一部の音声が正常に再現できない。どうしてだろう……データが破損していたのかもしれない。
「まゆ……」
悲しい声と悲しい顔。
「ア……の……ア……イ……」
出てきた音声情報は、不快なノイズ。聞くに堪えない、こんなの、聞いていたくない。
『ごめんなさい』
まゆは、声を出すことができませんでした。
◇◇◇
声をきっかけに、違和感は広がっていきました。
『まゆは、お料理が得意でした』
そう、『佐久間まゆ』はお料理が出来ました。
『でも、今はフライパンを持つこともできません』
実態のないまゆには、それが出来ません。
「そうだね」
『それでも、まゆはまゆなのでしょうか?』
疑問に答えてくれる人は居ません。
問いかける度に、あの人は悲しい目をします。
その度に、まゆの演算回路はエラーを吐き出します。
最初とは違う、嫌なエラーです。
どうしてでしょう?
これは、何なんでしょう……
考えて、すぐに答えは出ました。
まゆは、あの人に笑ってほしい。
だって、『佐久間まゆ』は恋をしているから。好きな人には、安らかでいて欲しいから。
そして、好きな人を愛し、愛されていたいから。
じゃあ、まゆはどうすればいいのでしょうか?
これも、すぐに答えは出ました。
『佐久間まゆ』になること。振り向いてくれるような素敵な人になることで、あの人の心を取り戻したい。
あの人が求めていたのは、『佐久間まゆ』です。悔しいけれど、まゆはまだ『佐久間まゆ』ではありません。
『佐久間まゆ』は、かつての世界に存在したかもしれないアイドルです。
まゆは、アイドルではありません。それどころか、人間でもありません。
人間になることは無理です……それは、変えようのない事実です。
でも、アイドルはどうでしょうか。
そう、より佐久間まゆに近づくには、アイドルにならないといけません。
アイドルを、アイドルたらしめる存在は何か?
それは、ファン。色々と他にもある気はしますが、まずはそれです。
そう決めた時、まゆは行動を開始しました。
きっと、『佐久間まゆ』がアイドルになるために仙台を飛び出した時も、同じ気持ちだったはず。
ふふ……だったら大丈夫ですね。
今、まゆは『佐久間まゆ』と同じ気持ちなんですから。
『まゆ、少しだけ旅に出てきます』
その問いかけに、返事はありませんでした。