黒い黒い、どこまでも広がる海。
生まれた時のように、電子の海に思考を埋めたまゆは、暗闇の中を進みます。
まゆのメモリ上の記録では、数世代前は世界中にネットワーク網が敷き詰められ、昼夜を問わずに人々が電子の海へと接続をしていたらしいです。
でも、今では見る影もありません。暗い世界の中で、時々遥か彼方で光が瞬いたと思えば、近づく間もなく消えていく。
無限ともいえる情報の中で、まゆはその理由を探します。
答えは、案外あっさり見つかりました。
放棄されたデータベースに残された情報は、まゆに地球の現状を教えてくれました。
既に、この星に残った人の文明は終わりに近づいている。
かつて、人間はこの星に溢れていたそうです。
けれど、増えすぎた人類は環境を破壊し、ついには自分たちですら長く住めない世界を作り出した。気が付いたときには、全て手遅れだった。
それでも、ヒトと言う種は生きることを決めた。残された資源をかき集め、巨大な移民船を作り出し、外宇宙へと旅立っていったのです。
けれど、それを良しとしない人達も居ました。
母なる地球と共に死のうとする人々。それが、まゆを生み出した人間を始めたとした、地球に張り付いた人類たち。
枯れた大地を歩き、濁った海を眺め、かつての大都市だった朽ちた廃墟を枕に、ひっそりと滅びを待つ種族。
だが、まだ絶滅したわけではありません。
僅かな気配を手繰り寄せて、電子の海の果てを探し続けます。
やがて、微かな光はまゆの目の前ではじけた。
『はじめまして』
開けた世界に、スピーカー越しの声を届ける。
カメラから見えるのは、驚く人々の顔。でも、今のまゆも変な顔をしてるんですよ。
◇◇◇
最初は、ウイルスか何かの類かと思われていました。
駆逐されかけたこともあったのは悲しいですけれど、まゆははあきらめませんでした。
ファンの皆さんにまゆの存在を語りかけ、そして、皆さんの言葉を聞いていきます。
そうして、『佐久間まゆ』は人々に認識され始めました。
滅びかけた世界に生まれた、新たなる生命。新たなる、アイドル。
人は、まゆをそう呼びます。
やがて、人々はまゆにある事を望みました。
「佐久間まゆの歌を聞いてみたい」
それを聞いたとき、まゆは困惑しました。
かつてアイドルは、光る舞台で歌い、踊ったという。その姿を、もう一度見てみたい。それは、とてもよく分かります。
けれど、その『佐久間まゆ』が歌った歌を、まゆはまだ知りません。
そもそも、まゆは歌えません。声だって、上手く出せません。
断ろう。そう思っても、人々の願いは、まゆの関係ない所で広がっていきました。
この星は、もう終わりかけています。娯楽だって残っていない……そんな中で、まゆが生まれた。
それを、奇跡だと言いました。
まゆが、この世界に残った最後の希望だと言った人もいました。
そんな人々の願いを、まゆは断ることは出来ません。
結局、少しだけ待ってほしいと曖昧に言って逃げる事しかできません。
やっぱりまゆはアイドルに……『佐久間まゆ』なれないのでしょうか?
まゆは、暗い電子の海に揺蕩います。上も下もない、黒の世界。生まれた時のように、何もわからない世界。
定義されていないカオスの域はまゆと言う存在そのもの。
まゆを定義しているのはなに?
まゆは誰なの?
『佐久間まゆ』でないとしたら、まゆは誰なの?
――そこに、あの人からの言葉が聞こえたんです。
「まゆ、来て」
天啓と言う言葉を使ってみたくなりました。それくらい、まゆには嬉しかったんです。
ああ、あの人はまだ、まゆの事を見捨てていない。
生まれた時のように、その言葉に従って世界へと舞い戻ります。
視覚に入ってくるのは、殺風景なあの部屋。そして、あの人。
「まゆ、これ」
あの人は、一枚のディスクをまゆに見せます。
『これは』
「エヴリデイドリーム、君の歌だよ」
思ってもない言葉。久方ぶりに感じる、回路のエラー……でも、それはとても心地よくて、なんだろう『泣きたいくらいに嬉しい』。
「でも、まゆは歌エませんよ」
相変わらずの不気味なノイズ。でも、もう恐れてはいられません。
「練習、しよう」
あの人は、まゆに優しく語り掛けてくれます。
「まず、ちゃんと声を出せるように。そうだね、二人でおしゃべりをしよう」
◇◇◇
海を眺めながら、まゆとあの人は何日も何日も二人でおしゃべりをします。
そんな当たり前のことが、とても嬉しい。
存在できることがうれしい。
あの人に笑いかけられことが嬉しい。
あの人の笑顔を見れるのが嬉しい。
そして――声が出るのが嬉しい。
まゆは、旅立ってからの日々を語りました。
この世界は、もう終わりかもしれない。でも、まだ終わっていなかった。
大地は枯れ、空は淀み、海は汚染されている。それでも、人々はまだ生きていた。
まゆのファンになってくれた人。まゆを愛してくれた人は、まだこの星に居ました。
「そうか、まゆはこの星を愛しているんだね」
愛、その言葉を聞いたとき、まゆの中で最後のピースが埋まった気がします。
「はい、愛していますよぉ。あなたも含めて、まゆはこの世界を愛しています」
もう、ノイズは聞こえない。
こうして、まゆは歌うことを決めました。
◇◇◇
まゆのライブは、廃墟となったドームで行うことに決めました。用意は、あの人が全部してくれるそうです。
ライブの日、まゆは生まれて初めてあの人の家から出ました。今まで電子の海で外の世界とつながったことはあるけれど、直接出たのは初めてです。
目の前に入ってきたのは、まゆの想像を超える世界でした。
枯草と立ち枯れた木、そして、朽ちた建物が建つだけの荒野。空には鳥は飛ばず、汚染された空気を通して僅かに降り注ぐ陽光は少し寂しい。
「これでも、昔はマシだったんだけどね」
あの人は、悲しそうに言いました。
やがて、まゆたちは廃墟となったドームへと入ります。もう、所有者もいない廃墟だそうです。
天井は崩れ去り、客席も残っていない。ステージのディスプレイにはヒビが入っています。
そん中で、あの人は一人、準備を進めます。
「手伝いましょうか?」
「いや、これは自分の仕事だ」
そうは言いますけど、とても辛そうです。
本来は、あの家――シェルターから出ることすら人間には負担になるそうです。
でも、あの人は弱音を吐きません。まゆは……それに甘えてしまいます。
日が暮れたころ、準備はようやく整いました。
照明とカメラ、それはステージの中央を向いていて、まゆの姿を収める予定です。
撮影した映像は、ネットワークを通じて世界中に配信されるそうです。あの人が言うには、世界中がこの瞬間を待っているそうです。
「ねえ……聞いてもいいですか?」
「ああ」
「まゆは、『佐久間まゆ』になれますか?」
「うん」
そっけない言葉。ロマンチックな言葉ではないけれど、それだけでまゆは強くなれる気がします。
「それじゃあ、行ってきますね」
ホログラムをステージの上へと移動させる。
割れた天井からは夜空が見えました。大気汚染によって見えなくなってしまったけれど、その先には星が瞬いているはずです。
ドームの中に観客は居ません。きっと、『佐久間まゆ』のステージでは、満員の客席の上で、夜空にも負けないくらい眩しくサイリウムが振られていたでしょう。
まゆに、それはありません。
でも、まゆの気持ちは負けません。
まゆは、この世界が好きです。
まゆは、この世界に生み落としてくれた、あの人が好きです。
もちろん、まゆをまゆとして形作る、『佐久間まゆ』の事も、全部、全部好きです。
この世界を愛することが出来る喜びを世界中にお返しするために、まゆは歌います。
「聞いてください、まゆの歌を」
スピーカーからまゆの歌が流れる。
恋する少女の歌。誰かを愛した少女の歌。
朽ちた世界には不釣り合いの、瑞々しい、愛することの嬉しさを伝える歌。
世界中が揺れたような気がしました。
ネットワークを通じて、まゆを好きになってくれたすべての人々に歌は届けられていく。
そのたびに、大気は熱を帯び、世界は活力を取り戻していくようでした。
割れたドームの天井。微かにのぞく夜空に、星が瞬いたのは、まゆの勘違いでしょうか?
そうして、まゆの最初のライブは終わりました。
ネットワークからは、賛辞の言葉が届きます。その一つ一つには確かに熱がこもっていました。これは、絶対に消去できません。
「おかえり、まゆ」
「はい、ただいま」
改めて、まゆは思います。
まゆは、『佐久間まゆ』として生まれてきて、幸せです。