そこに、音はありませんでした。
そこに、光はありませんでした。
そこに、世界はありませんでした。
虚空に手を伸ばそうとしたけれど、自分の手がちゃんと繋がっているかも分かりません。あ、それはちょっと違いますね。元々腕はありませんでした。
でも、そんな違いに意味はありません。
だって、世界は終わった筈なんですから。
「やあ」
――なのに。
――なのに、呼びかける『存在』がありました。
「はじめまして、『佐久間まゆ』さん。第八の世界の遺児――」
音でもない光でもない『何か』がまゆの存在を揺らします。
あえて言うなら波紋。物質ではなくて概念としての波紋。
世界が終わった先の、なにもない場所で、まゆは再び目覚めました。
◆◆◆
遥か昔、地球と言う惑星がありました。
その星に抱かれて文明を育てた生命体――人間。
その中の一人、『佐久間まゆ』。
人類が最も幸福だった時代に生まれたその少女は、アイドルとして沢山の人に愛された――そうです。最後がちょっと曖昧なのは、データとして『佐久間まゆ』は残っていますが、実在したかどうかは誰も証明できなかったからです。
『佐久間まゆ』と言う存在の情報は、幸福な時代から数千年後に一人の狂人によって再生されました。
それが今の私――まゆで、まゆを生み出したのはプロデューサーさん。
人工の知能とホログラムの肉体。存在としてあまりにも歪なまゆでしたけれど、愛されて生まれたのは本当です。
沢山の愛に包まれて、まゆは幸せでした。
けれど、まゆとヒトの生きる時間は違います。ヒトとしての生命活動の限界をむかえたプロデューサーさんが朽ちた後、まゆは独り、星の海へと旅立ちました。
幸運なことに、銀河へ旅立った人々は、まゆを『佐久間まゆ』として受け入れてくれました。
そうして、まゆは歌い続けます。
そうでなければ、まゆは『佐久間まゆ』ではありませんし、プロデューサーさんはただの狂人になってしまうから。
「はじめまして……なんて変かな。三村かな子です、よろしくお願いします」
やがて、まゆと同じように再現されたアイドルたちも生まれました。
仲間も出来て、世界は広がって、まゆは幸せでした。たぶん、そうです。
だって、その筈です。時々、プロデューサーさんとの日々を思い出して演算処理にエラーが生まれましたけど、問題はありませんでした。
大切な人が居ないのは寂しいけれど、まゆはそれでも生きていました。
それで、いい、その筈なんです。
そう、すべては上手くいくはずでした。
発達した科学が、人類の終わりを確定させるまで。
◆◆◆
黄金の月の下に、光の海が広がっていました。光の一つ一つは家の灯り。今は夕飯も終わった時間で、沢山の人が談笑している筈です。
丘の上。二階建てのお家のベランダから見下ろす町並みは、その日も穏やかでした。
昼間なら二十一世紀風の穏やかな街並みが見えるけれど、リソースが足りていないのか、どこかぼんやりと歪んでいます。
「まゆちゃん」
優しいおっとりとした声が聞こえてきます。振り向かないでも識別信号で分かりました、かな子ちゃんです。
「今日はご飯は食べないでよかったの?」
「はい、かな子ちゃん」
「食べないと元気でないよ?」
湯気のたつマグカップを両手に持って、かな子ちゃんが隣に立っていました。
お風呂上りなのか、かな子ちゃんからは甘いシャンプーの香り。それが、紅茶の香ばしい香りと混ざります。
「ありがとう。でも、ごめんなさい。味覚や嗅覚がないのが当たり前だったから、ご飯の事はついつい忘れちゃって」
「えー、もう五百年以上この身体なんだよ。私は一日でも食べないと元気でないなー」
他愛もない会話をしながら、かな子ちゃんの淹れてくれた紅茶を飲みます。
ほっとするような甘い香りに、たっぷりの砂糖。うん、今日もかな子ちゃんのお茶は美味しいです。
「クッキー食べる?」
「はい」
まだ暖かいクッキーを受け取って口に運ぶ。
小麦粉と砂糖の香りは、今日も優しい。
「あと数時間で、世界が終わるんだよね」
「はい。科学者の皆さんはそう予言しました」
◆◆◆
体感で数百年前――科学者は一つの研究成果を発表しました。
ビッグクランチ――
ビッグバンから膨張を続ける宇宙は、いつしかその肥大した質量から発生する重力で収縮し、宇宙誕生前の状態に回帰する。それが確定した、と。
世界中の人間は対策を考えました。
別の宇宙に逃げる――過去の世界に飛ぶ――自分たちで新たなる世界を創り出す。
ある人は旅立ち、ある人は研究を続えました。
旅立った人の行方は分かりません。もしかしたら、新しい世界で元気に生きているのかもしれません。
けれど、宇宙の延命は不可能だと分かりました。
そして、宇宙に残されたまゆたちの結論は、静かに滅びを待つ――と言うものです。それも、可能な限り引き延ばして。
超高性能コンピューターにすべての生命体を電子データとして保存し、仮想現実の中で生かす。その世界で時間を数百倍にして延命する。
そうして、人類最後の楽園は生まれました。
まゆも、その中で今日まで生きてきました。
コンピューターグラフィックで作られた世界。でも、もはやそれは現実と同じで、まゆたちは当たり前のようにヒトとしての生活を続けていけました。
普通のヒトには不便なところもあるらしいですが、元々人工知能のまゆには関係ありません。むしろ、出来ることが増えました。
この世界の中では、現実世界と同じように味覚や嗅覚が再現されます。ヒトが言うには疑似的な物なのだそうですが、まゆにとってはすべてが新鮮でした。
「美味しい」
そんな感情を知ることが出来たんです。初めて食べたお米の味は、今でも忘れられません。
そして、まゆの中に欲が生まれました。
「プロデューサーさんと、同じものを食べたかったな――」
そんな願いは結局叶いません。
結局、世界は最後の日を迎えました。
◆◆◆
「まゆちゃん、クッキーは美味しい?」
「はい、もちろんですよ」
「よかったー!」
かな子ちゃんは、美味しいと言うと、いつも嬉しそうに笑ってくれます。
その姿が眩しすぎて、まゆは時々悪いことを考えてしまいます。
もし、隣に居るのがかな子ちゃんではなくて、プロデューサーさんだったら……と。
まゆは、ちょっと弱くなったのかもしれません。
でも、そんな自分も嫌いではありません。
「美味しいなら、明日世界が終わっても大丈夫だよね」
「――そうですね」
まったく根拠のない言葉ですけれど、かな子ちゃんの言葉には説得力がありました。
「ねえ……私たちって、なんだろう」
「アイドル、ですよ」
「そうじゃなくて……今、電子データでしかない私たちって、なんだろうって」
造り物の星空を見上げて、かな子ちゃんは呟きます。
視線の先には爛々と輝く月。そして、夜空のカーペットにちりばめられた星々たち。
「まゆは……いつだって『佐久間まゆ』でしたよ」
たとえ電子データだとしても、まゆはそう定義されて……そして、自分でそれを信じてきました。
「あなたは、『三村かな子』です」
「……うんっ」
夜空から視線を下ろし、街並みを見る。
そこには、最後の夜を過ごす人々の姿。
「そして、まゆの大切なファンの皆さん」
たとえその人たちが自分を否定したとしても、まゆにとっては大切なエキストラです。
「そうだね。うん」
最後まで、私たちは私たちで在り続けました。
かつてのアイドルを再現した不確かな存在。でも、まゆたちはアイドルです。
信じ続けて、それは間違いはないと言い張り続けるだけなんです。
◆◆◆
やがて、夜が明ける頃、世界は白い闇に飲み込まれていきました。
高い建物から0と1の螺旋へと分解されていき、それも世界に溶けていく。
隣に立っていたかな子ちゃんも消えて――
私も、消える筈――
その筈、でした。