断捨離夫の処刑日~妻と娘の宝物を捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
結婚した頃の健一は、本当に穏やかな人だった。
「麻美の好きなインテリアにしていいよ」
「いつも家を綺麗にしてくれてありがとう」
そう言ってくれる、優しい夫だった。
私、結婚前は業界の賞を取ったこともあるWebデザイナーだった。
担当したサイトが雑誌に載って、ちょっとした取材も受けた。正直、仕事は楽しくて仕方なかったんだよね。
でも「仕事は俺が頑張るから、麻美は家庭に入って支えてほしい」って健一に泣いて頼まれて、専業主婦になった。
仕事については正直、キャリアがもったいないと思った。
それでも娘の美羽はすくすく育った。休みの日に児童館で絵の具や工作に夢中になる姿を見て、これが正解だったのだと自分に言い聞かせた。
そんなときだった。
「なあ、麻美、家買わないか?」
仕事帰りの健一が、パンフレットを広げて嬉しそうに言ってきた。
「麻美にはキャリアを諦めさせて苦労かけたからさ」
「美羽のためにも、麻美の好きなインテリアで満たせる、俺たちの家を持とうよ」
その言葉が、本当に嬉しかった。
私の選択は間違っていなかったんだと、心から思えた。
私の独身時代の貯金と、義父からの援助で頭金を出して、オシャレなマンションを買った。
新しいリビングには、私が選んだ色違いのクッションが並んでいて、窓辺には、季節ごとに花を飾る一輪挿し。
どこにでもある、ささやかで幸せな家庭だったと思う。
でも半年前から、空気が変わり始めた。
健一がスマホで「ミニマリストの丁寧な生活」っていう動画に夢中になった。最初は「部屋がスッキリすると気持ちいいな」くらいだったんだよね。
それが、少しずつエスカレートしていった。
ある日、私が飾ってた窓辺の一輪挿しを見て健一が不機嫌そうな顔をした。
「ねえ麻美、これ本当に必要かな?」
健一は、窓辺の一輪挿しを指差して、いつもの穏やかな笑顔のまま言った。
「なんだか物が多いと、それだけで脳が疲れるんだよね」
「専業主婦の麻美は一日中家にいるんだから、もっと管理を徹底してよ」
「それくらいできないなんて、ちょっと要領、悪いんじゃない?」
笑顔なのに、声のトーンだけが冷たくて、背筋がゾワッとした。
(え……? 今の、なに……?)
一瞬、息が詰まったけれど、健一はすぐに「冗談だよ」といつもの優しい顔に戻る。
(最近、仕事が忙しいって言ってたし、疲れてるだけだよね……)
(私が、ちょっと敏感になりすぎてるだけなのかな)
そうやって、自分に無理やり言い聞かせて、無理やり流したんだ。
それが、終わりのない地獄の始まりだった――
それから数週間後。
健一が、家族写真のアルバムを勝手にデータ化して現物のアルバムを処分しようとしてた。
「ちょっと待って! これ美羽が生まれた時のアルバムだよ!? 捨てないで!」
思わず大声をあげた私を、健一は信じられないほど冷たい目で見下ろした。
健一が言った。
「データに残してあるんだから同じでしょ」
「物理的に残す意味ある?」
「スペースの無駄だし、そういう無駄な執着が部屋を汚すんだよ」
「俺がせっかく時間をかけてデータ化してあげたのに、何その態度?」
(同じわけないじゃない)
(美羽の初めての手形も、私が手書きした育児日記も、このアルバムにあるんだよ?)
心の中では猛反発の言葉が渦巻いていた。
だけど、健一のあまりに冷酷な視線と、怒りを含んだ低い声が怖くて、喉の奥がヒュッと縮まって言葉が出てこない。
言い返したら、また何を言われるかわからない。
その恐怖に負けて、私はただ、ゴミ袋に入れられていくアルバムを黙って見つめることしかできなかったんだ――
さらに数週間後。
健一は私の仕事用のスケッチブックを見て、鼻で笑った。
「これ、いつ使うの?」
「どうせ趣味でしょ。データに残せば十分」
「物を捨てられない人って、センスないらしいよ」
私のこれまでのキャリアも、プロとしての誇りも、すべてをドブに捨てるような言葉。
怒りで頭がどうにかなりそうだったのに、もう、健一に反論する気力すら湧かなかった。
言い返したところで、また冷酷な理屈で叩き潰されるだけ。
そう思うと、心が完全にすくんでしまう。
(私が我慢して、健一の言う通りに部屋をすっきりさせれば、また優しい健一に戻ってくれるのかな……)
そうやって、自分の大切なものを踏みにじられる痛みに無理やり蓋をして、心を麻痺させることしかできなかったんだ――
そんな小さな否定が積み重なった、ある日のことだった。
「ママ! 幼稚園で作ったの! 見て!」
美羽が嬉しそうに差し出してきたのは、折り紙の冠と、一生懸命作った私の顔の粘土細工。
「すごいね、可愛い! リビングの一番いいところに飾ろうね」
そう言って、テレビ台の上の特等席に一緒に飾ったんだ。
美羽は本当に嬉しそうに、何度もそれを見上げて笑ってた。
なのに、数日後の夕方、美羽が幼稚園から帰ってきて、飾ってあった場所を見た瞬間、大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「ママの顔……ないの、ないの……」
「え……?」
見ると、あんなに大切に飾っていた美羽の作品が、跡形もなく消えている。
嫌な予感がして、リビングのゴミ箱に駆け寄った。
中を覗いた瞬間、頭から血の気が引いていくのがわかった。
ぐしゃぐしゃに踏みつぶされた折り紙の冠と、真っ二つに割られた粘土細工が、生ゴミと一緒に捨てられていたんだ――
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「健一、これ、どういうこと……?」
声が、自分でもわかるくらい震えてた。
健一は、スマホをいじりながら冷淡に言い放った。
「あんなのただのゴミじゃん」
「写真に撮ってデータで残せば十分だよ」
「はっきり言ってスペースの無駄!」
「だいたいさ、お前が甘やかすから美羽も物を溜め込む人間になるんだよ」
「嫌なら、お前も俺と同じだけ稼いでから文句言えよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が、すっと冷たくなっていくのがわかった。
でも、もっとひどいことが、まだ待ってたんだよね。
リビングの隅に、段ボール箱がいくつか積み上げられていた。
嫌な予感がして、ガムテープで閉じられかけた箱の隙間から、中を覗き込む。
その瞬間、息が止まった。
独身時代、初任給で買ったお気に入りのウールのコート。
亡くなった祖母の形見の、小さなオルゴール。
全部、私が大切にクローゼットの奥にしまっていたものだった。
「健一、これ……どういうこと? なんで箱に入ってるの……?」
掴みかからんばかりの私に、健一はスマホの画面を見たまま、悪びれもせずに答えた。
健一が言った。
「ああ、それ全部フリマアプリに出したら、さっき売れたよ」
「もう決済も終わって発送手続きしたから」
「明日の朝、集荷が来て全部持っていかれるよ」
「ずっと使ってないんだからいらないでしょ?」
「すっきりして、部屋が広くなるぞ」
明日には、祖母の形見が、私の思い出が、見知らぬ他人の元へ消えていく。
「キャンセルして! お願いだから、それだけは止めて……!」
泣きながら懇願する私を、健一は冷笑しながら見下ろした。
健一が言った。
「あのな、もう売れたって言ってるだろ!」
「評価が下がるからキャンセルなんて絶対にしない!」
床に突き飛ばされた私を見下ろして、健一は吐き捨てるようにこう言ったんだ。
健一が言った。
「だいたいさ、お前みたいなぬるい環境で育った奴にはわかんないんだよ」
「物に埋もれて育った人間の気持ちなんて」
「俺はあの汚くて苦しい空間が死ぬほど嫌だったんだ」
「それを俺の家で再現しようとするな」
自分のトラウマを正義の盾にして、私の大切な思い出をただのゴミとして踏みにじる。
健一がそう吐き捨てた言葉が頭の奥に、ずっと引っかかったまま離れなかった。
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