断捨離夫の処刑日~妻と娘の宝物を捨てた男の末路~ 作:桐山さくらこ
その夜、私は震える手で義父のしんじさんに電話をかけた。
電話越しに、すべてを話した。
しばらく、何も聞こえなかった。
電話の向こうで、お義父さんが黙り込んでるのがわかった。
それから、深いため息。
「健一の奴、本当にどうしようもねえな……」
「あいつは昔から、やり過ぎてしまうバカなんだ」
「麻美さん、俺に考えがある」
「近々、母さんをそっちに行かせる」
「それまで、少し耐えてくれ」
「金が必要なら、いくらでも融通する」
「あの……健一さんが言ってた『物に埋もれて育った』って、どういう意味なんですか」
お義父さんは、また少し黙ってから言った。
「……あいつ、子供の頃な」
「よしえの溜め込み癖がひどい時期があって」
「足の踏み場もない汚部屋で育ったんだよ」
「それがトラウマで、歪んだミニマリスト気取りになっちまったんだろう」
(健一にそんな過去があったんだ...)
「麻美さん、まずは俺が直接、健一を締め上げてやるから安心してくれ」
そう言ってお義父さんは電話を切った。
電話を切っても、受話口に当てていた耳が熱かった。誰かに話すまで、自分がこんなに息を詰めていたとは気づかなかった。健一を怒らせない言い方ばかり探して、私の困りごとは一つも言葉にできずにいたのだ。
家の中を物で埋められることが苦しかった。その話を聞いて、幼い健一を気の毒に思わなかったわけではない。だからこそ、なぜ美羽の泣き声を聞きながら、同じことを娘にできたのかが分からなかった。苦しかった記憶があるなら、別の人の苦しさにも気づけるはずだと、私は思いたかった。
けれど、その願いに美羽を付き合わせることはできない。娘が作品を持って帰るたびに、健一が帰宅する時刻を考える生活を、これからも続けるのか。そう自分に問いかけると、答えはすぐに出た。
そして次の日の夜。
ピンポーン、とインターホンが鳴り、ドアを開けるとそこには、怒りで顔を強張らせたお義父さんが立っていた。
リビングでソファーに寝転んでいた健一は、父親の突然の来訪に飛び起きる。
「えっ、親父!? なんで、いきなり……」
お義父さんは健一の言葉を無視して、リビングの真ん中までズカズカと歩を進めると、テーブルを拳で思い切り叩いた。
ドンッ!!
「健一! お前、麻美さんや美羽の宝物をゴミ扱いして捨てたそうだな! 人として恥ずかしくないのか!」
「な、何言ってるんだよ親父! 俺はただ、部屋をすっきりさせて丁寧な暮らしを……」
「言い訳するな!」
お義父さんの凄まじい怒号に、健一の肩がビクッと跳ねる。
「おまえはちょっとやり過ぎてしまうバカだとは思っていたが、ここまで身勝手で冷酷な男に育てたつもりはない!」
「いいか、これ以上、麻美さんに身勝手な真似をするなら、マンション購入時に貸した頭金500万を今すぐ一括で返してもらう! 」
「実家の遺産相続からも完全に外すからな!」
「ご、500万一括……!?」
「 相続から外すって、親父、本気で言ってるのかよ……!」
顔面を真っ青にしてガタガタと震え出す健一。
「俺は本気だ。お前が麻美さんに頭の上がらない理由を、その身に叩き込んでやる」
お義父さんは健一を鋭い目で一瞥したあと、嵐のように去っていった。
父親からの、あまりにリアルな経済的デッドラインを突きつけられて、健一は一時的に、借りてきた猫のように大人しくなったんだ――
でも私は、もう健一を一切信用してなかったんだよね。
健一が父親に怯えて大人しくなっている隙に、元の職場に連絡を取った。
「いつでも戻ってきていいよ」
昔の上司は、二つ返事で言ってくれた。
復職の相談をする前、私は何度も連絡先を開いては閉じた。以前の仕事を楽しいと思っていた自分を思い出すことさえ、家事を怠けているような気がしてしまう。それほど長く、健一の言葉を自分の評価として受け取っていた。
昔のスケッチブックを開こうとして、そこにもうないものの多さに気づいた。紙を失っても、考えたことまで消えたわけではない。画面の余白をどう取るか、初めて訪れる人に何を先に伝えるか。仕事のことを考えると、久しぶりに頭が動き出した。
上司の返事を読み返しているうちに、視界がにじんだ。私が帰っていける場所は、本当にある。その事実は、健一を言い負かせたかどうかよりも、ずっと心強かった。
もちろん、仕事に戻れば何もかもうまくいくわけではない。美羽の送り迎え、働く時間、二人で暮らす費用。必要なことを一つずつ調べ、書き出した。分からないものには空欄を残した。全部を今日決めなくても、明日また続きを考えられる。そう思えるだけで、夜が少し短くなった。
美羽にはまだ、決まっていないことを大げさに約束しなかった。ただ、作品を渡してくれたときには、娘の目を見て受け取るようにした。何を作ったか、どこを頑張ったか。美羽が話してくれることを、健一の足音を気にせず聞ける暮らしを作りたかった。
リモートワークでの復職の確約。
娘の保育園の申請も、着々と進めた。
そして数ヶ月後。
健一の歪んだプライドが、身内以外の場所で完膚なきまでに叩き潰される事件が起きた。
その顛末は後から聞いた。健一はネットで知り合ったミニマリストたちのオフ会に参加したそうだ。自分の「完璧なミニマリズム」を語って、意識高い仲間たちから絶賛されるつもりだったんだと思う。
居酒屋での自己紹介のとき、健一は気持ちよくなって、満面の笑みでこう語ったらしい。
「うちの妻は要領が悪くて、物を溜め込む人間でね」
「だから俺が、何年も着てないコートをフリマアプリで処分して、家をスッキリさせてあげたんですよ」
「あ、それから子供の工作なんてのも、ただのゴミですよね」
「ああいうのもずっと取っておくとじゃまになるから、すぐに捨てるんですよ」
「家族の脳の疲れをリセットしてあげるのも、男のリーダーシップですから」
健一は、誇らしげに胸を張った。
だけど、その瞬間、テーブルの空気が一瞬で凍りついた。
主宰者のインフルエンサーの女性が、冷徹な目で健一を睨みつける。
「……それ、ミニマリズムでも何でもありませんよ」
「ただのドメスティックバイオレンス、家庭内モラハラです」
「私たちは自分のこだわりで物を減らすのを楽しんでいるだけで、他人の大切な思い出を踏みにじるような野蛮な行為は一番嫌悪します」
「そんな最低な嫌がらせを、私たちの思想と一緒にしないでください」
「不愉快なので、今すぐお帰りいただけますか?」
周りの参加者からも一斉に白い目を向けられて健一は顔を真っ赤にして、逃げるように店を飛び出すしかなかった。
自分が一番認めてほしかった集まりで、健一は受け入れてもらえなかった。
プライドだけは人一倍高い健一にとって、自分のセンスを「ただのモラハラ」と全否定されたことは、死ぬほど耐え難い屈辱だったみたい。
そのストレスと、外でかいた大恥の逆恨みは、また私に向かってきた。
それから実家の圧力なんて忘れたみたいに健一は、私の目の前で洗面所の日用品や、化粧品を次々とゴミ袋に叩き込んでいった。
「おい、なんで洗面所に予備の洗剤があるんだ!」
「ミニマリストはストックを持たない!」
「化粧品も色付きリップ1本あれば十分だろ」
「専業主婦の分際で、誰に見せるんだよ」
「家を完璧にコントロールできない無能な主婦は、この家にはいらないんだよ!」
袋に落ちていくものを見つめた。今まで同じ場所で暮らしていたはずなのに、私の必要なものは、健一には少しも見えていなかった。
その言葉を聞きながら、私は、『もう終わりにしよう』と決め、スマホを手に取った。
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