泥棒夫の処刑日~妻の金で兄嫁と不倫した男の末路~ 作:桐山さくらこ
——新婚の頃の修は、本当に優しかった。
夜の病院。裕子がナースステーションで書類を確認し、病室へ急ぐ。
壁の時計は深夜を回っている。
夜勤を終えた裕子が、疲れた表情で自宅の玄関を開ける。
「ただいま……」
リビングから修が顔を出す。
「おかえり」
「今日も大変だった?」
「うん。でも大丈夫」
裕子が靴を脱ぎながら、申し訳なさそうに修を見る。
「遅くなってごめんね」
「謝ることじゃないだろ」
修が裕子の仕事用バッグを受け取る。
「夕飯、温めるよ」
「ありがとう」
ダイニングテーブルで、二人が簡単な夕食を囲んでいる。
「本当は、もっとちゃんとした料理を作りたいんだけど……」
「いいんだよ」
裕子が箸を止める。
「裕子のやりたいように、キャリア積んでよ」
裕子が驚いたように修を見る。
「俺、看護師って仕事、かっこいいと思う」
修が穏やかに笑う。
「応援してるよ」
裕子の表情から疲れが少し消える。
「……うん」
「ありがとう、修」
二人が楽しそうに食事を続ける。
食事を終え、修が箸を置く。
「ごちそうさま」
「じゃあ、片づけるね」
裕子が食器へ手を伸ばす。
「いいよ。裕子は疲れてるだろ」
修が裕子より先に食器を重ねる。
「洗い物は俺がするから」
「でも……」
「ほら、早く休んで」
修が笑顔でキッチンへ向かう。
裕子がその背中を見て、うれしそうに笑う。
別の日。休日のカフェで、裕子が友人と向かい合っている。
「夜勤があるのに、家のことまでやってるの?」
「最近は修が手伝ってくれるから、そんなに大変じゃないよ」
「いいなあ。理解ある旦那さんで」
「うん」
裕子が照れたように笑う。
——私も、本気でそう思っていた。
——最高の人と結婚できたんだって。
自宅のソファで寄り添い、テレビを見ながら笑う裕子と修。
——この幸せが、ずっと続くと思っていた。
修がテレビを見たまま笑っている。
その笑顔が、暗い画面に反射する。
——あの地獄が始まるまでは――
*
結婚して一年が過ぎた頃。
夕方のダイニング。裕子が通帳と請求書を広げ、電卓を叩いている。
玄関のドアが乱暴に閉まる。
「ただいま」
「おかえり」
修がネクタイを緩めながら、重い足取りで入ってくる。
「今日、早かったんだね」
「ああ」
修が鞄を床へ置き、無言で椅子に座る。
「……何かあった?」
「辞めてきた」
裕子の指が電卓の上で止まる。
「え?」
「だから、あの会社辞めた」
「今日?」
「俺の才能を活かせる職場じゃなかったんだよ」
「でも、この前はもう少し続けてみるって……」
「上司が何も分かってないんだ」
修が苛立ったようにネクタイを外す。
「俺に雑用ばっかり押しつけてさ」
「人を見る目がない会社にいても、時間の無駄だろ」
裕子が通帳へ視線を落とす。
「次の仕事は?」
「これから探す」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「そっか……」
裕子が通帳を閉じる。
「家賃は私のお給料で払えるけど、来月のカード代まで入れると少し厳しくて」
修が不機嫌そうに裕子を見る。
「俺を責めてる?」
「違うよ」
裕子が慌てて首を振る。
「ただ、次は長く続けられるところだといいなって」
「俺に合わない会社で我慢しろってこと?」
「そういう意味じゃ……」
修が立ち上がる。
「疲れてるから、今日はもう寝る」
「修……」
修は振り返らず、寝室へ入る。
裕子が一人、テーブルに残される。
裕子は閉じた通帳の上へ手を置く。
——結婚してから、これで三度目の退職だった。
別の日。スーパーのベビー用品売り場。
裕子が小さなベビー服を見つめる。
隣では若い夫婦が楽しそうに商品を選んでいる。
裕子が値札を見て、そっと服を棚へ戻す。
——子どものことを考える余裕なんて、まだなかった。
*
昼の自宅。インターホンが鳴る。
裕子が玄関を開けると、京介が立っている。
「久しぶりだな、裕子ちゃん」
「京介さん。どうぞ、上がってください」
リビング。修が気まずそうに京介の向かいへ座っている。
「次の仕事は決まったのか?」
「アニキに言われなくても、今、探してるところだよ」
「前の会社は半年もたなかったそうだな」
「俺には合わなかったんだよ」
「合う、合わないの前に、まず仕事を覚えろ」
修が唇を引き結ぶ。
「京介さん、お茶を……」
「裕子ちゃん」
京介が裕子へ視線を向ける。
「こいつのせいで、苦労してないか?」
「そんなことは……」
修が裕子を横目で見る。
「私も働いていますから」
京介が小さく息をつく。
「修。うちで働け」
「え?」
「いつまでも裕子ちゃん一人に背負わせるな」
「でも、アニキの会社って建設だろ。俺に現場仕事なんて――」
「最初から何でもできる奴はいない」
「営業と現場管理を、一から教える」
修がしばらく黙り込む。
裕子が期待を込めて修を見る。
「……分かったよ」
修が京介へ頭を下げる。
「アニキ、ありがとう」
「俺、頑張るから」
「口じゃなく、仕事で見せろ」
数日後。
小野江建設の社屋前。
修が新品のスーツ姿で立っている。
京介が先に歩き、修がその背中を追う。
——京介さんは修を自分の会社へ迎えてくれた。
夜の自宅。修がソファに寝転び、スマートフォンでゲームをしている。
裕子がキッチンから湯飲みを運んでくる。
「初日、どうだった?」
「あのクソアニキ……」
裕子が足を止める。
「俺のやり方にケチつけてきやがった」
「でも今日が初日でしょ?」
「だから何?」
修がゲームを続けたまま吐き捨てる。
「朝から倉庫の整理だの、先輩について回れだの」
「俺を雑用係だと思ってんだよ」
「最初は仕事を覚えるためじゃないかな」
修の指が止まる。
「京介さん、修を心配して会社に入れてくれたんだよ」
「感謝しないと」
修がゆっくり裕子を見る。
「感謝?」
修が笑う。
その笑顔から温かさだけが消えている。
「するわけないだろ」
裕子の表情がこわばる。
「昔からそうなんだよ。何でもできる兄貴と、出来の悪い弟」
「周りはいつも、勝手に俺たちを比べる」
「京介さんは、そんなつもりじゃ……」
「あいつが俺を無能扱いするから、俺の人生はバグったんだ」
修は笑顔のまま、再びスマートフォンへ目を戻す。
裕子はその笑顔を見て、心配を口にできなくなった。
「なに、突っ立ってんの?」
「……ううん」
「冗談だよ」
修が何事もなかったようにゲームへ戻る。
「あ……うん」
裕子はまだ引っかかっているような顔で、キッチンへ戻る。
——慣れない仕事で、疲れてるだけだよね……
*
*
修は真子に、動画で知った話を得意げに披露した。家族の金を取っても刑が免除される、そんな言葉を、自分に都合のいいところだけ覚えていた。
「裕子の口座から何度か出してるんですけど。何もないですし」
「裕子さんは知ってるの?」
「さあ。何も言ってきませんよ」
真子は少し黙ったあと、翌日の夕方に会社へ残れるかと尋ねた。
机の上には精算前の現金があった。三万円。それを持っていっていいと言われて、修の指が止まる。
「本当に大丈夫なんですか?」
「あなたが大丈夫だと言ったんでしょう?」
怖いならやめるかと聞かれて、修は慌てて首を振った。兄の会社なのだから困るはずがない。そう言って封筒に入れた金が、誰の金なのかを考えるのはやめた。
一週間後には、修のほうから十万円を求めた。真子は帳簿に修正を書き込みながら、自分で数えるように言う。何も問われなかった一度目を、修は安全の証明だと思い込んでいた。
*
それからしばらくして。
銀行のATMコーナー。
裕子が記帳した通帳を確認する。
「……あれ?」
通帳には、通常の取引のほか、二万円、三万円の引き出しが何度かある。
裕子が指で日付をたどる。
——この日、夜勤だったよね。
裕子が財布の中を確かめる。
——私、下ろしたっけ……?
病院の休憩室。スマホで銀行残高を見ている。
「裕子さん、顔色悪いわよ」
裕子が慌てて画面を伏せる。
「大丈夫です。ちょっと寝不足で」
「夜勤が続いてるものね。無理しないで」
「ありがとうございます」
裕子が一人になる。
もう一度画面を開く。
——疲れて、忘れてるだけかな…
夜勤明け。裕子が自宅のドアを開ける。
「ただいま……」
いつも散らかっていたリビングが、見違えるほどきれいになっている。
裕子が驚いて部屋を見回す。
修が掃除機のコードをまとめている。
「修、これ……全部やってくれたの?」
「うん」
修が少し照れたように笑う。
「いつも裕子に甘えてばかりだからさ」
「でも、仕事は?」
「今日は早く上がれたんだ」
修が裕子の肩へ手を置く。
「夜勤明けで疲れただろ。早く休みなよ」
裕子の目に涙が浮かぶ。
「え、なんで泣くんだよ」
「だって……うれしくて」
「大げさだな」
裕子が笑いながら涙を拭う。
——やっぱり、本当は優しい人なんだ。
ベッドへ向かう裕子を、修が笑顔で見送る。
裕子が見えなくなった途端、修の笑顔が消える。
修がソファの隙間を確認し、長い髪の毛を一本つまみ上げる。
修はそれをティッシュに包み、ゴミ箱の奥へ押し込む。
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