泥棒夫の処刑日~妻の金で兄嫁と不倫した男の末路~ 作:桐山さくらこ
部屋が静まり返る。
京介が修を見つめる。
裕子も無言で修を見る。
修の笑顔が少しずつこわばる。
「修」
裕子が冷え切った目で修を見る。
「本当にあなたってバカよね…」
「あ?」
「あなたが言ってるのは、一部の親族間の財産犯罪について、刑が免除される場合があるって話」
「盗んだことが合法になるわけじゃない」
弁護士が一歩前へ出る。
「それに民事上の返還義務と損害賠償責任は残ります」
「そして、小野江建設はあなたの親族ではありません」
修の笑顔が消える。
「会社資金の持ち出しに、親族相盗例は関係ありません」
「え……」
「お前、自分が何を盗んだのかも分かってなかったのか」
「ちょっと待てよ」
弁護士が二通の書面を修と真子の前へ置く。
「裕子さんは、修氏との離婚を求めます」
「不貞行為への慰謝料、無断で引き出した預金の返還、そのほか確認できた損害について請求します」
弁護士がもう一通を指す。
「京介社長も、真子氏との離婚および慰謝料を請求します」
「会社資金については、調査で確定した全額の返還を求め、刑事告訴も検討します」
「そんな……」
「いくらだよ」
「現時点で確認できた被害と慰謝料の請求額の合計は、およそ一千五百万円です」
「せ……千五百万?」
「そんなお金、あるわけないじゃない!」
「支払えないことは、責任が消える理由にはなりません」
「交渉が成立しなければ訴訟へ進み、判決等を得たうえで、財産や給与への強制執行を申し立てます」
修の膝が震える。
「それと修」
修が京介を見る。
「お前は本日付で自宅待機だ」
「懲戒処分と刑事告訴については、調査が終わり次第、正式に通知する」
「待ってくれ、アニキ!」
修がベッドから降りようとする。
社員代表が前へ出て、修の進路を塞ぐ。
「俺たち兄弟だろ!?」
「だから何度も手を差し伸べた」
京介の拳が震えている。
「お前が踏みにじったのは、俺だけじゃない」
「裕子ちゃんの人生も、会社で働く社員の生活もだ」
「もう兄弟だからでは済ませない」
修が今度は裕子へ向き直る。
「裕子、俺が悪かった」
「なあ、子どもはどうするんだよ」
「お前、妊娠したんだろ? 俺の子だろ?」
裕子の目に、かつての食卓で笑う修が浮かぶ。
その記憶が静かに消える。
「呆れた」
「私が妊娠してたら面倒だって、真子さんに笑ってたよね」
「それは、その場の冗談で……」
「妊娠はしてなかったよ」
修が目を見開く。
「体調不良は、ただのストレスだった」
裕子がまっすぐ修を見る。
「今は、あなたの子どもじゃなくてよかったと心から思ってる」
「裕子……」
「出ていけ」
「京介、お願い。話を聞いて」
「弁護士を通せ」
「一度だけでいいから――」
「何度裏切ったかは、映像に全部残ってる」
真子が言葉を失う。
社員代表が修へ着替えるよう促す。
「触るな! 自分で歩ける!」
修は強がって立つが、足元がふらついている。
修と真子が玄関へ向かう。
修が最後に裕子を振り返る。
「本当に、これで終わりにする気か?」
「終わらせたのは、あなたでしょ」
修がうつむく。
玄関のドアが閉まる。
静まり返ったリビング。
裕子の張りつめていた肩が震える。
「裕子ちゃん……」
裕子が顔を覆う。
「私、ずっと……」
「優しい人だと思ってたんです」
裕子の目から、初めて涙があふれる。
「すまなかった」
裕子が首を振る。
「京介さんのせいじゃありません」
裕子が涙を拭く。
「でも……終わったんですよね」
「手続きはこれからです」
弁護士が穏やかな声で続ける。
「ただ、もう一人で耐える必要はありません」
裕子が小さくうなずく。
「はい」
裕子が深く息を吐く。
「……スッキリしました」
*
離婚が成立してから、数か月後。
休日の喫茶店。裕子と京介が向かい合って座っている。
京介が封筒をテーブルへ置く。
「修からの返済、一回目の分だ」
「ありがとうございます」
裕子が封筒へ手を伸ばす前に、少しためらう。
「修と真子さんは、今どうしているんですか?」
「修は、うちを懲戒解雇になった」
京介がコーヒーへ視線を落とす。
「会社の金は、示談で全額返すことになった」
「当然、まともな退職金なんてない」
「仕事は?」
「今は、知り合いの会社が請け負ってる現場で日雇いをしてる」
「特別扱いはするなと伝えてある」
その頃、修は過酷な工事現場で、作業着姿で資材を運んでいた。
汗だくになり、周囲の作業員から遅れを取っている。
「止まるな! まだ半分だぞ!」
「……はい」
*
喫茶店で京介は話を続けた。
「給料が入れば、決められた額を返済に回す生活だ」
「真子さんは?」
「離婚した」
「財産分与も、あいつが思っていたような額にはならなかった」
*
真子は古びたアパートで、地味な部屋着のまま家計簿を見つめていた。以前の華やかな服を買う余裕はない。
テーブルには支払いの督促と安い総菜が並んでいる。
疲れ切った修が帰宅する。
「ただいま」
「遅い。家賃、明日までなんだけど」
「分かってるよ」
「分かってるなら、もっと稼いできてよ」
「誰のせいで、こんなことになったと思ってんだ」
「は? あんたが大丈夫だって言ったんでしょ!」
二人が狭い部屋で怒鳴り合う。
*
京介はコーヒーのカップを置いた。
「ずっと一緒にいたいって言ってた二人だ」
「望みどおり、支払いに追われながら一緒に暮らしてるよ」
京介は皮肉に笑った。
「もっとも、毎日ケンカばかりらしいけどな」
裕子は少しだけ笑い、すぐに真顔へ戻る。
「京介さんは……大丈夫ですか?」
京介が意外そうに裕子を見る。
「京介さんも、奥さんと弟さんを同時に失ったんですよね」
「……そうだな」
京介が窓の外を見る。
「しばらくは、人を見る目がなかった自分に腹が立った」
「でも、会社には守るべき社員がいる」
京介が裕子へ向き直る。
「立ち止まってる暇はないからな」
「京介さんらしいですね」
「これから修の返済分は、口座へ直接振り込ませる」
「俺たちも、こうして会うのは今日で最後にしよう」
「はい」
「裕子ちゃん」
京介が穏やかに笑う。
「今度こそ、幸せにな」
「京介さんも」
二人が席を立つ。
店の前で、それぞれ反対方向へ歩き出す。
途中で裕子が振り返る。
京介も足を止め、軽く手を上げる。
裕子が笑って頭を下げ、前を向く。
*
それから数年後。
病院のナースステーションで、裕子が看護師長の制服姿で、若い看護師へ指示を出している。
「師長、三〇二号室の患者さんが――」
「私が行きます。あなたは先生へ連絡して」
「はい!」
裕子が病室へ向かって歩く。
声が届いたことを確かめてから歩き出す。以前のように、誰かの顔色を見て言葉を引っ込めることはなかった。
勤務を終えた裕子が、ロッカールームでスマートフォンを確認する。
口座への入金通知が届いている。
裕子は一瞬だけ画面を見て、静かに閉じる。
ロッカーには「福祉事業計画」と書かれたファイルが入っている。
裕子がファイルを取り出す。
「師長、また勉強ですか?」
「うん。いつか、自分で福祉の会社を作りたいから」
「仕事だけでも忙しいのに、すごいですね」
「忙しいけど、今は自分で選んだ忙しさだから」
裕子が晴れやかに笑う。
以前なら、振込の通知を見て、修が今日どんな顔で帰ってくるかを考えていただろう。今は必要な入金かどうかを確認して、画面を閉じることができる。修の機嫌を予測することが、一日の仕事ではなくなった。
福祉事業の計画は、まだ勉強することばかりだった。資格、運営、費用。分からない項目に印をつけ、勤務の合間に少しずつ調べる。すぐに実現するかは分からない。それでも、疲れたあとに自分のためのノートを開ける暮らしが、裕子はうれしかった。
仕事を応援すると言った修の言葉を思い出すこともある。あの頃の自分まで、愚かだったと切り捨てるつもりはない。誰かを信じて生活を作ろうとしたことは、恥じることではなかった。そこへ戻る必要はなくても、あの自分を責める必要もない。
夜勤明けの病院の玄関。
朝日が差し込み、裕子がまぶしそうに目を細める。
裕子は一度立ち止まり、空を見上げる。
——再婚する暇もないくらい、毎日は忙しい。
——でも、それでいい。
裕子がファイルを抱え、朝日の中を歩き出す。
——私の人生は、もう誰にも盗ませない。
「あー、せいせいした!」
裕子が笑顔で前へ進んでいく。
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