エリート夫の処刑日~妻を貧困に追い込んだ見栄っ張り夫の末路~ 作:桐山さくらこ
結婚前の敏也は、本当にスマートで完璧な恋人だった。
私の誕生日には、両手で抱えるほどの大きな薔薇の花束。
お店は、何ヶ月も前から予約してくれたという夜景の見える高級フレンチレストラン。
エントランスからテーブルに着くまで、私のエスコートも完璧。
デートのたびに「春香は座ってて」と私が財布を出そうとするのを、絶対に拒否するような人だった。
高収入で、仕事もできて何より私をまるでお姫様みたいに大切にしてくれる。
「春香を一生、不自由なく幸せにするから」
プロポーズのときの、あの眩しい笑顔。
私はなんて幸せ者なんだろうってこれから始まる温かい結婚生活に、胸を躍らせていたんだよね。
あの地獄のような日々が始まるまでは……
*
結婚した、まさにその当日からだった。
我が家の空気が、一瞬でバグっていった。
敏也は、私に対して1円のお金も使わなくなった。
「仕事着のシャツがヨレてきたから、新しい服が欲しいな」
「服がヨレてきたくらいで買うのなんてもったいないだろ」
「まだまだ十分着れるよ」
ネットで見つけた服を、誕生日にねだったこともあった。
「は? 服なんてユニクロで十分でしょ」
「まだ着られる服あるのに新しいの買うとか、まじで無駄遣い。頭悪いの?」
週末に二人で美味しいものを食べに行こうと提案すれば、返事はいつも同じだった。
「もったいない」
その一言で終わりだった。
やがて由香里が生まれ、私は家事と育児に追われるようになった。
年収800万はあるはずの敏也が、我が家の財布をすべて握っていた。
そして私に手渡される毎月の生活費は、たったの5万円。
そこから食費、日用品、子供の雑費。
全部をやりくりしろというんだ。
「ねえ、さすがに月5万円じゃ厳しいよ」
「もう少し生活費増やしてくれないかな?」
「おい春香、ちゃんとポイ活してんの? クーポン使えよ、無能主婦」
「そうすれば5万円でお釣りが来るだろ?」
毎日毎日、お金の管理についてネチネチとうるさく説教される日々。
あまりのキツさに「私もパートに行く」と何度も訴えたけれど、そのたびに敏也は激昂した。
「はあ!? パートなんて世間体が悪いだろ!」
「年収800万の俺の嫁がパートなんてしてたら、会社で俺が笑われるんだよ!」
「お前は家で大人しく、俺と子どものために完璧に家事だけしてればいいんだよ」
なんでそんなに極端に節約しなきゃいけないの、と泣きながら聞いたこともある。
そのとき敏也は、いつものスマートな顔に戻って、もっともらしい嘘を吐いた。
「すべては家族の将来のための貯金だよ」
「いいか、由香里も大きくなったら学費もかかるし」
「俺達の老後の資金も貯めなきゃならない」
「俺がこれだけ必死にお金を管理してるんだから、春香も協力してくれよ」
結婚って、普通はこういうもんなのかな。
みんな我慢して、こうやって家族を作っていくのかなって私は自分に無理やり言い聞かせて毎月5万円で必死に頭を悩ませていた。
それが、終わりのない地獄の始まりだったんだよね。
*
ある日、娘が昼寝をしている時間に、暇つぶしにSNSを見ていた。
おすすめ欄に、ある20代前半の若い女性の投稿が流れてきた。
『大好きな彼氏に、今日も高級フレンチ奢ってもらっちゃった! 最高!』
アップされているのは、予約の取れない都内の超高級レストランの料理の画像。
(あ……私も敏也と付き合っていた頃、このお店よく連れて行ってもらってたな)
懐かしい思い出に浸りながら、何気なくその女のプロフィールをスクロールしていった。
その瞬間、私の背筋に、氷水を浴びせられたような悪寒が走った。
高級寿司、ラグジュアリーホテルの最上階バー、夜景の見えるスイートルーム。
その女が『優しくてリッチな彼氏さん』とデートしている場所が私が結婚前に、敏也と付き合っていたときに連れて行ってもらったデートコースと1ミリの狂いもなく、全く同じルートだった。
嫌な汗が止まらない。
心臓が、ドクドクと警報のように早鐘を打ち始める。
極めつけは、「いつもエスコートがスマートな彼」と載せていた、顔が絶妙に隠された男の写真だった。
その男の左腕に光る、特徴的な高級時計。
少し猫背なシルエット。
見覚えのあるジャケットの袖口。
(これ……絶対に、敏也だ)
指先が、怒りと恐怖でガタガタと震え出した。
私は震える手で、普段は「入るな」と鍵をかけられている夫の書斎の引き出しを針金を使って、必死にこじ開けた。
奥の書類ケースに、敏也の個人名義の通帳があった。
開いた瞬間、頭が真っ白になった。
預金残高は三十二万円。
(年収800万あって、私にあれだけ「ポイ活しろ」「老後のため」と強要して)
(貯金が、たったの32万?)
一緒に見つけたクレジットカードの利用明細には毎週末のように、あのSNSの女の投稿と完全に一致する日付と金額。
高級レストランの決済履歴がびっしりと並んでいた。
(あいつ、私の生活費を極限まで削って)
(自分は若い女と、昔のデートコースを使い回して贅沢三昧してたんだ)
かつて愛した、スマートで優しかった夫の面影はもうどこにもなかった。
私の中にあった最後の情がパチンと音を立てて消えてなくなるのがわかった。
私は泣かなかった。
急いでスマホを取り出し、通帳と明細の写真を1枚残らず撮影した。
(私の節約を、子供の未来を、踏みにじったこと……一生後悔させてあげる)
家計簿をつけるとき、私は自分の使った額だけを何度も見直していた。敏也の収入が多いのなら、足りないのは私のやり方が悪いせいなのだろう。そう言われ続けるうちに、私もそれを前提に考えるようになった。
必要な買い物のはずなのに、レジへ向かう前に迷う。もう少し安いものはないか、来週まで待てないか。ほんの少しの差額を考えている間に、由香里が退屈して私の袖を引いた。娘の声に返事をしながらも、頭の中ではまだ数字を並べていた。
将来のためという言葉を信じていたかった。今の苦しさが由香里のためになるのなら、私が耐えればいい。そう考えるほうが、敏也が私たちに使いたくないだけだと認めるより、ずっと簡単だった。
通帳の三十二万円を見たとき、疑問を持つ自分を責めるのはやめようと思った。高級な食事が欲しかっただけではない。同じ家で暮らす人として、何が起きているかを知る権利まで、私は取り上げられていたのだ。
だけど、これだけじゃ裁判で「不貞行為」を立証する証拠としては、まだ弱い。
言い逃れのできない決定的な証拠を押さえる必要がある。
でも毎月5万しか渡されていない私にプロの探偵を雇うお金なんて、1円もあるわけがなかった。
「だったら、私が自分で探偵になってやる」
リビングでパソコンを開き、不倫の証拠を自分で集めた人の体験記を調べ始めた。
ここから、私の執念の「自力探偵ライフ」がスタートした。
*
ネットで調べた探偵の話を読んでいる間は、自分にも何かできるような気がした。
情報を探すうちに、GPSに関する説明も見つけた。私はその言葉にすがりたかったけれど、ネットの短い説明だけで、何もかも大丈夫だと決めることはできなかった。
私は5万円の生活費から必死にお金を捻出し、子供の迷子防止用の小型GPSを購入した。
そして敏也が寝静まった深夜。
駐車場に停めてある車のトランクの、泥除けの隙間の奥深くに強力な磁石でバチッと仕込んだ。
これで、あいつが今どこにいるのか。
私のスマホ画面にリアルタイムで丸見えになった。
さらに、ネットに書いてあった尾行のプロの鉄則。
見つけた体験記には、途中で上着を変えたという話があった。
私はカバンの中にユニクロのリバーシブルパーカーと、伊達メガネ、そして大きめの帽子を忍ばせた。
準備を終えると、怖さも覚悟も、両方が胸に残った。
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