エリート夫の処刑日~妻を貧困に追い込んだ見栄っ張り夫の末路~ 作:桐山さくらこ
週末の朝。
敏也はいつものように仕立ての良いスーツに身を包み、
「急な出張が入ったから、今週末は帰れない」
とスマートに嘘を吐いて出て行った。
私は子供を実家の母に預け、パーカーのフードを深く被り、GPSを追跡しながら、静かにあいつの後を追った。
最初の試練は、都内のスクランブル交差点だった。
敏也の後ろを20メートルほど離れて歩いていたとき、あいつが「スマホを落とした」と、急に足を止めて振り返った。
(終わった、バレる……!)
心臓が、口から飛び出そうなくらい跳ね上がる。
焦って背中を向けたり、急に走って逃げたら逆に目立つ。
ここで役立ったのが、探偵サイトの【風景に溶け込む演技】だった。
私は恐怖を必死に押し殺し、すぐ横にあったビルの看板の前にスッと立ち、スマホを見つめながら小声で呟いた。
「あー……ここじゃないなぁ。あ、違った違った」
目的地を探して道に迷っている。
完全な赤の他人のフリをした。
敏也の視線が、私の体をスッと通り過ぎていく。
あいつはスマホを拾い、何事もなかったかのようにまた歩き出した。
私は冷や汗でびしょ濡れになった背中を押さえながら、深く、長く息を吐いた。
(よかった……)
(でも、まだ終わりじゃない)
敏也が向かったのは、あのSNSの女との待ち合わせ場所。
おしゃれなカフェのテラス席で、2人が嬉しそうに合流するのが見えた。
女は写真通りの、派手な雰囲気の若い子だった。
敏也は、私には何年も向けていなかった、あの頃の優しい笑顔で、その女をエスコートしていた。
胃の奥が、じわりと焼けるように痛んだ。
二人はカフェでしばらく過ごしたあと、歩いて丸ビルに入っていった。
そこには私の誕生日に連れていってもらった、高級フレンチのレストランがある。
たぶん、ここに女を連れて行くのだろう。
しかし丸ビルには他にもレストランがあるから、見失わないようにできるだけ近くにいる必要がある。
私は一瞬の隙に、パーカーを裏返して色を変え、伊達メガネを装着して、同じエレベーターに滑り込んだ。
エレベーターにはたくさん人がいるから、少し離れていたら見つからないはずだった。
だが途中の階で他の客が全員降りてしまい、エレベーター内は敏也、女、私の3人きりになってしまった。
狭い密室に流れる、不気味な沈黙。
心臓の音が、自分でも聞こえそうなくらい大きく鳴っている。
すると女が、私の姿を不審に思ったのか、敏也の袖をツンツンと引っ張った。
真子が尋ねた。
「ねえ敏也くん……なんかこの人、さっきの駅からずっと後ろにいない?」
あいつが目を凝らして、私の顔を覗き込もうとした。
その刹那、私は、プロの探偵サイトに書いてあった『究極の心理戦』の裏技を思い出し、一か八かの大博打に出た。
私は突然、スマホを耳に当てたまま、リビングでは絶対に絶対に出さないようなドスの効いた怒鳴り声をあげた。
「はあ!? だから何度も言わせんなって言ってんだろ!!」
「舐めてんのか! 今すぐお金用意しろって言ってんだよコラァ!!」
狂ったように怒号を響かせると同時に、私はエレベーターの頑丈な壁を、拳で『ドン!!』と激しく殴りつけた。
狭い密室に、凄まじい衝撃音が爆音で鳴り響く。
女が短く悲鳴をあげた。
「ひっ……!?」
不倫相手の女が、恐怖で短く悲鳴をあげて敏也の背中に隠れた。
敏也も完全に硬直した。
私を別人だと思ったのか、それとも怒鳴り声に気を取られただけなのか。理由は分からない。ただ敏也は、私の顔から目をそらした。
敏也は私の顔を覗き込むどころか、慌てて私から一番遠い壁側へ避難して、直立不動で真逆の方向を向いた。
「……真子ちゃん、静かに。目を合わせるな。関わらないほうがいい」
背中越しに、敏也が引きつった小声で女に囁いているのが聞こえた。
私の心臓は、恐怖とアドレナリンで、今にも口から飛び出そうなくらいバクバクと暴れ回っている。
だけど、勝った。
エレベーターが目的階に着き、ドアが開いた瞬間、敏也は女の手を引いて、一目散に逃げるようにレストランへと走っていった。
私はトイレの個室に駆け込み、ドアを閉めた瞬間、激しい震えと安堵でへたり込んでしまった。
膝が、笑っていた。
手のひらが、汗でびしょびしょだった。
(落ち着け、私)
(まだ、終わりじゃない)
私はレストランの外でずっと2時間近く待っていた。
2人はディナーを終えたあとエレベータを使って降りる。
私はダッシュで階段を駆け下りた。
さすがにエレベータでもういちど鉢合わせするとバレるだろうから、1階に降りてからは距離を保って尾行を続ける。
おそらく2人はこのままホテルに行くのだろうがここからが、最後の、最も過酷な戦いだった。
入口で一枚撮っただけでは、何が起きたのかは分からない。入った時刻も、出てきた時刻も、場所も顔も、あとで確かめられるように残したかった。
夜10時。
二人が入っていくところの撮影には成功した。
ここからいつ出てくるかわからない2人をずっと待っていなければならない。
私はホテルの向かいにある、街灯も届かない暗い公園の植え込みの陰でスマホのカメラを構えてじっと張り込みを続けていた。
深夜1時。
この時間に出てこないということは、おそらく今日は泊まりだろう。
1月の夜の空気が、肺の奥まで刺さるように冷たい。
コンビニで買ったホットコーヒーは、30分もしないうちにすっかり冷え切っていた。
時計の針が、深夜3時を回った頃暗闇の中、草むらに潜んでシャッターチャンスを待つ私の背後に突然、強烈な懐中電灯の光が差した。
警察官が言った。
「……ちょっとそこのお姉さん」
「こんな時間に何してるの?」
心臓が止まるかと思った。
巡回中の警察官2人組に、完全に囲まれてしまった。
(終わった)
(ここで連行されたら、すべてが水の泡になる)
けれど、何と答えるべきか分からず、頭の中が真っ白になった。ここから動いたら、二人を見失うかもしれない。そのことばかり考えていた。
そして次の瞬間、わざと大粒の涙をボロボロと流しながら、声を激しく震わせた。
「ずびばぜん……旦那と、ものすごい大喧嘩しちゃって……」
「家を飛び出してきたんですけど、行くところがなくて」
「ここで泣いてました……ぐすっ」
警察官たちの「不審者を見る目」が一瞬で「深い同情の目」に変わるのがわかった。
警察官が言った。
「あ……そうだったんだ」
「夜道は危ないし、早く温かいところに行きなよ」
「旦那さんも心配してるよ。風邪ひかないようにね」
警察官たちが去っていく足音が、完全に聞こえなくなったとき。
私は植え込みの陰で、長い息を吐いた。
(よし)
(あとは、出てくるのを待つだけだ)
画面越しに見ていたときには、もっと冷静に動けると思っていた。けれど本人を目の前にすると、呼吸の仕方まで分からなくなる。写真を撮る手も、帽子のつばに触れる手も、敏也が少し動くたびに止まった。
娘を預けるとき、私はできるだけ普段どおりに話した。由香里には関係のないことだった。父親がどこで誰と会うかを、娘が考える必要はない。その当たり前を守るために、今ここにいるのだと自分に言い聞かせた。
警察官に声をかけられたあとも、震えは長く収まらなかった。無事に撮れたからといって、あの夜の自分の動きを、人に勧められるものだとは思わない。寒さと焦りで判断が狭くなっていた。そのことも含めて、後で弁護士に話した。
朝方の5時30分。
ホテルのエントランスから、髪が少し濡れた女と、満足げに財布をポケットに仕舞う敏也が腕を組んで出てくるのが見えた。
私はスマホのタイムスタンプ機能を起動し、2人の顔、ホテルの看板、そして白み始めた朝の光を完璧な動画として広角レンズに収めた。
入室から、実に7時間30分。
自分の目で見たことを、あとから確かめられる記録にできた。
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