エリート夫の処刑日~妻を貧困に追い込んだ見栄っ張り夫の末路~ 作:桐山さくらこ
数日後、娘が完全に寝静まったリビングで、私はソファに深く腰掛け、帰ってきた敏也を待っていた。
「あー、今日も疲れたわ」
いつも通りスマートなエリートのフリをして、ジャケットを脱ぐ。
テーブルの向こうに座る敏也を見ても、私は昔のレストランを思い出さなかった。思い出したのは、五万円の中から娘の必要なものを買うために、何を諦めるか考えた夜だった。敏也が外で見せる優しい顔を、私は毎日待っていたのだ。
声を荒らげれば、寝ている由香里が起きてしまう。私はゆっくり息を吐いた。娘が聞く必要のない言葉を、もうこの家で増やしたくなかった。
私はテーブルの上に通帳のコピーと、クレカの明細、それから自力で撮影した動画を並べた。
「敏也。離婚しましょう」
「これ、あなたの浮気の証拠ね」
敏也は一瞬、目を見開いて硬直した。
けれど、私のことを「月5万で震えてる無能主婦」と見くびっているあいつはすぐに鼻で笑って、信じられないほどの暴言を吐き捨てた。
「は? 何これ。他人の空似じゃないの?」
「画像もピンぼけしてるしさ。ストーカーみたいなことまでするなんて、お前まじでキモいわ」
「探偵ごっことか子供かよ」
「こんなの裁判で証拠になるわけねえだろ、バカ」
どこまでも私を小馬鹿にし、勝ち誇ったようにヘラヘラと笑う敏也。
説明してくれたら、まだ話し合えるのではないか。そう思った時期もあった。けれど目の前の敏也は、私の出した記録を確かめようともせず、私を笑った。何を見せても、私がどれだけつらかったかを聞く気はない。そのことが、最後に私の決心を固めた。
その浅はかな顔を見つめながら、私は冷え切った声で、静かに告げた。
「……わかったわ」
私はスマホをタップし、ある番号に電話をかけた。
「もしもし。用意ができたから、入ってきて」
「は? 誰に電話して……」
ピンポーン。
静かな夜のリビングに、インターホンの音が鳴り響いた。
私が玄関の鍵を開けると、リビングに入ってきたのは、あのホテルの動画に写っていた、20代前半の若い女だった。
「え……真子!? なんで、なんでここに……!?」
敏也の顔から、みるみる血の気が引いていく。
ガタガタと震え出す敏也の前に女は、冷え切った怒りの目で仁王立ちになった。
真子が尋ねた。
「敏也……あんた、私に『独身で天涯孤独だから、早く結婚して毎日高級フレンチ連れてってあげる』って言ってたよね?」
「この人、あんたの奥さんじゃん!!」
「子供までいるじゃん!!」
「あ、いや! これは違うんだ!」
「こいつはただの同居人で、もうすぐ離婚する予定で――」
「いいえ、離婚する予定なんて昨日まで1ミリもなかったわよ」
実はこの女性も、敏也の「スマートな高収入独身エリート」というハッタリに完全に騙されていた被害者だったんだよね。
私が尾行した翌日、彼女が働いているお店に直接連絡を取って、すべての証拠を見せていた。
真子が言った。
「私、不倫の加害者になんてなりたくない!」
「こんなクソ男、絶対に許せない!」
そう言って、二つ返事で協力してくれたんだ。
「敏也。あなたが『キモい探偵ごっこ』って笑った私の動画ね」
「弁護士さんにも、ほかの資料と一緒に確認してもらったわ。顔も場所も、あなたのお金の使い方も。どう説明するつもり?」
「あなたが私に月5万しか渡さず、老後のためって嘘をついてこの女性に貢いでいたお金の履歴」
「その使い込みも含めて、弁護士さんと請求する内容を整理しているわ」
真子が言った。
「私からも、貞操権侵害の慰謝料として300万円、きっちり請求させてもらうから」
「弁護士さんの書類、これ」
「ま、待ってくれ! 考え直してくれ!」
「小遣いは月3万でいいから! 全部春香が管理してくれよ!」
「頼むから会社や親にだけはバラさないでくれ!」
床に這いつくばってスマートのスの字もない惨めな姿で泣きつく敏也。
私は、その汚い頭を冷たく見下ろした。
「やめて。マジでキモい」
「子供の教育費を削って女と遊んでた男なんて、私の人生に1ミリも必要ないわ」
「これからは、その大好きな年収800万を」
「私と彼女への慰謝料と、子供の養育費のために」
「毎月死ぬ気で貢ぎ続けなさいよ」
敏也は絶望で言葉を失い。
そのまま床に崩れ落ちた。
*
手続きの間は、決めることが次から次へと出てきた。支払う額だけでなく、入金する日、連絡する方法、娘の生活に必要なこと。敏也に言った強い言葉を思い出して気持ちを支える日もあったが、それだけでは生活は作れない。私は分からないところを尋ねて、書類を読み直した。
真子と話したとき、彼女も私も、相手のせいにして楽になれる場所にいなかった。最初は、写真に写る彼女を見ただけで腹が立った。けれど会って話を聞くと、彼女にも信じていた約束があったと分かった。敏也は、それぞれが互いを知らないことに安心して嘘をついていたのだ。
彼女とこれからも親しく付き合うかは、そのときには決めなかった。同じ男に嘘をつかれたからといって、同じ人生を送るわけではない。必要な連絡をして、自分の暮らしへ戻る。それでよかった。
その後、離婚が成立した。
弁護士を通じた話し合いで、慰謝料や養育費、財産の扱いが決まった。真子も自分の受けた被害について手続きを進めた。私たちがその夜に言った請求が、全部そのまま認められたという話ではない。それでも、敏也が自分のしたことを私のせいにして済ませる余地は、もうなかった。
会社では『既婚を隠して若い女を騙し、家族を飢えさせていたケチ不倫男』として噂が広まり出世コースから完全に外されて、地獄のような日々を送っているらしい。
*
実家で迎える朝には、誰かの機嫌を測る時間がいらなかった。窓を開けたあと、私は洗濯物を干し、由香里の今日の予定を確かめる。失敗する日もある。買い忘れもするし、娘を待たせてしまうこともある。それでも、それを理由に無能だと呼ばれることはない。
由香里と買い物へ行ったとき、私はいつものように値札を見てから、必要なものを籠へ入れた。高いものを好きなだけ買えるようになったわけではない。けれど、娘のために買うものを、言い訳を用意しながら選ぶ必要はなくなった。
「これ、使っていいの?」
娘の問いかけに、私はうなずいた。
「うん。由香里に必要だから買ったんだよ」
その説明を、自分にも言っている気がした。暮らしのためにお金を使うことは、家族への裏切りではない。残った額を見るだけで、私の価値が決まるわけでもない。
母に助けてもらうことを、最初は申し訳なく思った。けれど母は、由香里が寝たあとに私の顔を見て言った。
「今日は休んだら。考えるのは、また明日でいいよ」
頑張らなければ居場所がなくなると思っていた私は、すぐにはうなずけなかった。その夜、湯気の立つカップを両手で包んでいるうちに、肩が下がった。誰かの助けを受け取ることまで、怠けだと思わなくていいのだ。由香里にも、いつかそう言える母親でいたかった。
高級フレンチに行った日の写真を見返すことは、もう少なくなった。あの頃の私は幸せだったし、今の私は違う幸せを選ぼうとしている。昔の笑顔を全部否定しなくても、そこへ戻ろうとしなくてもよかった。
コーヒーを淹れると、温かい香りが部屋に広がった。今日は娘の話を、数字を計算しながらではなく聞こう。今日できることを考えると、未来は少しずつ、自分の手の届くところへ戻ってきた。
今日も、窓を開けたら気持ちいい風が入ってきた。
私は実家に戻り、娘と一緒に、大好きなインテリアに囲まれた部屋で淹れたての美味しいコーヒーを飲んでいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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