食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
唐揚げを揚げた私だけが、唐揚げを食べられなかった。
大皿に残っているのは、千切りのキャベツと、小さな衣のかけら。私の取り皿は、出したときと同じように真っ白だった。
「直樹……私の分は?」
「あ。ごめん。うまくて食べちゃった」
夫はテレビから目を離さずに言った。
娘の花がこぼした水を拭いて、濡れた膝に布巾を当てていた。その、ほんの数分の間だった。
「今日の味、いいな。またこれ作ってよ」
夫の指が、リモコンのボタンを押す。
私は空の皿を持ち上げかけて、やめた。洗う必要さえなかった。
仕事帰りに鶏肉を買って、花の宿題を見ながら下味をつけた。油がはねるので、娘を台所から遠ざけ、何回にも分けて揚げた。最後の一個を網に載せたとき、ようやく食べられると思った。
おいしくできたかどうか、私はまだ知らない。
「ママ……」
花が、さっき濡らした袖を握っていた。
「私が、お水こぼしたから?」
「違うよ。花のせいじゃない」
そこだけは、すぐに答えた。
自分の茶碗を手前へ寄せる娘に笑ってみせ、私は台所へ戻った。冷蔵庫に卵があったはずだ。
フライパンの底で、白身の縁がちりちりと縮む。
食卓からテレビの笑い声が聞こえた。その声に、直樹の笑い声が重なる。
昔は、たくさん食べてくれるのがうれしかった。
それは本当だ。あの頃の私まで、間違っていたことにはしたくなかった。
*
七年前、私が働くスーパーに、直樹は食品メーカーの営業として出入りしていた。
親しくなったきっかけは、特売商品の納品ミスだった。
「やっぱり、二箱足りないですね」
伝票を見せると、直樹は鞄を足元に置き、空いた棚を確かめた。
「すみません。こちらの入力ミスです」
「今日中に持ってきてもらえませんか。明日から特売なんです」
無理なお願いかもしれないとは思った。けれど、毎回この商品を楽しみに来てくれるお客さんがいる。
事情を伝えると、直樹はもう一度棚を見た。
「確認してきます。少しお時間ください」
夕方、彼は二箱を抱えて現れた。額に汗を浮かべて、まず私に中身を確認させ、それからようやく笑った。
「間に合ってよかったです」
数日後に誘われたのが、店の裏にある定食屋だった。
唐揚げがおいしいんですよ、と彼は言った。私も唐揚げが好きだった。それだけのことが、その頃は妙にうれしかった。
付き合い始めてから、私の部屋でも作った。
「一個、味見してみて。揚げすぎちゃったかも」
「あっつ……うま!」
「ほんと? 硬くない?」
「俺、このくらい好き。外がカリッとしてて」
残りの料理を運んで戻ると、直樹は箸を置いていた。
「食べててよ」
「もう座れるんだろ? 待ってる」
向かい合って、いただきますと言った。
あの日、私の皿にも、揚げたての唐揚げはあった。
結婚してからも、直樹は私の料理を褒めた。
魚の切り身を買おうとすると、今日も唐揚げがいいと言った。
「仕事中から、ずっと食いたかったんだよ。遥のやつ」
「そんなこと考えながら仕事してたの?」
「うん」
しょうがないなあ、と鶏肉をかごに入れる。
今日は魚が食べたかったけれど、あんなに喜んでもらえるなら、明日でいい。その明日がまた延びても、大したことではないと思っていた。
*
花が生まれてから、私は食事の途中で席を立つことが増えた。
水を足す。口元を拭く。落ちたスプーンを拾う。
戻るたび、大皿のおかずが減っていた。直樹のおなかが空いているならと、自分の箸を止めることもあった。
ある晩、おかずを保存容器に取り分けて、私は念を押した。
「これ、明日の私のお弁当だからね。食べないでよ」
「分かってるって」
翌朝、その容器は流しにあった。
ふたは外れ、中は空っぽだった。
「昨日、食べないでって言ったよね?」
「夜、腹減っちゃってさ。ちょっとだけのつもりだったんだけど」
「全部ないよ」
「ごめんって。コンビニで弁当、買えば?」
直樹はネクタイを直しながら、玄関へ向かった。
「そういうことじゃ……作り直す時間、ないのに」
「俺、もう行くわ。遅れるから」
ドアが閉まった。
遅れるから。それは私も同じだった。
冷凍庫を開けて、弁当箱の隙間を埋められるものを探す。卵焼きを作りながら、時計を見る。花が連絡帳を持ってきた。
「ママ、ここ、ハンコ」
「ごめん、ちょっと待って」
火を止め、エプロンで手を拭く。
娘を待たせて謝るのも、足りなくなったおかずを作るのも私だった。
昼休みに開けた弁当は、ご飯ばかりが目立った。朝は考える暇がなかった空腹が、午後の品出しの途中でじわじわ効いてきた。
仕事を終え、保育園へ急ぎ、帰りに肉を二パック買った。
もっと作ればいい。
明日の分まで、十分にあれば。
「お、今日はいっぱいあるな」
食卓を見た直樹が、うれしそうに言った。
「これなら足りる?」
「うん。これくらいあるといいね」
よかった、と私は思った。
少なくとも、その夜は。
月末、家計簿を開いた直樹が眉を寄せた。
「食費、増えてない?」
「前より多く作ってるからね」
「もうちょっと安くできない?」
私は買い物のレシートを見た。夕方まで働く日には、いくつもの店を回って値段を比べる余裕はない。それでも、特売の日にまとめて買うようにはしていた。
「……量、戻していいの?」
「いや、足りないのも困るけどさ」
「じゃあ、どうすればいいのよ」
「何で怒るんだよ。ちょっと聞いただけじゃん」
直樹は家計簿を置き、テレビをつけた。
私はその場に残って、数字を見ていた。
量を増やす。値段は抑える。私の分を減らす。
頭に浮かんだ最後の方法を、慌てて打ち消した。
この頃はまだ、お皿を分ければ解決すると思っていた。
誰の分か分かるようにしておけば、さすがに取らないだろうと。
*
花が小学生になる頃には、夕食を一人ずつの皿に盛るようになっていた。
直樹のおかずは、私より多め。弁当用の保存容器には、紙も貼った。
『明日の弁当用。食べないで』
冷蔵庫の前でその文字を眺めていると、職場の共用冷蔵庫みたいだと思った。けれど、間違えたと言われるよりはいい。
これでようやく、自分の分を自分の速さで食べられる。
そう思って作った夕食は、花の好きなハンバーグだった。
「花、もういらないよね」
直樹の皿は、すでに空になっていた。
花の皿には、ハンバーグが一口だけ残っている。
「あっ、まだ食べる!」
娘が声を上げたときには、夫の箸がそれをつかんでいた。
止めるより先に、口の中へ消える。
「え?」
「最後に食べようと思ってたのに……」
「ずっと置いてあるから、いらないのかと思った」
「いるよ」
花は皿を見つめたまま言った。
泣きわめくわけでも、怒鳴るわけでもない。さっきまで揺れていた足が、椅子の下で止まっていた。
「今、食べるって言ったでしょう」
「聞こえなかったんだよ。ごめんごめん」
「直樹の分、ちゃんとあったよね」
「ちょっと足りなかったんだって」
言いながら、直樹は味噌汁を飲んだ。
もう済んだ話にされたことが分かる。その間も、花の箸は机に置かれたままだった。
私は自分のハンバーグを半分に切った。
「はい。ママの、半分こしよう」
「ママのは?」
「まだあるよ。ほら」
二つの皿に、半分ずつ。
花は私の皿を確かめてから、小さくうなずいた。
私は花に食べてほしくて、自分の分を渡した。
だからいいのだと思いたかった。でも、おいしいものを二人で分け合ったときの楽しさは、どこにもなかった。
数日後の夕食で、花が唐揚げを頬張ったまま涙目になった。
「あつっ」
「ほら、ゆっくり。まだ熱いでしょう」
口の中にはまだ残っているのに、箸では次の一個をつかんでいる。
「だって、パパが食べちゃうから」
叱られた子の言い訳のように、娘は言った。
私は思わず直樹を見た。今の言葉を聞いて、さすがに気づいてくれると思った。
「お、じゃあパパも負けないぞ」
直樹が笑って、娘の皿へ箸を伸ばした。
「やだ!」
花が皿を抱え込んだ。底がテーブルの縁に当たり、硬い音がした。
「冗談だって」
「直樹、やめて」
私の声に、夫はようやく箸を引いた。
花の肩には力が入ったままだった。私はその隣へ椅子を寄せ、唐揚げを小さく割って冷ました。
「大丈夫。ゆっくり食べようね」
大丈夫と言うには、まずこの手を緩めてやらなくてはいけない。
皿の縁に重なる小さな指を見て、そう思った。
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