食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
「さっきみたいなの、もうやめて」
花が眠ってから、私は直樹の前に座った。
「花、本当に嫌がってたよ」
「取ってないじゃん」
「今まで取ってたから、怖がるんだよ。この頃ずっと早食いなの、気づいてた?」
「そんなに深刻な話か?」
直樹はため息をついた。
「私には深刻だよ。あの子、自分のお皿を抱えてたでしょう」
「分かったよ。もうしないから」
「前もそう言ったよ」
「じゃあ、何て言えばいいんだよ」
言葉に詰まった私を見て、直樹は背もたれに体を預けた。
「食事の時くらい、楽しくしようよ。毎回、あれも駄目、これも駄目ってさ」
「……私も、楽しく食べたいんだけど」
テレビの音量が一つ上がった。
話を終わらせたくなくて座っている私に、直樹は週末の予定を尋ねた。母さんが顔を見せろと言っているらしい。
お義母さんから言ってもらえば、聞いてくれるかもしれない。
思いついたとき、少しだけ気持ちが軽くなった。
けれど、週末の義実家でも、同じことが起きた。
直樹は配膳が終わるのを待たずに食べ始め、花の皿から肉を取った。
「直樹、それ花の分」
「ほら、あっちにもあるだろ。遥、花に取ってやれよ」
あっちにあるのなら、自分で取ればいい。
言いかけた私より先に、お義母さんが笑った。
「好きだったでしょう。たくさん食べなさい」
食後、台所で二人になったとき、私は思い切って話した。
「家でも、私や花の分まで食べるんです。量も増やしましたし、お皿も分けました。でも、取るんです」
「あの子、昔からよく食べるのよ」
「私が言っても聞いてくれなくて。お義母さんからも、言っていただけませんか」
お義母さんは洗った皿を私に渡した。
「でもねえ。男の人には、おなかいっぱい食べてもらわないと」
水の流れる音が続く。
「私なんて、いつも最後だったわよ。お父さんと子どもたちが食べて、残ったものをね」
「おなか、空きませんでした?」
「慣れるのよ。家族がおなかいっぱいなら、それでいいじゃない」
布巾で拭いた皿は、もう乾いていた。それでも私は、縁を何度もこすっていた。
家族。その言葉の中に、お義母さん自身は入っていないのだろうか。
「でも、花まで我慢するのは……」
「花ちゃんも、先にパパに一つあげればいいのよ」
「花が、ですか?」
「女の子なんだから。少しずつ、そういう気遣いも覚えないとね」
流しの隣には、お義母さんの食事が置かれていた。
少量の冷めた料理に、まだ使っていない箸。
私はその皿を見たまま、返事ができなかった。
帰り際、お義母さんは料理の入った容器を直樹に渡した。私が食べすぎを心配していたから、と添えて。
「母さんにまで言ったの?」
直樹がこちらを向いた。
私が口を開く前に、お義母さんが言った。
「しっかり食べてもらうのも妻の役目だって、話してたのよ」
「ほら。母さんだって、そう言ってるじゃん」
助けを求めたはずだった。
持ち帰ったのは、夫が私を黙らせるための、新しい言葉だった。
その夜、直樹は私のおかずを取りながら言った。
「母さんは、そんなことで文句言わなかったぞ」
私は箸を止めた。
隣から、小さな箸が伸びてくる。
「ママ、これあげる」
「花、それ好きでしょう」
「ママも好きでしょ?」
娘は私が喜ぶのを待っていた。
お義母さんの台所にあった、手つかずの箸を思い出した。
「……ありがとう。でも、これは花が食べて」
おかずを戻し、娘の頭に触れた。
花は私の顔を見ていた。食べていいか、もう一度確かめるように。
うなずきながら、私は決めた。
この子に、空腹の我慢を覚えさせてはいけない。
*
「遥、今日、急いでる?」
久しぶりに会った真紀にそう聞かれて、私は箸を止めた。
平日の昼。二人の前には、同じ定食が並んでいる。真紀の皿にはまだ料理がたっぷりあるのに、私の皿は半分近く空いていた。
「このあと、何か用事があるのかと思って」
「ううん。ないよ」
口の中に残っていたものを飲み込む。
おいしいかどうかも、ろくに考えずに食べていた。
「……癖になっちゃったのかな」
「癖?」
「家だと、早く食べないとなくなるから」
言葉にして初めて、そんなことを当たり前にしている自分に驚いた。
真紀は笑わなかった。
「直樹さん?」
うなずいた途端、昨夜まで頭の中で繰り返していた話が、順番を失って出てきた。
私が花の世話をしている間に、おかずがなくなること。皿を分けても取ること。花がまだ食べると言ったのに、飲み込んでしまったこと。
「それは嫌だよ。花ちゃんだって怒るでしょう」
「うん。でも、ごめんごめんって。それで終わりなの」
真紀が箸を置いたので、私も置いた。
話している間に取られることはない。ここでは、急ぐ必要がない。
「この前、花が私におかずをくれようとしてね。ママも好きでしょって」
「うん」
「戻したんだけど……何で、あの子がそんなこと気にしなきゃいけないんだろう」
声がつかえた。
泣くつもりで来たわけではなかった。大した話じゃないんだけど、と最初に断るつもりでさえいた。
「お義母さんにも相談したの。でも、家族がおなかいっぱいなら、妻はそれでいいんだって」
真紀は私の皿を見てから、顔を上げた。
「遥は、おなか空いてるのにね」
その一言に、うまく返事ができなかった。
量を増やせば。先に取り分ければ。気にしなければ。
今まで、どうすれば私が困らなくなるかという話ばかりしていた。私が空腹だということを、ただそのまま受け取ってくれた人はいなかった。
「……そうだよ。私だって、食べたいよ」
目の前がぼやけた。
「自分で作ったんだもん。おいしいって言われたら、私も食べたい」
真紀が紙ナプキンを寄せてくれた。
涙を拭く間も、私の定食は私の前にあった。
「直樹さん、自分が取られても、同じこと言えるのかな」
「無理。絶対怒るよ」
「一度、誰かに取られてみたらいいのにね」
真紀の声には、友達の夫に対する遠慮より、腹立たしさがにじんでいた。
私は、その言葉を聞き流せなかった。
「……そしたら、分かるかな」
真紀がこちらを見る。
「自分が嫌だったら、もうやめてくれるかな」
私が先に直樹の分を食べれば、けんかになるだけだと思った。今だって、私の話には最後まで耳を貸さない。
でも、ほかの誰かに同じことをされたら。
真紀は少し迷ってから、スマートフォンの写真を見せた。
食べ放題の店で笑う女性の隣に、空の皿が積まれている。
「友達に、すごく食べる子がいるんだけど。玲奈っていうの」
「これ、一人で?」
「うん」
私は写真を見つめた。
誰かに夫の食事を邪魔してもらう。そんな頼み事をしようとしている自分に、ためらいはあった。
それでも、花の皿を抱える手が頭から離れなかった。
「この人に、会えるかな」
「まずは三人でご飯でも食べよう。頼むかどうかは、会ってからでいいし」
*
玲奈さんは、メニューを開くなり目を輝かせた。
「これ、おいしそう。大盛りにしようかな」
「それでも足りなかったりして」
「その時は、もう一つ頼む」
真紀と笑い合う姿につられて、私も少し笑った。
定食が届いてから、花の話をした。最後の一口のハンバーグ、と聞いた玲奈さんが、眉を下げた。
「私も好きなもの、最後に取っておくんです。その味で終わりたいから」
「花も、そうなのかな」
「楽しみにしてたでしょうね」
私は、娘に半分渡したハンバーグを思い出した。
花が食べたかったのは、ただ同じ味の肉ではなかったのかもしれない。自分でここまで残して、最後に食べようと決めていた、あの一口だったのかもしれない。
玲奈さんは私たちより先に食べ終えた。空の皿を見て、私はいつものように尋ねた。
「足りた?」
「もう少し、いけそうです」
「これ、食べる?」
自分の皿を差し出すと、彼女は不思議そうな顔をした。
「遥さんは、もうおなかいっぱいですか?」
「ううん。まだ食べられるけど」
「じゃあ、食べてくださいよ。私、追加で頼めばいいんですから」
玲奈さんは店員を呼び、もう一品注文した。
私の皿には、指一本触れなかった。
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