食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
この人は、直樹よりずっと食べる。
それなのに、隣にいても焦らない。
「遥、冷めちゃうよ」
真紀に言われ、私は皿を引き戻した。
まだ食べたいと答えた自分が、ひどくわがままに思えた。その感覚まで、少しずつ直さなくてはいけない気がした。
食後、バーベキューの話を切り出した。
真紀の説明を聞いた玲奈さんは、すぐにはうなずかなかった。
「ご主人が食べようとしてるお肉を、わざと取るってこと?」
「うん」
「それは、怒るんじゃないですか」
「たぶん、怒ると思う」
「帰ってから、遥さんが怒られません?」
私は膝の上で手を握った。
「そうかもしれない。でも、嫌だって言っても、気にしすぎだって。花が嫌がっても、冗談だって笑うの」
話し合いをした夜の、テレビの音を思い出す。
「自分も嫌だったら、少しは聞いてくれるかなって」
「遥。やっぱりやめようと思ったら、やめていいんだよ」
真紀を見て、うなずいた。
それから、玲奈さんに向き直った。
「でも、一度だけやってみたい」
彼女は少し黙っていた。
「分かってくれたら、また一緒にご飯を食べたいんですか?」
「うん。花と三人で、普通に食べたい。それだけなんだけどね」
言ってみると、あまりにも小さな願いだった。
けれど、自分一人では、それすらかなえられずにいた。
「分かりました。でも、本気で嫌がったら、そこでやめますね」
「うん。ありがとう。こんなこと頼んで、ごめんね」
花と私の分は、真紀が先に取り分けておくことになった。玲奈さんは、自分が多く食べる分のお金を払うと言った。おにぎりも、焼きそばも用意する。
誰かを空腹のまま帰す必要はない。
食べたいと思っていたものが、目の前からなくなる。その気持ちだけ、知ってほしかった。
その夜、誘いを聞いた直樹は機嫌よく笑った。
「いいじゃん。パパがお肉焼くぞ」
「やったあ!」
花が夫に駆け寄った。
二人を見ながら、胸の奥がためらいで重くなった。
このまま当日も、楽しく過ごせるならいいのに。
そのために何度も話をして、何度も諦めてきたことを、私はもう一度思い出した。
*
日曜日、直樹は待ち合わせのスーパーで玲奈さんに会うと、愛想よく笑った。
「結構食べるって聞きましたよ」
「はい。お肉は特に好きなんです」
「俺もです。今日は遠慮なしでいきましょう」
肉売り場では、二人の話が弾んだ。
直樹が勧めた肉を、玲奈さんも好きだと言う。脂の甘さや焼き加減の話をしながら、夫は次々とパックをかごに入れた。
「遥、これもいい?」
見せてきたのは、ほかの肉より値段の高いパックだった。
特にきれいな二切れを見て、直樹が笑う。
「せっかくだし、これも焼きたいな」
「うん」
「これは失敗できないなあ」
真紀と花が野菜売り場へ向かい、玲奈さんもそのあとを追った。二人になったとき、直樹が私に顔を寄せた。
「気が合うな、あの人。今日、楽しみだわ」
「……うん」
「何? 肉、買いすぎた?」
「ううん。大丈夫」
肉の重みで、かごの持ち手が腕に食い込んだ。
楽しみだと言われるのは、思っていたよりつらかった。
やめようか。今なら、ただのバーベキューにできる。
そのとき、売り場の先から花の声が聞こえた。
「おにぎりもあるんだよね?」
娘も、今日の食事を楽しみにしている。
家でハンバーグを食べる日も、唐揚げを揚げた日も、こうして楽しみにしていたはずだった。
私はかごを持ち直した。
*
バーベキュー場では、直樹が張り切って肉を焼いた。
脂が落ちるたびに煙が上がり、花が鼻をひくひくさせる。
「この辺、もう食べられるよ」
「じゃあ、花ちゃんの分、先にもらうね」
真紀が皿に肉と野菜を載せ、おにぎりを添えた。
「ママのは?」
受け取るより先に、花が尋ねた。
「ここにあるよ。ママにも、ちゃんと取ってあるからね」
「よかった。いただきます!」
真紀と目が合った。
私は小さく頭を下げ、娘にゆっくり食べるよう声をかけた。
「みんなも、どんどん食べて」
直樹は一切れを口に入れ、うんとうなずいた。
玲奈さんも食べ始める。
「おいしい!」
「でしょう? これ、選んで正解でしたね」
最初のうち、直樹は彼女の食べっぷりを喜んでいた。
空になった皿を見るたび、もう食べたんですか、と笑って新しい肉を並べた。
変わり始めたのは、三度目に網が空いた頃だった。
直樹の取り箸が焼けた肉へ向かう。そのすぐ先で、玲奈さんのトングが肉を持ち上げた。
「あ、それ……」
「これも、いただきますね」
「ああ、どうぞ。次、焼きますから」
直樹は笑っていた。ただ、次のパックを開ける指に力が入っていた。
私は花の飲み物を足しながら、網の前を見ていた。
直樹はいつも、作った人間の箸が止まっていても気にしなかった。自分が焼く側に回った今日は、何度も自分の皿を確かめている。
「ちょっと、お茶取ってきます」
直樹が網を離れた。
戻ってきたとき、焼けていた肉はすべて玲奈さんの皿に移っていた。
「あれ? もう全部取っちゃったんですか」
「焼けてたので。冷めないうちにと思って」
「……俺も食べようと思ってたんですけど」
「あ、そうだったんですか」
直樹が網を見る。
その顔を見たとき、空の大皿の前で立っていた自分を思い出した。
あのとき私も、そんな顔をしていただろうか。
「まあ、まだありますからね」
直樹は声を明るくした。
真紀が、私に取り分けておいた皿を渡してくれた。
「遥も座って食べよう」
「ママ、隣!」
花が椅子をぽんぽんとたたく。
腰を下ろし、肉を一口食べた。まだ温かかった。噛むと脂の甘さが広がって、思わず息をついた。
「このお肉、おいしいよね」
「うん。おいしいね」
花はおにぎりに手を伸ばした。肉がまだ残っているのに、別のものを選べている。
私は、娘が咀嚼する頬を見ていた。
「じゃあ、いよいよこれ、焼きますか」
直樹の声に顔を上げた。
手にしているのは、あの高い肉だった。網の上に二切れを並べ、ほかの肉より慎重に返す。
「これは俺も食べますからね」
冗談めかしていたが、直樹の目は肉から離れなかった。
焼けた一切れを玲奈さんが取る。直樹は残った一切れをすぐ自分の皿へ移した。
「やっと食べられる」
ほっとした顔だった。
その皿へ、玲奈さんのトングが伸びた。
「これも、もらいますね」
「あ、ちょっと! それ、俺の……」
声が終わる前に、肉は彼女の口へ入った。
「あ……すみません。一切れくらい、いいかと思って」
「よくないですよ」
直樹の声が、はっきり低くなった。
玲奈さんはトングを下ろした。
「さっきから、俺が食べようとしたら全部取るじゃないですか。今のなんか、俺の皿にあったんですよ?」
「……はい」
「人の分まで取るの、ちょっとおかしくないですか?」
花の手が止まった。
真紀がすぐに娘の肩へ手を添えた。
「花ちゃん、お茶取りに行こうか」
「……うん」
二人が離れていく。
玲奈さんは、すみませんでしたと頭を下げた。それ以上、何も取らなかった。
直樹は椅子に座った。膝に置いた皿は、たれで汚れているだけだった。
私は隣に立った。
「直樹。焼きそば、まだあるよ」
「……俺、あの肉が食べたかったんだけど」
「うん」
分かるよ、と言いたかった。
おなかに何か入れば、それで済むわけではない。楽しみにしていた味があって、自分が食べるはずの一口があった。
でも、今それを言えば、責めるために近づいたようになる。
私は焼きそばをよそい、夫の前に置いた。
少し離れた場所にいる玲奈さんと目が合った。
彼女はもう笑っていなかった。私も、成功したとは思えなかった。
ここから、夫と話をしなければいけない。
*
帰りの車で、花は眠っていた。
直樹は前を向いたまま、ほとんど話さなかった。
「今日のことなんだけど――」
「今、運転してるから」
私は口を閉じた。
窓の外を、店の看板や夕方の歩道が流れていく。膝に置いた手を開いて、また握った。
夜、花を寝かせてから洗い物をしていると、直樹が戸棚を開けた。
「なあ、何かない?」
「おなか空いた?」
「ああ。俺、ろくに食ってないんだけど」
私は水を止めた。
直樹は戸棚を閉じ、私を見た。
「見てただろ。最後なんか、俺の皿からだぞ」
今度こそ、途中で話を終わらせたくなかった。
濡れた手を拭き、夫の方へ体を向けた。
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