食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
「人の皿に載ってるんだから、食べるに決まってるじゃん」
直樹は、もう何度目かになる言葉を繰り返した。
私は布巾を置いた。
「嫌だったよね」
「当たり前だろ。あれ、すごく楽しみにしてたんだよ。自分で選んで、焼いてさ。結局、食ってるところを見てるだけ」
直樹が戸棚から手を離す。
「あんなのと一緒に食っても、全然楽しくないよ」
「……私も、そうだったよ」
夫がこちらを向いた。
「私も、ずっと楽しくなかった」
「いや、俺はあそこまで――」
「花のハンバーグ、最後の一口を食べたでしょう」
「それは……一口だけだろ」
「今日のあのお肉も、一切れだったよね」
直樹は何か言いかけて、やめた。
「でも、嫌だったんでしょう?」
答えを待った。
いつもなら、ごめんって言ってるじゃん、と話を切られるところだった。テレビをつけるために、ここを離れてしまうところだった。
直樹は、その場に立っていた。
「花も、おいしいものを最後まで楽しんで食べたかったんだよ」
「……そうか」
低い声だった。
うなずいた拍子に、我慢していたものが目元へ集まった。
「私の唐揚げがなくなったときも、おいしかったって言ったよね」
「ああ」
「でも私、食べてないの。一個も」
直樹の視線が、私の顔に戻った。
「ずっと立って揚げて、やっと座れると思ったら、もうなかった。私も、熱いうちに食べたかったよ」
あの日、油の前で汗を拭いた。味噌汁を運び、水を拭いた。直樹から見れば、ただ席を外していた数分だったのだろう。
私には、その前から続く夕食の支度の、最後の数分だった。
「……あのあと、何食べたの?」
「卵、焼いたよ。おなか空いてたから」
直樹は流しを見た。
今そこに卵のフライパンはない。それでも、夫が初めてあの夜の台所を見てくれた気がした。
「私や花が嫌だって言ったとき、ちゃんと聞いてほしかった」
「……ごめん」
「もう、自分の分まで取られるかもって思いながら、食べたくないよ」
「分かった。もう取らない」
「花のもだよ」
「うん。明日、花にも謝る」
信じていいのかは、まだ分からなかった。
でも、いつもの軽い、ごめんごめん、とは違って聞こえた。
しばらくして、直樹が財布を持って玄関へ行った。
「何か買ってくる。今から作ってもらうのも、悪いし」
「……そっか」
「遥は、何かいる?」
私に尋ねたことに、少し驚いた。
「ううん。私は食べたから」
「うん」
直樹が買ってきたのは、一人分の弁当だった。
温め終わると、自分で食卓へ運んだ。私は流しを拭きながら、何度も振り返りそうになった。
何か作ってよ、と呼ばれなかったことが、こんなにも珍しかった。
*
翌朝、花は直樹の声に少し身を縮めた。
「花。今まで、おかずを食べてごめんな」
娘が父親を見る。
小さな手は、まだ自分の皿のすぐそばにあった。
「最後に食べたかったんだよな。ハンバーグ」
「……うん」
「もう取らないから」
「ほんとに?」
「ああ」
花は考えてから、もう一つ尋ねた。
「食べるの、遅くても?」
私は茶碗を持つ手を止めた。
早く食べる約束なら、守れると思っていたのだろうか。取られたくないなら自分が急がなくてはいけないと、この子はどこまで信じていたのだろう。
「待ってる。花のだから、ゆっくり食べていいよ」
直樹が言うと、花はようやく箸を取った。
その朝だけで、安心しきったわけではなかった。
数日たっても、夫の皿が空になると、娘は自分の皿へ手を添えた。
「ご飯、まだある?」
直樹が立ち上がると、花の目がその箸を追った。
「うん。よそってこようか?」
「いいよ。自分でやる」
夫は炊飯器へ向かった。
花の皿には、好きなおかずが一口残っている。そのまま、なくならずに。
「花もおかわりする?」
「ううん。これ、食べる」
娘は最後の一口を口へ運んだ。ゆっくり噛んで、それから笑った。
「おいしい」
「よかったね」
胸の奥が、温かくなった。
最後の一口を食べられただけでこんなにうれしいことを、以前の私は知らなかった。
バーベキューから二週間後、私はまたハンバーグを作った。
味噌汁の盆を持って戻ると、二人ともまだ箸を置いていた。
「もう座れる?」
直樹が尋ねた。
七年前の部屋を思い出す。小さなテーブルの向こうで、私が座るのを待っていた人。
「うん。お待たせ」
三人で、いただきますと言った。
花は学校で逆上がりができた話を始めた。
「ちょっとだけ、先生に手伝ってもらったけど」
「じゃあ、今度パパにも見せてよ」
「うん!」
娘は手を動かして、鉄棒を回る様子を説明した。両手とも、皿から離れていた。
私は話を聞きながら、ハンバーグを切った。中から肉汁が流れ出す。
花の話を聞き終えても、残りはちゃんとそこにあった。
「最近、ご飯の時間が楽しいね」
思ったままを口にすると、直樹は少し照れたように笑った。
「……そうだな」
その夜、私は真紀にメッセージを送った。
『最近、三人で落ち着いて食べられてる。花もゆっくり食べてるよ。本当にありがとう』
すぐに返事が来た。
『よかった! 遥もちゃんと食べてる?』
『うん。今日のハンバーグ、温かいうちに全部食べられた』
全部、と打ってから、画面を見つめた。
それは、私にとっては報告するほどの出来事だった。
『玲奈にも伝えておくね』
笑みが浮かんだ。けれど、その名前を見たあと、胸に小さな重さが残った。
花が眠ってから、直樹が湯飲みを持って私の向かいに座った。
「あの、玲奈さんって、また会う?」
「まだ約束はしてないけど。どうして?」
「俺、謝っときたいんだよな」
私は顔を上げた。
「あの日、おかしいんじゃないかって言っただろ。自分だって同じことしてたのにな。あの人だけ謝らせちゃったし」
直樹は苦笑した。
「自分がやられて初めて怒るって、格好悪いだろ」
そんなことまで考えてくれていた。
うれしさのあとで、スマートフォンを握る手に力が入った。
この人が知らずに謝りに行くのを、私は黙って見ているのだろうか。
「どうした?」
直樹は私の返事を待っていた。
今なら、ちゃんと話せる。間違えたことも謝って、もう一度やり直せる。
「その前に、私も謝らなきゃいけないことがあるの」
私は顔を上げた。
「あの日、あなたのお肉を先に食べてって……私が、玲奈さんに頼んだの」
*
直樹は湯飲みを持ったまま、私を見ていた。
「……頼んだ?」
「うん」
「何を。俺に食わせないようにって?」
「食べようとしたものを取られたら、どんな気持ちになるか、分かってもらえないかなって」
夫の指が、湯飲みの縁にかかった。
「わざとだったのか」
「……うん」
「最初から?」
「最初から」
湯飲みが机に置かれた。
私はそれを見ずに、直樹の顔を見ていた。今度は、私が話から逃げてはいけないと思った。
「じゃあ、真紀さんも知ってたんだな」
「相談したの。何度言っても、私や花の分まで食べちゃうから……」
「買い物してる時も?」
「うん」
直樹はしばらく黙った。
「俺、あの人と気が合うと思ってた」
スーパーで聞いた声がよみがえった。今日、楽しみだわ。あのとき私がためらった理由が、今、目の前にあった。
「お前にも、楽しみだって言ったよな」
「覚えてる」
「どんな顔して聞いてたんだよ、それ」
私は頭を下げた。
「ごめんなさい」
「俺だけ何も知らないで、張り切ってたわけか」
「笑いものにしたかったんじゃないよ」
「じゃあ、何だよ」
「何を言っても聞いてもらえなくて……どうしたらいいか、分からなかった」
「だからって、人をだましていいのかよ」
首を振った。
嫌な思いをしたから、何をしてもよかったとは思わない。私が頼んだ。そのことを、友達の思いつきだったと言って逃げるつもりもなかった。
「よくなかった。黙って頼んだことは、悪かったと思ってる」
直樹は私を見ていた。
「俺がここで謝った時は?」
「え?」
「ごめんって言っただろ。花にも謝るって。うまくいったって思ってたんだ?」
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