食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~   作:桐山さくらこ

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善意という言い訳

あの夜の気持ちを、嘘にはできなかった。

 

「……分かってくれたって思った。うれしかったよ」

「同じことだろ」

「違うよ。やっと三人で、普通に食べられるって」

「今も真紀さんに、そうやって報告してたわけだ」

 

 膝の上の画面には、ハンバーグを全部食べられたという私の言葉が残っていた。

 

「花がゆっくり食べられるようになったって、伝えてた」

「俺が言うこと聞くようになったって?」

「直樹、そういう言い方は……」

「俺、すげえ馬鹿みたいじゃん」

 

 直樹がうつむいた。

 私は伸ばしかけた手を止めた。今、触れられたくはないのかもしれない。

 代わりに、できるだけゆっくり言った。

 

「今なら、ちゃんと話せると思ったの。隠したままにしたくなくて」

「……今さら聞きたくなかったよ」

 

 机の上の湯飲みから、もう湯気は上がっていなかった。

 夫が傷ついているのは分かった。でも、何と言えば届くのか分からなかった。

 

 直樹が勢いよく立った。

 

「待って。私――」

「もういい。今は話したくない」

 

 戸が閉まった。

 私はしばらく、その前に立っていた。

 ごめんなさいと、また言おうとしてやめた。戸越しに繰り返しても、今は私が楽になりたいだけになる気がした。

 

 少し時間を置こう。

 明日が無理なら、明後日でもいい。隠していたことを怒るのは当然だ。それでも、話し合えた二週間までなくなったわけではない。

 私は二つの湯飲みを、台所へ運んだ。

 

*

 

 数日間、直樹は必要なことにしか返事をしなかった。

 花には普通に話す。私が話しかけると、短く答えてスマートフォンを見る。

 夕食の皿は、まだ誰からも取られていなかった。私はそのことに、細い望みをつないでいた。

 

 翌日に着る制服を乾かし、寝室のハンガーに掛けた夜も、夫はベッドで画面を見ていた。

 

「明日、これ着るから。ここに掛けておくね」

「ああ」

 

 私はハンガーの向きを直した。

 

「ねえ。あの日のこと、もう少し話せないかな」

「寝たいんだけど」

 

 直樹の指は、まだ画面を動かしていた。

 

「……分かった。おやすみ」

 

 翌朝、ハンガーは空だった。

 別の服の後ろを探した。昨日の位置を思い違いしたのかと、隣のハンガーもずらした。

 

「直樹、ここにあった制服、知らない?」

「洗濯機じゃない?」

 

 洗濯機の中で、制服はほかの衣類に絡まっていた。

 持ち上げた袖が冷たい。水を含んだ生地が、指にまとわりついた。

 

「何で、これが……」

「ほかのと一緒に洗っておいたよ」

「昨日、乾かして掛けてあったんだよ? 今日着るって言ったじゃない」

「汚れてると思ったんだよ。じゃあ、乾かせばいいだろ」

 

 時計を見た。

 もう出る時間だった。乾燥を待っていたら間に合わない。

 タオルで挟んで押したが、襟も袖口も湿ったままだった。

 

 まず、店へ連絡しなければ。

 頭では分かっているのに、どう説明すればいいか迷った。前の晩に準備した制服を、朝になって着られなくした。それだけ聞けば、私の不手際にしか思えない。

 

「すみません。少し遅れます。制服が濡れてしまって……はい。急いで向かいます」

 

 電話をしながら顔を上げた。

 直樹がこちらを見ていた。

 口元が、ほんの少し上がっていた。

 

 見間違いかもしれない。

 そう考えようとしたのに、夫は私が気づくと、すぐに顔をそらした。

 

 店に着いたときには、すでに持ち場へ入る時刻を過ぎていた。同僚が更衣室で予備の制服を貸してくれた。

 

「サイズ、合うかな」

「ありがとう。助かる」

 

 袖を通す。少し大きかったけれど、乾いていた。

 普段なら気にもしないその感触に、安堵してしまった。

 売り場へ出る前に、もう一度謝った。私が来るまでの仕事を引き受けてくれた人にも、頭を下げた。

 

 直樹は、笑っていた。

 商品の箱を開けていても、その顔が何度も浮かんだ。

 

 夜、遅刻したことを伝えると、夫はテレビを見たまま言った。

 

「着るもの、あったんじゃん」

「そういう話じゃないでしょう。今日着るって、昨日も言ったよね」

「だから、汚れてると思ったんだって」

「私が電話してる時、何で笑ってたの?」

「笑ってないよ」

 

 直樹がこちらを向いた。

 

「洗っただけで、そこまで言われるのか。善意でやったのに」

 

 私は制服の袖を握った。

 偶然なのだとしたら、次は気をつけてほしい。それだけのお願いさえ、今の夫には責め言葉になる。

 

「仕事のものには、もう触らないで」

「はいはい」

 

 その晩、洗い直して乾いた制服を、私は畳んで仕事の鞄に入れた。

 しわがつかないように、そっとファスナーを閉じる。

 自分の家で、自分の服を、夫から隠すように片づけていた。

 

*

 

 真紀と会う約束は、前からしていた。

 花のことは直樹に頼んであったけれど、金曜の夜、私はもう一度確かめた。

 

「明日、お昼前に出て夕方までには帰るね。花のこと、お願いしてた通りで大丈夫?」

「……真紀さんね」

「うん」

「ああ、いいよ」

 

 返事を聞いて、息をついた。

 制服のことを真紀に聞いてほしかった。自分の見間違いなのかもしれないと考えては、電話中の直樹の顔を思い出す。その繰り返しで疲れていた。

 

 翌日、花の昼食を用意してから着替えた。

 鞄を肩に掛け、ソファの直樹に声をかける。

 

「じゃあ、そろそろ行ってくるね。花、お昼はパパと――」

「あ、今日は無理」

 

 玄関へ向かいかけた足が止まった。

 

「え?」

「俺も予定ができたから」

「今から? 昨日も大丈夫って言ったじゃない」

「急に決まったんだよ」

 

 私は時計を見た。真紀も、もう出る頃だ。

 

「何時から? 私、早めに帰ってくるから」

「そういうの、いいから。お前が断れば済むだろ」

「でも、もう――」

「だったら、早く連絡してやれよ」

 

 花が鞄の紐をつかんだ。

 

「ママ、行かないの?」

「……ちょっと待ってね」

 

 娘の前で言い合いを続けたくなかった。

 廊下へ移り、真紀に電話をかけた。直樹が急に花を見られなくなったと伝えると、真紀は驚いたあと、分かったと言ってくれた。

 

「本当にごめんね」

 

 通話を終えたとき、居間からゲームの起動音が聞こえた。

 直樹はコントローラーを握っていた。

 

「……出かけるんじゃないの?」

「何で?」

「予定があるって」

「今日はゆっくりゲームする予定なの」

 

 私は入口に立ったまま、夫を見た。

 靴も履いていない。服も着替えていない。最初から、ここを出るつもりなどなかったのだ。

 

「ゲームするから、花を見られないってこと?」

「疲れたから、今日はゆっくりしたいんだよ」

 

 画面の中で、明るい音楽が流れた。

 花が私のそばに来たので、私は唇を結んだ。ここで娘の世話を押しつけ合うような言い方は、したくなかった。

 

 鞄を下ろしかけたところで、スマートフォンが鳴った。

 

『花ちゃんも一緒に来ない? 少しでも会えたらうれしい』

 

 真紀からだった。

 私は画面を二度読んで、花の前にしゃがんだ。

 

「真紀おばちゃんに会いに行こうか」

「ママと?」

「うん。一緒に」

「行く!」

 

 直樹と二人で食べるはずだった昼食を片づけ、娘の外出の支度をした。少し遅れることを真紀に伝えると、待ってると返ってきた。

 その短い返事のおかげで、靴を履けた気がした。

 

「結局、行くんだ」

 

 直樹が廊下に立っていた。

 

「花も一緒にって、言ってくれたから」

「また俺の悪口の相談?」

 

 花の手が、私の手の中で動いた。

 

「……友達に会いたいだけだよ」

 

 私は娘の手を握り直して、ドアを開けた。

 

*

 

 喫茶店で、真紀は最初に花へメニューを見せた。

 

「何にする?」

「オレンジジュース!」

 

 娘がケーキの写真を眺め始めると、真紀が私に目を向けた。

 

「……大丈夫?」

「うん」

「何か、あった?」

 

 聞いてほしいことは、たくさんあった。

 けれど、花の隣で父親の話をする気にはなれなかった。私は娘の髪を耳にかけ、それから真紀を見た。

 

「あとで聞いてもらってもいい?」

「もちろん」

「ありがとう。今日、顔見られてよかった」

「私もだよ」

 

 花はジュースの氷をストローで動かし、学校の友達の話をした。

 真紀は相づちを打ちながら笑っている。

 椅子に深く腰を掛けたのは、店に入ってから、ずいぶんたってからだった。膝に抱えたままだった鞄を、隣へ下ろした。

 

 花がいるので、大人同士の話はできなかった。

 それでも、来てよかったと思った。私が訪ねてきたことを、うれしいと言ってくれる人がいる。そのことを、家にいると忘れそうになっていた。




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