食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~   作:桐山さくらこ

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私が、働きたいんです

夜、花が寝てから、直樹に聞いた。

 

「今日のこと、わざとだったの?」

「何が?」

「私が出かけられなくなるって、分かってたんでしょう」

 

 直樹はしばらく私を見ていた。

 

「……お前だって、分かっててやっただろ」

 

 返事が出なかった。

 はぐらかされると思っていた問いに、別の出来事が結びつけられた。

 

「あの日のこと?」

「俺が困るの、分かっててやったんだよな」

「だから、制服も……?」

 

 直樹は否定しなかった。

 私は膝に置いた指を丸めた。

 

「私、謝ったよ。悪かったって。本当にそう思ってる」

「謝ったら終わりなのか? それ、お前が決めること?」

 

 その言葉には、すぐに答えられなかった。

 許してほしいからといって、許す時期を私が決めていいわけではない。

 でも、いつまで怒っているかという話と、私を遅刻させてもいいかという話は、同じなのだろうか。

 

「俺に、やられた方の気持ちを教えたかったんだろ。だったら、お前も分かってよかったじゃん」

「……いつまで、こんなことするの?」

「お前の態度次第だよ」

 

 直樹は迷わず言った。

 

「私が困れば、気が済むの?」

「嫌なら、俺を怒らせるようなことするなよ」

 

 何をすれば、怒らせずに済むのか。

 謝ったら足りないと言われ、友達に会えば悪口だと言われる。制服を触らないでほしいと頼めば、善意を疑うのかと言われた。

 次の朝、何がなくなっているのか。次の約束は、守ってもらえるのか。

 夫の顔を見ながら、そんなことを考えていた。

 

 翌日の夕食で、直樹は私の皿を見た。

 

「これ、もらうぞ」

「待って。私、まだ食べてる」

 

 止める声を聞きながら、箸が伸びてきた。

 肉を口へ入れた直樹は、私から目を離さなかった。

 

「お前だって、俺にやったじゃん」

 

 もう、気づかなかったのではなかった。

 私が食べるつもりだと知っていて、取っていた。

 

「……もう取らないって、言ったのに」

 

 花の声がした。

 

「花のは取ってないだろ。パパはママと話してるんだよ」

 

 娘は自分の皿を抱えた。

 二週間かけてようやく離れた両手が、また縁に戻っていた。

 

「花、こっちにおいで」

 

 私は娘の椅子を隣へ寄せ、二人の皿を夫から遠い側へ移した。

 

「そんなに警戒しなくてもいいだろ」

 

 直樹が笑った。

 私は笑えなかった。

 

 私が黙っていれば済むのではない。

 隣で花が、その黙り方を覚えてしまう。

 

 その夜、食卓を片づけてから、家計のメモを開いた。

 夫の食費をどう減らすかを考えるためではなかった。

 花と二人で暮らすのに、いくら必要なのか。

 私は初めて、その計算をした。

 

*

 

 家賃、食費、光熱費。

 スマートフォンで見つけた部屋の家賃をメモに写し、今の収入から引いていく。

 最後の数字を見て、私は息を吐いた。

 

「……足りないなあ」

 

 食費を減らすとしても、花にまた我慢をさせたくはなかった。学校で使うものや、急な出費もある。今月だけ何とかなればいい計算では、暮らしていけない。

 結婚前には、一人で部屋を借りていた。

 それなのに今、自分と娘が座る場所を一つ用意することが、とても遠かった。

 

 メモを閉じようとして、やめた。

 閉じても、直樹が待つ家しかなくなるだけだ。

 私は勤務表を横に置いた。

 

 まず、働く時間を増やせないだろうか。

 そのためには、花が学校から帰ったあとのことを考えなければならない。夫が見てくれるという前提には、もうできなかった。

 

 翌日から、学童の案内を読み、利用できる時間や手続きを確かめた。

 姉の恵にも連絡した。姉には姉の仕事がある。いつでも頼れるわけではないと分かっていたので、遅い勤務の日に迎えを頼めるかと聞いた。

 

『私が休みなら行けるよ。早めに教えて』

 

 返事を読んでから、頼める曜日を一つずつメモした。

 全部が解決したわけではない。それでも、空欄だった場所に、働けそうな時間を書き込めた。

 

 真紀にも、電話で制服と外出のことを話した。

 しばらく黙ったあと、彼女は言った。

 

「あの日のこと、話したんだね」

「うん。直樹、玲奈さんに謝りたいって言ったから。隠したままにできなくて」

「そっか」

 

 私は、メモの端を指で折った。

 

「勝手に頼んだのは、悪かったと思ってる。でも、花までまた怖がってて……」

「遥。働くのを邪魔されることまで、我慢しなくていいよ」

 

 私はうなずいた。電話では見えないと気づいて、うん、と声にした。

 説明するたびに、自分の中でも少しずつ分かってきた。謝らなければいけないことがあるからといって、これから何をされても黙っているしかないわけではない。

 

*

 

 店長の佐伯さんに声をかけたのは、売り場が落ち着いた午後だった。

 

「今より、シフトを増やしていただけないでしょうか」

 

 準備してきたメモを差し出した。

 店長は書類から目を上げ、それを受け取った。

 

「どのくらい入れそう?」

「この曜日なら、夕方まで入れます」

「花ちゃんのお迎えは大丈夫?」

「学童を使えそうです。遅くなる日は、姉にも手伝ってもらえることになって」

 

 言いながら、胸がどきどきした。

 勤務時間を増やしてほしいというだけの相談なのに、途中で駄目だと言われる覚悟ばかりしていた。

 

「そうか。発注の補助、覚えてみる?」

 

 思っていなかった返事だった。

 

「発注ですか?」

「うん。そこもできると、任せられる仕事が増えるから」

 

 いつも並べている商品を思い浮かべた。曜日によって売れ方の違うもの。特売の翌日に、残りを尋ねられるもの。

 分からないことはたくさんある。でも、覚えてみたかった。

 

「……やってみたいです」

「研修の調整もあるし、本部に申請してみるね。返事は少し待ってもらえる?」

「はい。お願いします」

 

 休憩室を出てから、さっき渡したメモの内容を頭の中で確かめた。

 姉の都合も、学童のことも、確認してある。

 浮かれすぎないよう自分に言い聞かせながら、それでも売り場へ戻る足は、来るときより軽かった。

 

 夕方、空いた商品棚を見て、七年前のことを思い出した。

 私が困っていると伝えたら、直樹は二箱を届けてくれた。

 誰かの仕事を滞らせないために、汗をかいてくれた人だった。

 

 今も同じ話ができるのなら、こんなに言葉を選ばなくていいのに。

 

*

 

「今日、店長にシフトを増やせないか相談したの」

 

 夜、学童の案内を手に、直樹へ伝えた。

 

「何で急に?」

「前から、もう少し働けたらって思ってたから」

「俺の給料じゃ足りないって?」

「そうじゃなくて。私も、自分でできることを増やしたい」

 

 直樹は案内の紙を見ようとしなかった。

 

「家のことは、どうするんだよ」

「花は学童を使って。遅い日は姉にも相談してる」

「姉さんには、もう話してるんだ」

 

 声が硬くなった。

 

「お迎えを頼めるか、聞いただけだよ」

「俺には、決めてから報告かよ」

「まだ決まってない。今日、申請してもらったところだから」

「だったら、断れよ。そこまでして働かなくていいだろ」

 

 私は紙の端を握った。

 今から申請を取り下げる自分を想像すると、昼間の店長の声まで遠くなった。

 

「……私、働きたいの」

「俺だって、次の昇進の話が出てるんだ。少しくらい待てないのか」

「お金だけの話じゃないよ」

「何だよ、それ」

 

 説明がうまければ、納得してもらえるのだろうか。

 どんな理由なら、私の希望を認めてもらえるのだろう。

 考えかけて、私はもう一度、同じ言葉を口にした。

 

「私が働きたいの。お願いだから、それまで駄目って言わないで」

 

 直樹はしばらく私を見ていた。

 

「……勝手にしろよ」

 

 賛成してもらえたわけではない。それでも私は、案内を捨てずにしまった。

 

 数日後、店長に事務所へ呼ばれた。

 申請の返事だと思って入った私に、店長は少しためらってから切り出した。

 

「ご主人から、電話があったんだけど」

 

 足元が落ち着かなくなった。

 

「夫から?」

「家でも疲れているから、勤務は増やさず、休ませてほしいって」

「私、そんなこと頼んでません」

 

 思ったより強い声が出た。

 店長はうなずいた。

 

「うん。だから、直接聞いておこうと思って」

「申請、取り消しになったんですか?」

「まだ何も変えてないよ。増やしたい気持ちは、変わってない?」

 

 私は膝の上で手を握った。

 

「はい。働きたいです」

「分かった。じゃあ、そのまま進めるね」

 

 ありがとうございます、と頭を下げた。

 事務所を出ると、いつもの店内放送が流れていた。何度も聞いた音楽が、今日はやけに遠かった。

 

 直樹は店長を知っている。

 私の夫であるだけでなく、この店の取引先でもある。

 

 家の中で終わらなかった。

 私は、そのことが怖かった。

 

 夜、店へ連絡しないでほしいと伝えると、直樹は落ち着いた声で言った。

 

「俺だって、あそこの取引を見てるんだぞ」

「……それが何?」

「店長とは、ずっと付き合いがあるんだ。お前がそう言ったからって、はいそうですかとはならないよ」

 

 私は仕事の鞄へ目をやった。

 制服は、その中にしまってある。

 でも、鞄のファスナーを閉めるだけでは、守れないものがあった。




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