食い尽くし夫の処刑日~妻と娘の取り分まで奪った男の末路~ 作:桐山さくらこ
翌日、直樹は営業部の机で、取引先の特売資料をめくっていた。
いつもの時期に、いつもの商品を、いつもの条件で出す。その裏でどれだけ調整してきたか、佐伯店長だって分かっているはずだった。
家庭のことを少し頼んだだけだ。
それなのに、遥の希望を聞いたから、と押し切ろうとしている。
直樹は電話をかけた。
「妻の勤務の件、どうなりました?」
佐伯は丁寧な声で答えた。
「ご本人に確認しましたが、勤務を増やしたいとのことでしたので、申請は進めています」
「ですから、本人は無理してるんですよ」
「その点もお話ししました。ご本人の希望は変わりませんでした」
直樹は資料の端を押さえた。
遥が家でどんな顔をしているか、この店長は知らない。最近は話せば言い返してくるし、姉や友達とばかり相談している。その上、仕事まで増やしたら、ますますこちらの話を聞かなくなる。
「家でどうしてるかは、俺が一番分かってるんですけどね」
「こちらでは、奥さまご本人と相談して決めていますので」
また、本人。
直樹の説明は、何も判断の材料にならないらしい。
「……うちも、そちらには色々協力してきましたよね」
「はい?」
「特売の時だって、こっちで何とか調整して。店長が困らないように、やってきたつもりですけど」
受話器の向こうで、短い間が空いた。
「それは、いつも助かっています。ただ、奥さまの勤務とは――」
「こっちが困ってる時は、聞いてもらえないんですね」
少しは譲ってくれてもいいだろう。
今日まで築いてきた関係がある。その話を出せば、店長も無下にはできないはずだった。
「ご本人の希望を、ご主人のお話だけで変えることはできません」
直樹の指が資料から離れた。
「でしたら、今後の特売への協力も、考え直させてもらいます」
言ってから、自分の声が大きくなっていたことに気づいた。
近くの席に目をやり、受話器を持ち直す。
「妻の勤務を増やすというなら、そうなります」
佐伯の声が、今までより硬くなった。
「それは、御社として決まったお話ですか」
直樹は口を閉じた。
誰にも相談していなかった。家庭の話を部長に持ち込むつもりなどなかったし、本当に特売の協力をやめる必要もないと思っていた。
店長が分かってくれれば、それで終わる。
「……そう思っていただいて結構です」
「では、内容をメールでいただけますか。取引の件でしたら、本部に確認が必要です」
「メールまで、必要ですか」
「はい。正確に伝えたいので」
ここで、やはり電話だけの相談にしてほしいとは言えなかった。
直樹は分かりましたと答え、電話を切った。
新規メールを開く。普段、特売の相談をするときと同じ会社のアドレスが、送信元に表示された。
『妻の勤務時間を増やされる場合、今後の特売への協力は見直させていただきます』
打ち終えた文を、直樹は一度読んだ。
強すぎるだろうか、と指が止まった。だが、曖昧にすれば、さっきと同じ話を繰り返すことになる。
勤務を増やさなければ、それでいいのだ。
直樹は送信を押した。
画面からメールが消えたあと、特売資料を閉じて、隣の仕事を手に取った。
*
店長が差し出した紙には、直樹の名前が印刷されていた。
いつも業務の連絡に使っている、会社のメールアドレスも。
「勤務を増やすなら、協力を見直すと」
私は本文を読み直した。
たった一文だった。
昨日まで私が考えていた勤務の曜日も、学童の時間も、発注を覚えてみたい気持ちも、その一文には入っていなかった。
「これ、会社で決まったことなんですか?」
「今、本部から先方の責任者に確認してもらってる」
紙を持つ指が冷たくなった。
「私のシフトは……」
「返事は、もう少し待ってもらえるかな」
「増やせなくなるんですか?」
「まだ決まっていないよ。まず、向こうの会社の話を確かめないと」
店長は、今入っている勤務を減らす話ではないからと付け加えた。
私はうなずいた。でも、よかったと思う余裕はなかった。
勤務を増やせなければ、花と暮らす部屋を借りる見通しが立たない。
また、あの家で待つことになる。
直樹の機嫌が直るのを。私の希望を、許してくれるのを。
「私、仕事を続けたいんです」
声が少し震えた。
「シフトも、増やしたいです。夫がまた何か言ってきても、私に確認してもらえませんか」
「分かった。必ず聞くよ」
店長は私を見て、そう言った。
ありがとうございます、と答えたあと、もう一度、紙の上の送信者を見た。
私の仕事を知っている人だった。
特売の準備に追われる売り場も、夕方まで品出しをする私も、見てきた人だった。
知らずに困らせているのではない。そのことが、いちばん苦しかった。
*
「店、どうだった?」
帰宅すると、直樹が聞いた。
私の手には、まだ通勤の鞄があった。
「シフトの話」
答えない私に、夫は言い足した。
「……何で、あんなメール送ったの?」
「だから、無理するなって言っただろ」
「店長、困ってたよ」
「最初から、俺の話を聞いてくれればよかったんだよ」
私は鞄の持ち手を握った。
家に着くまで、泣かずに済んでいた。電車の中でも、道を歩いている間も、今は考えないようにしていた。
夫の前に立った途端、その我慢がほどけた。
「私の希望なのに……」
「そんなに必死にならなくても、暮らしていけるだろ?」
頬に涙が伝った。
直樹は私を見て、声を柔らかくした。
「お前は、家にいればいいんだよ。俺がいるんだから」
夫が手を差し出した。
以前なら、頼もしいと思ったかもしれない。もう頑張らなくていいと言われたのだと、自分を納得させたかもしれない。
けれど、その手は、私が進もうとした道を自分でふさいだ人の手だった。
「最初から素直にしてれば、こんなことにならなかったのに」
直樹の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
制服を抱えて謝っていた朝にも、同じ顔を見た。
ああ、と私は思った。
私が困っている。自分でどうにもできなくなって、泣いている。
そのことに、この人は安心している。
「……分かった」
「うん」
直樹は満足したようにうなずき、テレビの前へ戻った。
私は入口に立ったまま、涙を拭いた。
仕事をやめるとは、言っていない。
あなたが何を望んでいるのか、分かった。
もう、その望みどおりには暮らせない。
私は鞄を持って寝室へ行き、スマートフォンの連絡先から、姉の名前を探した。
*
翌朝、直樹はいつもどおり出勤した。
「行ってくる」
「……うん」
花も学校へ送り出し、一人になってから姉に電話をかけた。
昨夜は連絡先を開いたまま、何度も画面を閉じた。花の迎えを頼んだばかりなのに、これ以上何を頼めるだろうと考えていた。
それでも、朝になっても、帰りたくない気持ちは消えなかった。
「お姉ちゃん。今、話しても大丈夫?」
「うん。シフトのこと?」
「それが……まだ、増やせるか分からなくなっちゃって」
取引を理由に、直樹が店へ連絡したことを話した。
姉は途中で口を挟まなかった。その沈黙があったから、私は制服のことも、外出を潰されたことも話せた。
「わざと?」
「うん。私が困るの、分かっててやってるんだよ」
言い終えたあと、喉が詰まった。
大げさに言いすぎたのではないかと、いつもの癖で考えた。けれど、何も足していない。実際にあったことを話しただけだった。
「ごめん。もっと早く、話せばよかった」
「今、直樹さんは?」
「会社。花も学校に行った」
姉は少し考えてから言った。
「今夜、花と二人で来られる?」
私は顔を上げた。
「……いいの?」
「うん」
「すぐに部屋を借りられるか、分からないんだけど」
「しばらくなら泊まれるよ。その間に、一緒に考えよう」
リビングを見回した。
いつものソファ。直樹の置いたリモコン。三人分の椅子。
新しい部屋の契約ができるまで、ここにいなければいけないと思っていた。仕事が増え、必要なお金を計算できるようになるまで、何とかしのぐつもりだった。
「迷惑、かける……」
「いいから。まず、こっちにおいで」
私は電話を持ったまま泣いた。
姉は急かさずに待っていてくれた。落ち着いてから、花を迎えたあとに向かうことと、必要な荷物を相談した。
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